『東ベルリンから来た女』 バルバラの息の音
舞台は旧東ドイツ北部の小さな町。曇天の空が広がり、鈍色の光に覆われている。風が強い地方らしく、背の低い緑の木々が激しく揺れる。主人公のバルバラ(ニーナ・ホス)が風に騒ぐ林の脇を自転車に乗って通るとき、海鳥の声が低く聞こえるから、林の向こうは海らしい。でも、映画のなかで重要な意味を持つことになる海は最後の最後まで姿を見せない。
ラストシーン、物語が終わり画面が暗転すると、真っ暗ななかにバルバラが呼吸する音だけがかすかに聞こえている。
『東ベルリンから来た女(原題:Barbara)』は、風景の微妙な光や風や音の美しさや、音楽を使わず抑制のきいた画面が素晴らしい映画だった。
東ベルリンの病院に勤務していた医師のバルバラは、西側への移住申請を出したために左遷され、この町の病院にやってきた。映画の最初、病院の前でバスから降りたバルバラは定刻までのわずかな間、外のベンチに座って脚を組み、煙草を吸っている。その何かを拒絶する意思的な姿から、見る者はファースト・シーンで彼女が醸しだす秘密と不安の気配を感じ取る。
病院でバルバラの同僚となる医師のアンドレ(ロナルト・ツェアフェルト)は、秘密警察に彼女の動静を報告することを命じられているらしい。バルバラが借りた新しい部屋にはさっそく秘密警察がやってきて、彼女が病院帰りに数時間姿をくらましたことを警告する。バルバラには西ドイツに恋人のヨルク(マルク・ヴァシュケ)がいて、彼はバルバラと密会しながら亡命計画を準備している。
クリスティン・ペッツォルト監督は、バルバラの病院での仕事ぶり、自転車での往き帰り、アパートでの生活といった日常を丹念に追ってゆく。日常の繰り返しのなかで、少しずつドラマが動いてゆく。
病院のスタッフと溶け合わないバルバラだが医師としての良心を持ち、腕は確かで、労働矯正所から送られてきた少女は彼女にしか心を開かない。自転車での帰り道、風が騒ぐ林のそば、大きな十字架の立つあたりでバルバラは恋人が隠した現金を取り出し、アパートの煙突のなかに吊るして隠す。最初、同僚のアンドレの一言一言に疑いの目を向けた彼女だが、やがて彼の挫折と苦悩、誠実さを知ってゆく。
亡命計画、患者の手術、少女の矯正所からの逃亡、秘密警察の監視などが絡み合って、静かにサスペンスが高まる。信頼しあうようになったバルバラとアンドレの間では、愛が育ってゆく気配がある。亡命を決行する日、暗いバルト海の海辺で、バルバラは重大な決断を迫られる……。
ドラマチックな描写は一切ない。カメラは端正な構図で、こうした出来事を静かに見詰めるだけ。北ドイツの冷たい風景のなかで、バルバラのニーナ・ホスが知的で意思的な女を演じて美しい。頭の上で無造作にまとめた金髪の後れ毛や、白衣からのぞくふくらはぎの白さがエロティックだ。
クリスティン・ペッツォルト監督は両親に連れられて、ベルリンの壁崩壊以前に東ドイツから西ドイツへ移住してきたという。だからなんだろう。監視下に生きる暮らしの冷え冷えした日常がひしひしと実感され、それだけに、最後に暗闇のなかで聞こえるバルバラのかすかな息の音が暖かい。
彼の映画が日本で一般公開されるのは初めてだけど、過去の作品は映画祭でいろんな賞を獲得している(この映画もベルリン映画祭銀熊賞)。ニーナ・ホスはそのうち5本に主演しているというから、彼女はペッツォルト監督のミューズなんだろう。この2人の作品、もっと見てみたい。


Comments
これ好きです。こういう、多くを語らずして物語っちゃう作品です。
今って、言い過ぎる映画が人気あるので、そういうのに異議を唱えたい(笑)
このテイスト、緊張感。 秀逸でした。
Posted by: rose_chocolat | February 08, 2013 09:30 PM
確かにセリフも映像も過剰な子供っぽい映画が氾濫してますね。こういう大人の映画に当たると嬉しくなります。
人の感情の繊細な描写、サスペンスでありながらサスペンスに終わらないのもいいですよね。
Posted by: 雄 | February 11, 2013 12:30 PM