May 29, 2013
May 27, 2013
May 24, 2013
『ビル・カニンガム&ニューヨーク』 スナップの流儀
Bill Cunnigham New York(film review)
ビル・カニンガムはニューヨークの写真家。『ニューヨーク・タイムズ』で路上ファッションを記録する「オン・ザ・ストリート」や夜毎のパーティー参加者を撮った「イブニング・アワーズ」を50年にわたって担当している(ウェブ版でも見ることができる。最新の「オン・ザ・ストリート」は脚の装いを特集していた)。『ビル・カニンガム&ニューヨーク(原題:Bill Cunningham New York)』は彼を10年かけて追ったドキュメントだ。
朝、カーネギー・ホール上層階のスタジオに住む84歳のカニンガムは、愛用の自転車に乗って街に繰り出す。この日向かったのは5番街と57丁目の角。ニューヨークは、僕の印象ではパリのように誰もが自分に合ったファッションを楽しんでいる街じゃない。よれよれのTシャツとジーンズを気にせず歩いている人のほうが多数派かもしれない。その一方で、すれ違う皆が振り返る新奇なファッションに挑戦する人の数が多いのがニューヨークだし、素晴らしくシックなファッションを着こなしている人もいる。
その意味で、ティファニーやトランプ・タワーのそば5番街と57丁目の角は、この街でいちばんファッション感度の高いところだろう。カニンガムはその交差点の角に立って道行く人々をスナップしはじめる。カメラはニコンの旧型フィルム一眼レフ。
アメリカは肖像権にうるさい国だけど、映画を見ている限り声をかけることがある一方、黙って撮っていることもあるみたいだ(別の場所でアフリカ系通行人に「カメラをぶっ壊すぞ」と言われてた)。かつて写真雑誌を編集していた当方、トラブルはないんだろうかと心配してしまう。
以前、高名な写真家がこの町で路上スナップする傍らで、助手が承諾書片手に被写体にサインをもらっていたと読んだことがあるけれど、そんなこともなさそうだ。もっともカニンガムの撮る写真は愛にあふれているし、『ニューヨーク・タイムズ』の名物ページに掲載されて喜びこそすれ怒る人間はいないのかも。
路上撮影を終えたカニンガムは、ニューヨーク・タイムズのオフィスに向かう。現像の上がったフィルムを見て候補をチェックする。それをスキャンして、担当者とモニターを見ながらあれこれ構成を考える。カニンガムは孫のような歳の担当者と互いに意見をぶつけあう(後で出てくる誕生祝いの社内パーティで、彼は「ここにいる全員とケンカしたよ」と挨拶してた)。
夜、パーティに出かける前にカニンガムは社内で簡単な食事を取っている。パーティーでは水一杯飲まないのが彼の流儀。出かけるのはドラッグ・クイーンが集まるパーティーから上流社交界のパーティまでさまざまだ。6年前105歳で亡くなった社交界の元花形ブルック・アスターも映っている。ブルックは建国初期からの大富豪アスター一族の御曹司未亡人で、相続した莫大な財産を寄付する慈善活動で有名だった(息子が認知症のブルックから財産を盗んだスキャンダルも有名)。映画に映るブルックはまだ元気にスピーチするお婆さんだ。
人びとは着飾っているのに、それを撮るカニンガム自身が着ているのはパリの路上清掃人の青い上っ張り。パーティーが終わると、その上に路上工事の作業員が着ける蛍光ベストを着て自転車でスタジオへ戻る。走る車の前を横切って怒鳴られたり、カニンガムの運転はけっこう危なっかしい。自宅の狭いスタジオはフィルムを納めたキャビネットであふれ、寝るスペースがあるだけ。バス・トイレも共用で、独身だから部屋で食事することもない。
これがカニンガムの1日。来る日も来る日も、これを50年つづけているんだからすごい。「僕は仕事をしているんじゃなく好きなことをやってるだけ」だからこそ(若い頃は撮影料を受け取らなかったこともある)、こんなに長い時間を持続できるんだろう。
