Amour(film review)
『愛、アムール(原題:Amour)』は、全編が屋内シーンで構成されてる。主人公夫婦が住むアパルトマンの窓からパリの街並みが見えるけれど、それはレースのカーテン越しのおぼろげな風景にすぎない。中庭の窓を開けても、向かいの暗い壁があるだけで、空は見えない。画面に空や雲や野原が映るけれど、それはアパルトマンに飾ってある絵画を接写したもので、映画の密室的な空気をいよいよ高めるだけ。
その屋内シーンも、冒頭のコンサート会場のシーンを除けばアパルトマン内部に限定されている。カメラは意識して老夫婦のアパルトマンから外に出ようとしないみたいだ。この映画は徹底して老夫婦2人だけの物語で、母親を心配して訪れる娘夫婦も、もちろん管理人夫婦も他人にすぎない。カメラがそこから出ようとしないアパルトマンの密室空間は、自ら孤立を選ぶ老夫婦の閉じられた心理空間にそのまま重なっている。
ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・エヴァ)はリタイアした裕福な音楽家夫婦。教え子のコンサートに出かけたり、穏やかな生活を送っているが、ある朝、食事をしているアンヌの意識が飛ぶ。入院、手術。右半身不随になったアンヌは車椅子で自宅に戻ってきて、「もう病院には行きたくない」とジョルジュに告げる。
自らも足を引きずるジョルジュが、アンヌをかいがいしく介護するエピソードが積み重ねられる。といっても、日常的なリアリズムでなく、不意打ちの映像を多用するミヒャエル・ハネケ監督らしい描写がつづく。
誰かがドアを叩く。ジョルジュがドアを開けると、誰もいない。誰かいるのかと暗い廊下を進むと、いきなり足下に水がたまっていて、なにもない空間からいきなり人の手がでてきてジョルジュの口をふさぐ。次のカットでジョルジュがベッドから飛び起き、それが彼が見ていた夢であることが分かる。献身的な介護で管理人から「あなたを尊敬してます」と言われるジョルジュが、内面でひそかに抱えている不安。
また別のシーンで、元気なアンヌがピアノを弾いている。ジョルジュがそれを聞いている。彼の背後にはCDプレイヤーがあって、ブルーの数字が動いている。そのカットで、ジョルジュが聞いているのはCDで、アンヌがピアノを弾いている姿はジョルジュの幻視であることが分かる。
中庭の窓から鳩が室内に迷い込んでくる。2人きりの空間に迷い込んだ別の命を、ジョルジュは邪険に追い払う。でも次に迷い込んできたときには、いとおしむように毛布の上から鳩をなでている。
アンヌの症状は悪化する。オムツを当てなければならなくなる。言うことを聞かず、食事や水を取ろうとしないアンヌの頬を、ジョルジュは思わず叩いてしまう。「もう終わりにしたい」とアンヌは彼に告げる。ジョルジュが外出から帰ってくると、アンヌが中庭に面した窓のそばで車椅子から落ちている。彼女は窓から身を投げようと試みたのか。介護士を雇うのだが、ジョルジュは看護師の義務的な仕事ぶりに激怒して解雇する。アンヌは寝たきりになり、意識が混濁して、言葉も出なくなる。
娘のエヴァ(イザペル・ユペール)はそんな母の姿におろおろし、なんとかしなければと父に迫るが、ジョルジュは口出しするなと娘を追い払う。あくまで夫婦2人で終わりの日々を過ごそうとする。このあたり、老年になってからの親子関係は、子供に頼ろうとすることが多い日本人の感覚からは想像しにくい。
そしてある日……。
ジョルジュがアンヌにした行為が、「終わりにしたい」というアンヌの願いを受け止めた愛によるものなのか、仮にそうだとしても、「終わりにしたい」との彼女の願いを「終わりにする」と変換したジョルジュにかすかな殺意が混じっていないのか、考えたぬいた末の行動なのか、それとも不意の衝動だったのか、映画は何も語らない。
そんなふうに感ずるのも、ハネケ監督がこれまでつくってきた映画が人間存在の悪魔的要素に目をすえた作品が多かったからであり、この映画もいろんな解釈が可能なよう放りだされ、タイトル通りのストレートな「愛」の映画としてつくられてはいないように見えるからだ。
映画の冒頭、アパルトマンのベッドで花に囲まれたアンヌの死体のショットが映る。映画はそこから過去に遡るのだけれど、ありきたりのセリフや音楽で観客を納得させず、ただ老夫婦の行動を2人に寄り添うように追ったハネケのスタイルが、2人の愛の孤独と過酷をあぶりだした。
何本もの政治映画やフィルム・ノワールが記憶に残るジャン=ルイ・トランティニャンと、学生時代に見た『二十四時間の情事』のエマニュエル・エヴァが共に80代になっていて、感慨深い。
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