三國連太郎さんを悼む
三國連太郎さんには40年前に二度ほどお目にかかったことがある。
一度目は冬の京都大映撮影所。当時、僕は駆け出しの週刊誌記者で芸能欄を担当していた。毎週1ページ弱のインタビュー記事があり、先輩記者と1週おきに担当していた。人選は自由にでき、だから会いたい人ばかりに会っていた。三國さんの前後の人選を見ると、白川和子、キャロル、伊佐山ひろ子、久世光彦、荒木一郎、深作欣二、藤圭子、阿久悠、加藤泰、前野曜子……と、好みがもろに出ている。
そんなに長い記事でもないので書き写してしまおう。
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北一輝を描いた映画「戒厳令」(吉田喜重監督)を撮影中の三国連太郎を京都に訪ねて、一緒におしるこを食った。
熱くて甘いやつを、彼はきれいに平らげた。三国は一日の撮影が終ったあとのおしるこを、楽しみにしているようだった。
この日の撮影は、二・二六事件の陰の扇動者として逮捕された北が銃殺されるラストシーン。
時折り雪が舞うなかで、柱にくくられたまま二時間も地面に座り続けるきつい一日だった。
「あの、やっぱり、人間の終焉ていうのは、僕はやっぱり、ドラマチックに演じるべきじゃないと思うんです。その……状況がドラマチックであろうとも、ね。役者ってのは、どうしても最後、ドラマチックに演じたがるもんですけど、なんか、やっぱり、あの、虫のように……、なんかこう終るのが本当のような気がしましてね」
目を伏せ、マッチの軸やコートの裾をつまみながら話すのである。ある映画の強姦シーンで相手女優を、「本当に犯されるかと思った」と青ざめさせたという、スクリーンのファナチックな三国からは想像もできない。
北一輝について──。
「日本的怨霊を背負った革命家だという気がします。中国へ渡って、大陸と日本という風土の違いのなかに、その……大変な絶望感を発見したんじゃないでしょうか。僕らの世代には、そういう矛盾みたいなものが大きな振子になっているんですよ。それが理解できるような気もするんですね」
そういえば三国連太郎は「大陸志向」とでも呼べそうな経歴をもっている。
十三歳のとき、すでに放浪癖のあった三国少年は、朝鮮に密航したことがある。
大阪で職を転々としていた昭和十八年の二十一歳、軍の召集令状を見て逃げ出した。兵隊になりたくなかったのである。佐賀の呼子の浜から伝馬船をかっぱらって、朝鮮に渡り、大陸浪人にでもなろうかと考えた。ひとりではさびしいので、ある女を連れ、呼子の駅を出たところで、憲兵にみつかり、海岸の芝居小屋まで逃げたが、捕まってしまった。
なんとか罰をまぬがれて、二等兵として大陸に渡った。敗戦までの二年近く、実弾を一発も撃ったことのない、当時の基準でいえば、「破廉恥で最低の兵隊」だった。敗戦後は、中国人のなかで一年ぐらいブラブラしていた。
「とにかく、わけがわからず、怖さ知らずなんです、結果的には。すごく臆病で、それでいて毎日なにか変っていないといやなんですがね。役者をしているのも、そういうことなんです」
現在、三国連太郎は製作、監督、主演を兼ねた映画「岸のない河」をつくっている。借金してアフガニスタンの砂漠にロケをしたが、カネがきれて、中断している。
「あの……すごく切ないんですよね、ひとりで生きてるのが。あの……そういう切なさみたいのがテーマなのかもしれません」
注射がこわい、地震がこわい、飛行機がこわいという高所恐怖症。自閉症。鬱病。分裂症。どこか傷ついたケモノのにおいのする、百八十センチ、八十四キロのこの俳優が、京都でおしるこを食べているのである。
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二度目に三國さんにお目にかかったのは、この記事が出て数週間後、東京・日比谷の路上だった。
映画でも見ようとカミさんと歩いていたら、偶然にも向こうから三國さんが歩いてきた。三國さんは仕事で一時間ほど顔を合わせただけの僕をきちんと覚えていらして、こちらが女連れだったせいか黙って頭を下げられた。僕はうろたえてしまい、あわててちょこんと頭を下げた。後で映画「戒厳令」の関係者から、三國さんはこの青臭い記事を気に入ってくださったと聞いて嬉しかった。
『飢餓海峡』『神々の深き欲望』をはじめとする数々の名作から、晩年の飄々とした『釣りバカ日誌』まで、戦後日本映画はこの人を措いて語れない。合掌。
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