ファッション写真家だから、ファッション・シーンも撮る。ショーの撮影で、ほとんどのカメラマンはランウェイ正面に三脚を据えて撮るけれど、カニンガムは脇に座ってここでも手持ちでスナップ。路上やパーティーはもちろん、中判カメラを使うことの多いファッションでも彼のやり方で押し通す。「ファッションは生きのびるための鎧のようなもの」と語るカニンガムにとって、ショーも「商品」として撮っているのではないみたいだ。だからこそスナップなのであり、それこそ彼が意識的に選んだスタイルなんだろう。
スナップショットを撮るとき、写真家は街の空気や音、匂いやリズムに敏感に反応し、街と一体化する。だからカニンガムが50年にわたって路上で、パーティーで、ファッション・シーンで、上流階級から普通の人々まで階層を横断して撮った写真の総和は、ほとんどニューヨークという街に等しい。なんともうらやましい生き方。こういうジイサンになりたいもんだ。
リチャード・プレス監督の長編第1作で、製作、撮影、編集はいずれもニューヨーク・タイムズのスタッフ。
May 20, 2013
京都そぞろ歩き
翌日は京都をそぞろ歩き。午前中は嵐山へ。雨模様の日曜日、紅葉や桜の季節に比べれば人出はうんと少ない。雨に濡れた新緑が美しい。
二尊院。ここの釈迦如来像、阿弥陀如来像は見たことがなかった。写真から想像していたのよりずっと小さな仏像。
展示されていた法然の「七ケ条制誠」。巻末に百数十人の弟子が署名していて、そのなかに親鸞の「僧綽空」もあった。お世辞にも上手な字とはいえず、整っていないのが親鸞らしいというか。
祇王寺。
常寂光寺。
小倉山の麓にある常寂光寺から京都市街を見る。
雨足が激しくなってきたので午後は市内へ。三条烏丸の六角堂。
聖徳太子創建と伝えられる古い寺で、叡山で修行していた親鸞が百日参籠したことで有名。親鸞自ら彫ったと伝えられえる、修行姿の親鸞像がある。
煩悩を捨てられない親鸞の夢にここの本尊、如意輪観音が現れ、「もしお前が女なしでいられないなら、私が美しい女になってお前に犯されてやろう、そして死ぬときはお前を極楽に導いてやろう」と告げた(梅原猛『京都発見・2』)。こういうことを平然と書き記す親鸞は当時、過激な仏教者だったんだろう。ここから妻帯を認める親鸞の仏教が生まれた。
イノダコーヒでひと休みし錦小路で漬物とお茶を買って、地下鉄五条駅まで路地から路地をそぞろ歩き。雨で裏通りに人影はない。
May 18, 2013
『セデック・バレ』 成熟した目
ウェイ・ダーション監督の前作『海角七号/君想う、国境の南』はリゾートの海辺を舞台にした軽やかな音楽青春映画で、宛先不明の日本人の手紙が重要な役割をはたしていた。このブログで取り上げたとき、監督の次回作についてこんなことを書いている。
「次回作は霧社事件をテーマにした『賽徳克・巴莢』だという。『海角七号』は全体として親日的な空気に包まれているけど、霧社事件は日本植民地時代に少数民族が蜂起した事件だ。どう転んでもエンタテインメントにはならない。『海角七号』でさらりとスケッチされたテーマ群が、反転して前面に出てくるのだろうか。興味がある」(2010年1月11日)
予想は見事に裏切られた。『セデック・バレ(原題:賽徳克・巴莢)』は第1部「太陽旗」第2部「虹の橋」4時間30分の長尺をまったく飽きさせないエンタテインメントになっていたんですね。ハリウッドで活躍するジョン・ウー監督が製作に加わっていることもあるかもしれない。山地で狩猟する先住民セデック族同士の「首狩り」戦争や、日本人に対する蜂起、ゲリラ戦での抵抗と日本軍による鎮圧といった過程がアクションたっぷりの歴史ドラマに仕立てられている。
しかもイデオロギッシュな反日映画ではなく、セデック族から見た事件、日本人から見た事件、そして映画の背後にある監督の台湾人としての視線、といったさまざまな眼差しが総合されている。役者には先住民系と、日本人役には日本人を起用し、セリフもセデック族の言葉と日本語が中心。これはすごい。台湾映画の成熟を示す一作だと思う。台湾で大ヒットし、海外の映画祭にも出品された。
主役はセデック族マヘボ社(集落)のリーダー、モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)。山岳地帯の森に暮らす先住民のセデック族は部族ごとに対立し、狩場をめぐって互いに争っている。対立する部族の首を狩ると顔に刺青を入れることを許され、勇者とたたえられる。死ぬと勇者だけが「虹の橋」を渡って先祖の魂が住む場所へ行くことができる。首狩りの風習はともかく、死後の魂については狩猟を営む世界中の民族に多かれ少なかれ共通する信仰だろう。
