『ジャンゴ 繋がれざる者』 アメリカ製マカロニ・ウェスタン
モノクロ写真をコピー機でコピーしてみる。白と黒のコントラストが強くなり、顔の表情とか風景の細部といった中間部は見えにくくなる。そのコピーを、もう一度コピーしてみる。ディテールがさらに見えにくくなり、コントラストはいよいよ強くなる。コピーを重ねるほどに写真のリアリティは薄くなり、そのかわり白黒2色で描いたイラストレーションのような面白さが出てくる。
タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者(原題:Django Unchained)』は、そんなコピーのコピーみたいな映画だった。この映画が、主人公の造形やセリフ、カメラワーク、音楽などなどイタリア製のマカロニ・ウェスタンを下敷きにしていることは、マカロニ・ウェスタンを見たことがある人ならすぐ分かる。
1960年代につくられた『続・荒野の用心棒(原題:Django)』の主人公はジャンゴという名のガンマンだし、ほかにもジャンゴが活躍するマカロニ・ウェスタンが何本もつくられている。ジャンゴはマカロニ・ウェスタンのヒーローなのだ。そしてマカロニ・ウェスタンが本家アメリカの西部劇のコピーであることは言うまでもない。
マカロニ・ウェスタンがコピーしたのは『荒野の決闘』や『シェーン』といった名作ではなく、ランドルフ・スコットとかオーディ・マーフィが主演して山のようにつくられたB級西部劇のテイスト。僕がガキのころ浅草六区へ行くと、そんなB級西部劇の2本立てが必ずかかっていた。B級西部劇はヒーローのガンマンが悪役のガンマンをやっつける勧善懲悪のお話だけど、アメリカ映画だから自国の西部開拓という歴史をそれなりに踏まえたリアリティをもっていた。
でもマカロニ・ウェスタンは、B級西部劇からそれらしいヒーロー像とそれらしい設定を借りて、リアリティの希薄な、ドラマチックだけれど荒唐無稽なお話が多かった。その単純明快な面白さ、格好良さこそがマカロニ・ウェスタンの人気だった。
『ジャンゴ 繋がれざる者』は巻頭のタイトル・バックの雰囲気からマカロニ・ウェスタンを下敷きにし、中身も単純明快なエンタテインメント性をそっくり受け継いでいる。十何人もの敵を次々倒す無敵のガンマン。「決めゼリフ」や馬に乗ったジャンゴが砂漠をゆく「定番」のシーンでは画面がぐぐっとズームアップされ、音楽がかぶさる。マカロニ・ウェスタンといえばこの人、エンニオ・モリコーネの曲もちゃんとかかる。アメリカ製西部劇でありながら、マカロニの匂いが充満してる。
でもそれだけじゃありません、ということか、タランティーノは二つの味をつけくわえた。一つは、ジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を解放奴隷というアフリカ系に設定したこと。ヒーローのガンマンがアフリカ系というのは、先住民との混血が主人公になる西部劇はいくつもあったけど、たぶん初めてかもしれない。
南北戦争以前のアメリカで、実際に解放奴隷が西部でガンマンとして名をなした史実があるかどうかは知らない。たぶんタランティーノにとっても、どうでもよかったんじゃないかな。これは、なんでもありのマカロニ・ウェスタンなんだから。でも、マカロニ・ウェスタンのテイストにアフリカ系ガンマンというアイディアを挿入したことで、いかにも異形な西部劇になったし、アフリカ系ガンマンが白人の悪玉を殺しまくるのは、ウェスタンこそ我が心の故郷と思っている白人の観客の心をざわざわ騒がせるだろう。
もうひとつは、西部劇に南部ものの要素をつけくわえたこと。ジャンゴに早撃ちを教えた賞金稼ぎの元医者・キング(クリストフ・ヴァルツ)と相棒になったジャンゴが、ジャンゴの妻(ケリー・ワシントン)が奴隷として働いている南部の大農園に妻を取り返しにいく。南部の奴隷制をテーマにした映画は過去にも『マンディンゴ』などがあったけど、テキサスからミシシッピへ、西部劇と南部劇を合体させたのが、この映画のもうひとつの面白さだ。
大農園の主人・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)は、奴隷同士を戦わせて楽しむ闘犬ならぬ闘奴隷のために屈強な奴隷を買い、大邸宅でフランス趣味の生活を営んでいる。農園主対ジャンゴ、農園主に仕える奴隷上がりの執事(サミュエル・L・ジャクソン)対ジャンゴのアフリカ系対決が見せ場。白人の農園主に黒人のガンマンが復讐する単純な図式にしなかったところが、「ポリティカル・コレクトネス」をもうひとひねりして憎い。
ディカプリオが優雅で残酷な大農園主を楽しそうに演じている。60年代のマカロニ・ウェスタンでジャンゴを演じたフランコ・ネロやドン・ジョンソンがカメオ出演し、太目のタランティーノ自身も出てくる。遊び心と同時にトゲも持つ、面白いアメリカ製マカロニ・ウェスタンでした。
Comments