東松照明さんを悼む
写真家の東松照明さんが去年12月に那覇で亡くなったという記事が、今日の新聞に載っていた。
東松さんの作品が戦後日本の写真の世界にもたらした衝撃と影響の大きさについては語りつくされている。数年前には大規模な回顧展も開かれた。とはいえ晩年、かつて大きなテーマとして撮影した長崎へ、さらに沖縄へと拠点を移したのは、東松さんが最後まで現役だったことの証だろう。
僕はカメラ雑誌の編集をやっていたので、東松さんには何度もお目にかかり、作品を掲載させてもらったことがある。でもいちばん鮮やかな記憶として残っているのは、それ以前、『朝日ジャーナル』という週刊誌で1年間、表紙をやっていただいたときのことだ。
当時、東松さんは生死にかかわる心臓手術をした後で、療養かたがた千葉県の上総一ノ宮に居を定め、都心へ出かけることもなく暮らしていた。それでも創作意欲は盛んで、近くの九十九里浜海岸に漂着したプラスチックの残骸を撮影した「プラスチックス」シリーズや、身近な花や植物をキャンバスに置いた「HANA」シリーズなどが次々に生まれていた。
そこで2つの新作を中心に、沖縄を撮影した「光る風」や海をテーマにした「われらをめぐる海」も交え1週交代で、1年間50冊の表紙をお願いすることになった。写真選びは3カ月おきに、デザイナーの神田昇和氏と2人で上総一ノ宮に出かけることにした。
昼すぎに東京駅から房総特急に乗り、山間部を抜けて外房へ出、上総一ノ宮駅で下りるともう都会とは空気の匂いが違っている。東松さんの家は駅から山側に向かい、周りに人家も少なくなって、低い丘陵に囲まれた田んぼを抜けたところにある。いつも奥さんと愛犬が出迎えてくれた。
雑誌の表紙は商品のパッケージだから、まずは書店で目立ち、読者に手にとってもらい、さらにお金を出してもらうことを目的としている。硬派の雑誌といえども、それは変わらない(そもそも硬派の雑誌でなければ、東松さんの表紙などという企画は立てられないが)。だから写真の選びも、ただ優れた写真というだけでなく、パッケージとしての魅力も求められる。東松さんは神田氏と僕がそんなふうにして選んだ写真にほとんど異議を唱えることなく、たいていは、いいですね、と笑ってくれた。
写真選びが終わると、お茶をいただきながら雑談する。真面目な写真論はした記憶がない。体力が回復してきたので少し遠出して撮影を始めているといった話が主だった。それが、大潮で月に1度だけ顔を見せる岸辺を撮影した「潮間帯」シリーズで、後半には表紙にも登場してもらった。
陽も傾いてきたので失礼しようとすると、東松さんが、おいしい鮨屋があるから行ってみませんか、と誘ってくれた。東松さん自ら四輪駆動のハンドルを握り、しばらく走って着いたのは海辺の鮨屋。
ここの地魚は旨いんだよ、と東松さんの目が細くなる。そういうときの髭面の奥の優しい目は、自他の作品に厳しく、鋭い論客でもある東松さんからは想像もつかない。そういえば、と後で思う。東松さんの作品には、戦後という時代に刃を突きつける写真だけでなく、南島の風と光に身をゆだね、ゆったりとたゆたっている写真もあるよなあ。
その頃やっていた週刊誌デスクの仕事は、昼過ぎから深夜までの作業が毎日休みなしに続く激務だった。そんななかで神田氏とともに3カ月に1度、房総の東松さんを訪れるのは、仕事でありながら仕事でない、その日を待ち焦がれる至福の時間だった。遠くから合掌。
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