映画は冒頭、青年のルダオが相手部族の首を狩り、村へ帰って勇者とたたえられるところから始まる。集落には、猪の頭蓋骨の山と同じように、たくさんの人間の頭蓋骨が並んでいる。それはことさら異様なものとして描写されるのでなく、動物を狩って生きる狩猟民族の行為の延長線上のものと見える。監督はこれを、「文明」から見た「野蛮」ではなく、狩猟民族が猪の首を狩るのと同じ精神にのっとった行いとして、ごく自然に描いている。そういう視線が成熟を感じさせる。雨と霧の多い森の紫色に染まった映像が素晴らしい。
壮年になったルダオは日本の統治下、日本人に従順なリーダーとして鬱屈した生活を送っている。息子や村の若者たちは強制的に働かされ、日本人警官(木村祐一ら)にあざけりを受けている。村の若者のうち二人は日本名を与えられ、教育を受けさせられて警官助手になり、やはり日本名を持つ妻と日本家屋で着物を着る生活を送って(送らされて)いる。日本人警官の横暴に不満を募らせたルダオの息子たちが蜂起に向けて動き出すとき、日本名を持たされた二人の警官助手の苦悩と決断が映画のサブ・ストーリーになる。これは、現実にあった話をそのまま映画に取り入れたものだ。
マヘボ社と対立する集落に駐在する日本人警官・小島(安藤政信)はセデック族に親しみを持ち、集落のリーダーと信頼関係を築いている(前作『海角七号』で手紙を書いた日本人も小島という名だった)。この集落のセデック族はルダオたちの蜂起後、日本軍の配下として彼らを攻撃する側に回る。日本軍がルダオ討伐のため彼らに対立する先住民を使ったのも現実にあった話。抑圧する側と抑圧される側の単純な図式でなく、植民地支配の複雑で残酷な構造が描かれる。
ルダオを指導者に300人が武装蜂起し、霧社の学校で開かれていた運動会を襲って134人の日本人を殺すところまでが第1部。襲撃後、ルダオが国旗掲揚台の基部に座り、降ろされた日の丸の上に座って天を仰ぐ。カメラが上方へ移動して、真上からルダオとその周囲に累々と散る死体を俯瞰するラストショットが心に残る。
第2部「虹の橋」は日本軍による鎮圧と蜂起の壊滅まで。日本軍は警官、軍隊、対立する先住民を動員して蜂起を制圧にかかる。武装といっても狩り用の太刀しか持たないセデック族に対し、日本軍は圧倒的な兵力に加え航空機、毒ガスまで用いて攻撃をしかける。ルダオたちは急峻な地形を生かしてゲリラ戦を展開するのだが……。追いつめられた若者や女性がセデック族の魂を守るため自決してゆくさまや、ルダオが姿を消して伝説となってゆく姿が描かれる。
「虹の橋」は、1部と同じように(あるいは1部以上に)アクションと戦闘シーンがつづく。でもその底に流れているのは、ルダオたちが先住民としての魂と誇りを守りつつどのように死んでいったかという視点。だからアクションの果てに、男たちが見る幻想的なシーンが挿入されていたりする。山に咲く赤い桜が殺された先住民の血の色に見えてくる。
映画は大筋で事実に基づいている。かつて植民した側の人間として、心痛まずには見られないシーンも多い。でもこの映画はそれを告発したり恨みを言いつのっているわけではない。歴史として、距離をおいた成熟した目ですべてを見ている。
ルダオを演じたリン・チンタイはプロの役者ではなく、先住民系タイヤル族の部落の長で教会の牧師さんだそうだ。魂のありかを感じさせる風貌の持ち主。若者たちを演ずる役者は先住民系とはいえみな現代の都会に生きる顔をしてるけど、この人だけは森に生きる男の顔を持っている。彼が語ることでセデック族の魂の神話がリアルなものとして感じられた。
May 17, 2013
最後の東京クヮルテット
Tokyo String Quartet last concert
今年解散する弦楽四重奏団、東京クヮルテットの最後の日本ツアーが行われている。東京オペラシティでの公演に出かけた(5月16日)。
