『希望の国』 現実に拮抗できたのか
『希望の国』は20××年、海に面した架空の地・長島県で地震と津波が起き、原子力発電所が事故を起こして住民に避難命令が出たという設定になっている。いうまでもなく東日本大震災と福島第一原発の事故を思い起こさせる。実際、気仙沼など津波に襲われた被災地でロケしているから、見る者は未来の架空の物語というより現実に起こった物語としてこの映画を見る。
主な登場人物として3組のカップルが登場する。牛を飼う酪農家の泰彦(夏八木勲)とアルツハイマーの妻(大谷直子)。泰彦の息子で家業を手伝う洋一(村上淳)といずみ(神楽坂恵)の若い夫婦。隣家の息子ミツル(清水優)と恋人のヨーコ(梶原ひかり)。
泰彦の家は避難区域のすぐ外にあり、自主避難を勧告されるが、拒否して無人になった地域に住みつづける。畜舎で飼育する牛には殺処分命令が出る。映画の最後、泰彦は牛を殺した直後に夫婦で心中する。洋一といずみは近くの町に避難して働きはじめるが、いずみが妊娠していることがわかる。放射能に過敏になった夫婦は町民から白い目で見られて居づらくなり、さらに遠い町に避難することを決める。ヨーコはミツルとデートしている間に津波が家を襲い、両親が行方不明になる。ミツルとヨーコは、津波ですべてが押し流された一帯を両親を探して歩く。
酪農家の自殺も、妊娠した夫婦の不安と白眼視も、多くの人が家族を失ったことも、僕らは現実のこととして知っている。園子温監督は、こうした現実から何を取り出し、見る者に何をフィクションとして差し出そうとしたのか。『希望の国』とは監督の祈りなのか反語なのか。
泰彦はチェルノブイリをきっかけに原発の危険に目覚めたことになっている。彼は息子夫婦を逃がすけれど、自分は避難せず牛を守りつづける。園監督はその人間像に「希望」を見たのか。泰彦の妻が無人の町で牛や羊の間をさまようシーンは美しいけれど、最後に大地に根を張った大樹が炎に包まれるのは、「希望」が「絶望」へと反転したことを示しているのではないか。
洋一といずみに授かった新しい命は「希望」だけれど、さらに遠くへと逃げた先でも測定器は高い放射能の値を示す。2人を遠くへ追いやった町民の「空気」とともに、これは「絶望」の暗示ではないのか。ミツルとヨーコが津波で流された町を「一歩一歩」歩くのは果たして「希望」なのか。
結局、映画は現実の混沌を混沌のまま差し出すしかなかった。「希望」にせよ「絶望」にせよ、現実の混沌からフィクションとして何ものかを結晶させ、それを映画の核として取り出すことが、いまこの国でいちばん力のある園監督をもってしてもむずかしかった。原発事故に正面から取り組む意欲は素晴らしいにしても、圧倒的な現実に拮抗することがはきなかったように見える。
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