『セデック・バレ』 成熟した目
ウェイ・ダーション監督の前作『海角七号/君想う、国境の南』はリゾートの海辺を舞台にした軽やかな音楽青春映画で、宛先不明の日本人の手紙が重要な役割をはたしていた。このブログで取り上げたとき、監督の次回作についてこんなことを書いている。
「次回作は霧社事件をテーマにした『賽徳克・巴莢』だという。『海角七号』は全体として親日的な空気に包まれているけど、霧社事件は日本植民地時代に少数民族が蜂起した事件だ。どう転んでもエンタテインメントにはならない。『海角七号』でさらりとスケッチされたテーマ群が、反転して前面に出てくるのだろうか。興味がある」(2010年1月11日)
予想は見事に裏切られた。『セデック・バレ(原題:賽徳克・巴莢)』は第1部「太陽旗」第2部「虹の橋」4時間30分の長尺をまったく飽きさせないエンタテインメントになっていたんですね。ハリウッドで活躍するジョン・ウー監督が製作に加わっていることもあるかもしれない。山地で狩猟する先住民セデック族同士の「首狩り」戦争や、日本人に対する蜂起、ゲリラ戦での抵抗と日本軍による鎮圧といった過程がアクションたっぷりの歴史ドラマに仕立てられている。
しかもイデオロギッシュな反日映画ではなく、セデック族から見た事件、日本人から見た事件、そして映画の背後にある監督の台湾人としての視線、といったさまざまな眼差しが総合されている。役者には先住民系と、日本人役には日本人を起用し、セリフもセデック族の言葉と日本語が中心。これはすごい。台湾映画の成熟を示す一作だと思う。台湾で大ヒットし、海外の映画祭にも出品された。
主役はセデック族マヘボ社(集落)のリーダー、モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)。山岳地帯の森に暮らす先住民のセデック族は部族ごとに対立し、狩場をめぐって互いに争っている。対立する部族の首を狩ると顔に刺青を入れることを許され、勇者とたたえられる。死ぬと勇者だけが「虹の橋」を渡って先祖の魂が住む場所へ行くことができる。首狩りの風習はともかく、死後の魂については狩猟を営む世界中の民族に多かれ少なかれ共通する信仰だろう。
映画は冒頭、青年のルダオが相手部族の首を狩り、村へ帰って勇者とたたえられるところから始まる。集落には、猪の頭蓋骨の山と同じように、たくさんの人間の頭蓋骨が並んでいる。それはことさら異様なものとして描写されるのでなく、動物を狩って生きる狩猟民族の行為の延長線上のものと見える。監督はこれを、「文明」から見た「野蛮」ではなく、狩猟民族が猪の首を狩るのと同じ精神にのっとった行いとして、ごく自然に描いている。そういう視線が成熟を感じさせる。雨と霧の多い森の紫色に染まった映像が素晴らしい。
壮年になったルダオは日本の統治下、日本人に従順なリーダーとして鬱屈した生活を送っている。息子や村の若者たちは強制的に働かされ、日本人警官(木村祐一ら)にあざけりを受けている。村の若者のうち二人は日本名を与えられ、教育を受けさせられて警官助手になり、やはり日本名を持つ妻と日本家屋で着物を着る生活を送って(送らされて)いる。日本人警官の横暴に不満を募らせたルダオの息子たちが蜂起に向けて動き出すとき、日本名を持たされた二人の警官助手の苦悩と決断が映画のサブ・ストーリーになる。これは、現実にあった話をそのまま映画に取り入れたものだ。
マヘボ社と対立する集落に駐在する日本人警官・小島(安藤政信)はセデック族に親しみを持ち、集落のリーダーと信頼関係を築いている(前作『海角七号』で手紙を書いた日本人も小島という名だった)。この集落のセデック族はルダオたちの蜂起後、日本軍の配下として彼らを攻撃する側に回る。日本軍がルダオ討伐のため彼らに対立する先住民を使ったのも現実にあった話。抑圧する側と抑圧される側の単純な図式でなく、植民地支配の複雑で残酷な構造が描かれる。
ルダオを指導者に300人が武装蜂起し、霧社の学校で開かれていた運動会を襲って134人の日本人を殺すところまでが第1部。襲撃後、ルダオが国旗掲揚台の基部に座り、降ろされた日の丸の上に座って天を仰ぐ。カメラが上方へ移動して、真上からルダオとその周囲に累々と散る死体を俯瞰するラストショットが心に残る。
第2部「虹の橋」は日本軍による鎮圧と蜂起の壊滅まで。日本軍は警官、軍隊、対立する先住民を動員して蜂起を制圧にかかる。武装といっても狩り用の太刀しか持たないセデック族に対し、日本軍は圧倒的な兵力に加え航空機、毒ガスまで用いて攻撃をしかける。ルダオたちは急峻な地形を生かしてゲリラ戦を展開するのだが……。追いつめられた若者や女性がセデック族の魂を守るため自決してゆくさまや、ルダオが姿を消して伝説となってゆく姿が描かれる。
「虹の橋」は、1部と同じように(あるいは1部以上に)アクションと戦闘シーンがつづく。でもその底に流れているのは、ルダオたちが先住民としての魂と誇りを守りつつどのように死んでいったかという視点。だからアクションの果てに、男たちが見る幻想的なシーンが挿入されていたりする。山に咲く赤い桜が殺された先住民の血の色に見えてくる。
映画は大筋で事実に基づいている。かつて植民した側の人間として、心痛まずには見られないシーンも多い。でもこの映画はそれを告発したり恨みを言いつのっているわけではない。歴史として、距離をおいた成熟した目ですべてを見ている。
ルダオを演じたリン・チンタイはプロの役者ではなく、先住民系タイヤル族の部落の長で教会の牧師さんだそうだ。魂のありかを感じさせる風貌の持ち主。若者たちを演ずる役者は先住民系とはいえみな現代の都会に生きる顔をしてるけど、この人だけは森に生きる男の顔を持っている。彼が語ることでセデック族の魂の神話がリアルなものとして感じられた。
Comments
そうですね。何かを糾弾するための作品ではない。あくまでも史実としての出来事を描いていました。
誰だって自分たちの基盤を壊されるのは耐え難い。しかし歴史とはその繰り返しでできており、セデック族と日本はその歴史の流れに巻き込まれてしまったに過ぎないのだと思います。
いつの時代も支配する側は残虐です。しかしそれはどの民族にも起こりうること、攻守逆転してもおかしくはない。心して観よという作品でした。
Posted by: rose_chocolat | July 05, 2013 01:54 PM
こういう出来事を被害者側が史実として描けるのも、台湾社会が成熟しているからでしょうね。とはいえ、忘れているわけではないですから、台湾でこうした事件があったことをわれわれも記憶しておかなければならないでしょう。
作品としてはセデック族の神話を軸にしたことで、映画として一本筋が通ったと思います。
Posted by: 雄 | July 06, 2013 03:11 PM