第2ヴァイオリンの池田菊衛君は中学・高校の同級生。この10年あまり、アメリカを本拠にするクヮルテットが日本へ来るたびに仲間と聞きにいくのを楽しみにしていた。僕がニューヨークに滞在していたときもカーネギー・ホールの公演に誘ってくれたり、郊外の自宅に招かれてご馳走になったり、すっかりお世話になっている。
この日のメインはベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番。ベートーヴェン弦楽四重奏全16曲を録音した「全集」は東京クヮルテットの代表作で、そこからのチョイスが最後にふさわしい。僕は東京クヮルテット以外に室内楽をあまり知らないけれど、初心者が聞いてもそれと分かる入魂の演奏。見事なアンサンブルと絹の手触りの音色。いつまでも拍手が鳴りやまなかった。
コンサート後のレセプション。池田君(左端)が「野球だと打率3割で評価されるけれど、9割以上でもダメなのがこの世界。まだやれるのにと惜しまれるうちに解散することを決めました」と挨拶した。池田君の右が第1ヴァイオリンのマーティン・ビーヴァーさん、その右(手前)の白髪の紳士が創設メンバーでヴィオラの磯村和英さん、右端がチェロのクライヴ・グリーンスミスさん。44年間、お疲れさまでした。
May 15, 2013
ベニー・ゴルソンを聞く
小柄なベニー・ゴルソンがテナー・サキソフォンを胸に大事そうにかかえてステージに上がり最初の音を出したとき、ああ、ゴルソンの音だ、と胸がいっぱいになった。柔らかで、スモーキーな音。5月の気持ちよい風が頬をなでる都会の夜、ダウンタウンの路上で聞こえてくる音、とでも言ったらいいのか。ざらっとして温かいゴルソンの音色はワン・アンド・オンリー。ファンならすぐ聞きわけられる。
6年前ニューヨークに滞在したとき、ぜひ聞きたかったミュージシャンのひとりだったけど機会がなかった。最初で最後になるかもしれないと思い、この日を楽しみにしていた(表参道・BLUE NOTE、5月15日)。今年84歳。自分のソロが終わると用意された椅子に座って休んでいたけど、その間もサイドメンへの笑顔を絶やさず、サックスを吹きはじめれば力感あふれる。
ベニー・ゴルソンでいちばん有名なのは、テレビCMに使われたこともある「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」だろうな。まったりしたカーティス・フラーのトロンボーンにゴルソンのかすれるサックスを重ねて、なんともブルージーな演奏だった。「アフター・ダーク」はゴルソンの手になる曲だけど、彼はプレイヤーと同時に作曲家として(さらには編曲者としても)一流。今もスタンダードとして演奏されるたくさんの名曲がある。
今夜はそのなかから極めつきの2曲、「ウィスパー・ノット」と「アイ・リメンバー・クリフォード」を。「アイ・リメンバー」は26歳で事故死した友人のトランペッター、クリフォード・ブラウンを悼んだバラード。僕はMJQの演奏がいちばん耳になじんでるけど、ゴルソンひとりで入ったイントロからテーマの切々とした演奏に思わず涙した。
バックはマイク・ルドン(p)、バスター・ウィリアムズ(b)、カール・アレン(ds)。はじめて聞いたマイクのピアノが素晴らしい。ビル・エバンスとマッコイ・タイナーをかけあわせたようなピアノが、グループの音を50年代でなく今のものにしている。ゴルソン抜きのトリオで1曲だけ、「アイ・ディドン・ノウ・ホワット・タイム・イット・ワズ」を演奏。ほかの曲がスロー・バラードかミディアム・テンポだったので、アップテンポの演奏ががらっと雰囲気を変えた。
別に新しいことをやってるわけじゃない。スタンダードや自分の名曲を、ハードバップ時代と同じスタイルでやっているだけ。でもゴルソンの音色、ゴルソンのメロディは今も生まれたてのように新鮮。至福の時でした。
May 09, 2013
『天使の分け前』 泥棒の倫理
The Angels' Share(film review)
以前、ケン・ローチ監督の『SWEET SIXTEEN』を見たことがある。服役中の母が出所するのを機に家族そろった生活を夢見る15歳の少年が心ならずも麻薬の売人になり、そこから抜け出そうともがきつつ人を刺してしまう。悲しい結末の映画だった。
この映画をネガとすれば、『天使の分け前(原題:The Angels' Share)』はポジ。主人公のロビー(ポール・ブラニガン)も彼をつけねらう男の首にナイフを突きつけ、刺しそうになるが、ぎりぎりのところで思いとどまる。下層社会に育ち犯罪に巻き込まれた少年が自滅していく姿をリアリズムで描いたのが『SWEET SIXTEEN』なら、辛うじて踏みとどまり新しい人生を始めるまでをユーモアたっぷりに描いたのが『天使の分け前』。
ローチ監督は一貫して階級社会イギリスの底辺に生きる人間に目を向けてきたけれど、初期作品には過酷な現実を直視したものが多いのに対して、最近は前作『エリックを探して』のように笑いを交え希望に満ちたラストで終わる作品もつくるようになった。映画のもつ社会的力について、ローチ監督の考えも年とともに多様になったということだろうか。
ロビーはドラッグをやって少年に暴行を加え、刑務所へ行くかわりに社会奉仕活動を命じられる。子供が生まれたロビーは過去を断ち切り、新しい生活を始めることを妻に誓う。奉仕活動のコーディネーター、ハリー(ジョン・ヘンショー)はロビーを自宅に呼んで、趣味であるウィスキーのテイスティングを教える。ロビーは3人の奉仕活動仲間とテイスティングにのめりこみ、秘められた才能を開花させる。スコットランド北部で100万ポンド(1億4000万円)の値がつく貴重なモルトの樽が見つかり、競売にかけられることを知ったロビーは仲間とヒッチハイクで出かけて……。
「天使の分け前」とはウィスキーが樽で熟成される間に年2%蒸発する、その2%分を指すそうだ。天が自然の摂理によって美味なウィスキーを人間に贈ってくれる。蒸発する2%は、そんな人類へのプレゼントを贈ってくれる天使の取り分ということだろう。映画ではその2%をロビーたち4人が得、ローチ監督はそれを「天使の分け前」と呼んだ。
ロビーたちがやった行為はありていに言えば盗みであり、法に反する行為にほかならない。それがなぜ「天使の分け前」なんだろう。
映画には泥棒ものというジャンルがある。『オーシャンズ11』や、古いところで『ピンクパンサー』とか『トプカピ』、『オーシャンズ11』のオリジナル『オーシャンと11人の仲間』もあった。アニメの『ルパン3世』もある。こうした泥棒もので盗みはゲームであり、盗む側と盗まれる側の知恵比べがテーマになる。だからその行為の善悪はとりあえず棚上げされている。『オーシャンズ11』や『ルパン3世』を見て、それは法に触れるでしょ、と言うのは野暮というもの。首尾よく宝石や王冠を盗めば、見る者は胸のすく思いで喝采を送る。それがジャンル映画のお約束。
でも『天使の分け前』は泥棒もののジャンル映画じゃない。映画前半はロビーたち下層階級の男と女が犯罪を犯し、そのために苦闘する姿をユーモアたっぷりだけどリアリズムで描写する。後半はお約束のジャンル映画に近くなるけれど、前半でリアルな現実を突きつけらているから、見る者は後半の2%の泥棒を単純なゲームとは受け取れない。ということは、ここでは善悪が棚上げされているわけではない。
僕には、ケン・ローチ監督はそのことを踏まえて「天使の分け前」というタイトルをつけたように見える。監督はあからさまには言ってないけれど、ウィスキーひと樽に1億円以上出すアメリカやロシアの富豪に対して、ロビーたちがきちんと生きる資金として2%をちょうだいするのは天が認める行為であり、「天使の分け前」と呼んで構わないのだと。それは誤読、あるいは深読みにすぎるだろうか。でも僕にはそれがケン・ローチ監督の真骨頂に思える。
それにしても、スコッチのモルト・ウィスキーにもワインと同じようなテイスティングがあり、ワインと同じような形容詞を使って語るのは面白かった。僕はグレンフィディックとかマッカランくらいしか飲んだことがないけれど、今度飲むときはテイスティングしてみよう。
銀座テアトルシネマの閉館が発表され、最後の作品。最後ということもあってか場内は混んでたけど、単舘ロードショー系の映画館が少なくなっていく流れは止まらない。同じ銀座で閉館が決まったシネパトスはB級ムービーの殿堂だったけど、映画好きな大人の観客が減っているということなのか。
May 07, 2013
『ホーリー・モーターズ』 カラックス脳内映画館
長~い車体をもつ白色のリムジンが映画の舞台になっている映画を立てつづけに2本見た。デヴィッド・クローネンバーグの『コズモポリス』とレオス・カラックスの『ホリー・モーターズ(原題:Holy Motors)』。僕はクローネンバーグが好きでおおよその作品は見ている一方、カラックスはちゃんと追いかけてないんだけど、今回はカラックスのほうが圧倒的に面白かった。
『コズモポリス』のリムジンは、若くして投資会社を成功させた富豪のオフィス、というより城、あるいは母の胎内のようなもの。リムジンに客を入れて商談し、愛人とセックスし、車内で排泄もする。暗殺者が主人公の命を狙ったり、反ウォール街のデモ隊の男が死んだネズミを投げつけ「今日からネズミが通貨になった」と叫んだり、部分的にはすごく面白いんだけど、全体としては退屈な作品だった。
『ホリー・モーターズ』と比べるとき、その面白さの差は映画(motion picture)の基本的な要素である運動(motion)にあると思う。運動という言葉を広く考えれば、この映画は世界通貨がドルやウォンから死んだネズミに移行する予兆を捉えた運動の映画と言えるかもしれないけれど、いま言っているのはそんな観念的なことでなく、物理的空間的な運動のこと。アクションと言い換えてもいい。『コズモポリス』には面白いアイディアや設定はあっても、映画の基本である運動が乏しかった。
『ホリー・モーターズ』は、この作品が映画についての映画であり、映画の核は運動であることを最初から明らかにする。冒頭、舞台上で男が踊るように動く連続写真(というか、コマ落としの映画)の映像が流れる。19世紀、連続写真を撮影する機械、写真銃を発明したエティエンヌ=ジュール・マレーが撮った映像だ(マレーには『運動』という著作もある)。このマレーの連続写真のアイディアが、後に映画へと発展する。
それにつづいてレオス・カラックス本人が登場し、指先が金属製の鍵になっているカラックス(この映画はリアリズムではない、ということですね)がその指で秘密の扉を開けると、暗い映画館のなか。スクリーンではキング・ヴィダーのサイレント映画『群集』が上映されている。その後で主人公・オスカー(ドニ・ラヴァン)が登場する。ドニ・ラヴァンはカラックス初期の3本の映画に主演して3作ともアレックスという同じ名の役を演じ、監督の「オルター・エゴ」と呼ばれる。いわばカラックスの分身。
オスカーは白いリムジンでパリの町から町を移動し、車内でメイクし衣装を着けてクライアントが求める役柄を演ずる。早朝から深夜までにオスカーは11の役柄を演ずる。『ホリー・モーターズ』は、言ってみればカラックスの脳内映画館のようなものなんでしょうね。
例えばひとつの役柄で、全身をタイツでおおい表面にたくさんの光源をつけたオスカーがモーションキャプチャーというのかな、アニメーションの動きの素材になる男女の絡みを演ずる。闇のなかで夜光虫のようにエロティックにうごめく男と女の運動が、先ほど見たマレーの連続写真に重なってくる。物語性なしの純粋な運動の美しさ。
例えばメルドという役柄は、カラックスの前作『TOKYO!<メルド>』の主人公・メルドそのまま。『ノートルダムのせむし男』を連想させる怪異なメルドがパリのマンホールから下水道にもぐったり、花を食いながら墓場を走ったり、運動しつづける。メルドが走るシーンにおなじみの『ゴジラ』のテーマ音楽が流れる。墓場では撮影中の美女(エヴァ・メンデス)を誘拐して地下の洞窟に連れ込む。カメラマンはメルドを見て、『美女と野獣』のような写真のモデルになってくれと頼む(フリークスを撮影した写真家、ダイアン・アーバスの名も出てくる)。過去のいろんな映画や映像の記憶が重ねられる。
閉館し廃墟となったデパートのなかで、オスカーとエヴァ(カイリー・ミノーブ)が対話するエピソードも素敵だ。19世紀ふうに装飾された階段を上下して、見上げたり見下ろしたりの映画的運動をうまく使い、さらに屋上へ移動してパリの夜景を背景に「私たちは誰だったの?」と会話を交わす2人がなんとも美しい。エヴァが突然歌いだしてミュージカルになったりもする。
深夜、アパートメントで夜を過ごす最後の役柄の設定には笑ってしまう。オスカーを送り届けたリムジンが「ホリー・モーターズ」の車庫に戻る。HolyはHollywoodのもじりで、リムジンそのものが映画の比喩なんでしょうかね。これでカラックスの脳内映画舘も終るのかと思ったら、同じように一日を働いたリムジン同士がしゃべりだし、おやすみの挨拶を交わしたのには思わずディズニー映画を思い出してしまった。
僕は古い映画ファンだから物語がしっかりした映画を好むけれど、この映画は物語性の代わりに運動やアクションの魅力がいっぱいで、それを見ているだけで実に楽しい。運動やアクションは、カラックスがこの映画でオマージュを捧げたように映画の基本なのだから。
May 01, 2013
『孤独な天使たち』 鉄格子の窓
優れた映画監督がどんなふうに歳を取り、成熟していくのかには、いろんなタイプがあると思う。いちばん多いのは若い頃の体力気力充実した作品をピークに徐々に下降し、ゆるーい映画になっていくパターン。でも反対に歳を取るほどにすごい映画をつくるようになったクリント・イーストウッドみたいな例もある。あるいは、若い頃の物語的面白さを犠牲にしてまで自分のスタイルを極北まで突き詰めようとするホウ・シャオシェンのような監督もいる。監督デビューして50年になるベルナルド・ベルトルッチの場合、まるで20代の監督がつくったような若々しい映画に立ち戻っている。
『孤独な天使たち(原題:Io e te)』は、ベルトルッチの未公開処女作が50年ぶりに公開されたのかと錯覚するような瑞々しい映画だった。
あのベルトルッチが、ですよ。もともとベルトルッチの映画は左翼的なメッセージとともに、『ラストタンゴ・イン・パリ』や『ラスト・エンペラー』『シェルラリング・スカイ』のように華麗で耽美的な映像で見る者を魅了した。9年前の前作『ドリーマーズ』はゴダールはじめいろんな監督のスタイルやシーンを引用した、技巧の限りを尽した映画だった。だからこそ、そのあまりの変わりようにびっくりする。そこには、『ドリーマーズ』のあと重い病気を患って引退を考え、しかし車椅子での映画作りを決意したという体験が横たわっているのだろう。
舞台はイタリアの都市。14歳のロレンツォ(ヤコポ・オルモ・アンティノーリ)は学校のスキー旅行をさぼって自宅アパートの地下室に隠れ、1週間、音楽と本に浸る秘密の生活を送ろうとしている。ところがその地下室こ、ロレンツォの異母姉オリヴィア(テア・ファルコ)が入りこんでくる。オリヴィアはドラッグ中毒になった新進写真家で、自棄的な生活を送っていたがドラッグを抜いて再出発しようとしている。
独りきりの静かな地下室生活を夢見ていたロレンツォは、わがままで恋人(?)を地下室に連れ込むオリヴィアに腹を立てる。でもオリヴィアの禁断症状に耐える姿を見たり、彼女の命ずることを聞くうちに、2人は徐々に心を通わせるようになる。映画の大部分は狭い地下室の密室空間で撮影されている。照明に工夫を凝らして光と闇をつくりだし、狭い空間をさまざまに変貌させてみせる。でもその見事な技は、かつての華麗な技巧とは違うものに見える。
地下室には道路に面して窓があり、鉄格子がはめられている。地下室のなかから窓を通して外を見るショットと、逆に外の道路から地面すれすれの鉄格子の窓を見るショットが何度も繰り返される。部屋から窓の外を見ると人間の足が大きく見え、また人間を仰角でながめることになる。それは車椅子で日々を送るベルトルッチの視覚なのかもしれない。また暗い闇に浮かぶ鉄格子の窓は、病を体験したベルトルッチが見た心の風景のようにも見える。
その端正な映像は、かつてのベルトルッチの華麗な映像とは別人のようだ。鉄格子の窓の内外の風景を通じて、ロレンツォは成長し、オリヴィアは再生に踏み出す。それは病を克服したベルトルッチが手にした希望でもあるようにも見えるの。
にきび面の少年ヤコポ・オルモ・アンティノーリが初々しく、デヴィッド・ボウイをはじめとする音楽もいいな。ロレンツォが読んでいた本は何だったんだろう。
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