『かぞくのくに』 言葉少なの理由
吉永小百合をスターにした『キューポラのある街』(1962)で、忘れられないシーンがある。吉永小百合演じる少女の同級生で在日朝鮮人の一家が北朝鮮へ帰国することになり、川口駅前で別れを惜しむ。集団帰国する者・見送る者がごったがえす夕暮れの駅前の雑踏を、カメラはぐるりと見渡していた。
そのカメラが捉えた駅前の町並みのほんの少し先に、私の育った家と鋳物工場があった。私は吉永小百合の2歳下で、映画では彼女に弟もいるから、川口を舞台にした『キューポラのある街』はほとんど私と友人たちの物語と言ってもいいくらいだ。川口は鋳物の町、つまり戦争中は軍需工場の町で、かなりの数の在日朝鮮人が工場で働いていた。彼らは戦後もそのまま、たいていは粗末な家に暮らしていた。
私の入った小学校にはどのクラスにも4、5人の朝鮮人生徒がいた。朝鮮人の先生もいて、放課後は彼らだけ集まって朝鮮語など特別な授業を受けていた(今考えれば先生も授業も法的に認められたものでなく、市の独自の判断だったろう)。私といつも徒競争で先頭を競い遊び仲間だった李泰明君も、中学に入った後、映画と同じ頃に北朝鮮に帰っていった。彼から一度だけ手紙が届いたが、その後は音信不通になった。
『かぞくのくに』はそれから30年近くたった1990年代半ばの物語である。
25年前に北朝鮮に渡ったソンホ(井浦新)が、脳の腫瘍を治療するため3カ月という期限つきで東京に帰ってくる。家族は朝鮮総連(映画ではそう言ってないが)幹部の父(津嘉山正種)、喫茶店を経営して一家を支える母(宮崎美子)、日本語教師をやっている妹のリエ(安藤サクラ)。3人は帰ってきたソンホと再会を喜ぶが、ソンホには見張りとしてピョンヤンからヤン(ヤン・イクチュン)が同行し、自宅前に車を止めてソンホと家族の行動を監視するようになる。
脚本・監督は在日朝鮮人のヤン・ソンヒ(梁英姫)で、彼女の実際の体験を基にしているという。妹のリエが監督自身と重なっている。
映画でははっきり言ってないけれど、総連幹部の父はおそらく金日成への忠誠の証として息子を北に差し出したのだろう。もっとも、現在の破綻国家寸前の北朝鮮から当時のことを考えてしまうと、多少の誤解が生ずるかもしれない。地下資源が豊富な北朝鮮(1970年頃まで国力は韓国と拮抗するか、北が上だった)で建国事業に奉仕することは、日本で差別と貧困にあえいでいた在日朝鮮人にとって大きな希望だったことは確かだ。日本のマスコミも「帰国運動」を好意的に記事にしていたし、『キューポラのある街』もその流れのなかにあった。北の実情を知らされていなかった、と言ってしまえばそれまでだが……。
北朝鮮の過酷な現実が少しずつ知られるようになったのは1980年代になってからで、そのころから総連の方針に反して除名されたり脱退する在日が多くなった。国籍を「朝鮮」から「韓国」に変える人や、日本に帰化する人も増えた。1990年代に設定された映画のなかでソンホの父が組織の幹部であることは、彼が筋金入りの北朝鮮支持者であることを示している。
映画は、ソンホを迎えた家族の姿を追う(隅田川と荒川に挟まれた北千住一帯でロケされている)。ソンホは家族と再会した喜びを抑え、あからさまな感情と言葉を表に出さない。父も内心の葛藤があるのか、言葉少なだ。北に批判的でソンホ兄妹を愛する叔父(諏訪太朗)は、「堕落した資本主義も捨てたもんじゃないぞ」とソンホに金を渡す。リエは、ソンホをショッピングに連れ出すけれど、ソンホは値札を見て買おうとしない。ソンホはかつての同級生とも会うけれど、彼らの質問攻めに何も答えない。バーをやっているゲイの同級生は「アタシはマイノリティのなかのマイノリティだけど、ずいぶん生きやすくなった」とつぶやく。
何があったのか、ソンホに急に帰国するよう指示が来る。ソンホは元恋人から「このまま消えちゃおうか」と迫られるけれど、無言で川原にたたずむ。リエはソンホを監視してきたヤンに向かって、「あなたも、あなたの国も大っ嫌い」となじる。ヤンは、「でも私もあなたの兄さんも、その国で生きていかなければならないんです」と静かに応じる。帰国する日、ソンホの母はソンホだけでなくヤンにも新調した背広を贈り、ヤンは黙ってそれを着る。
登場人物たちの激情がほとばしる場面が一、二あるけれど、それ以外のシーンでは誰もが現実を噛み締めて耐えている。本当はたくさんの言葉が発されるはずなのに、言葉が出てこない。そうすることで、監視人のヤンも含めて、国家や組織がひとりひとりの個人に強いているものの重さが見る者にじわっと染みてくる。
安藤サクラも井浦新(ARATAから改名)も、監視人を演ずるヤン・イクチュン(韓国映画『息もつけない』の監督・主演。この映画のために北の訛りを習得してきた)も、それぞれに素晴らしい。北千住界隈の、変哲もない下町と水辺の風景もいい。私は北千住から荒川を遡ったところに位置する川口の似たような風景のなかで育ったので、ソンホにかつての同級生、李君を重ねて見ないわけにいかなかった。
この十年、『パッチギ』(製作・李鳳宇)とか『血と骨』(原作・梁石日、監督・崔洋一)とか、在日コリアン映画と呼べそうな作品があった。『かぞくのくに』もそうした一本、しかも在日朝鮮人が抱える問題を正面から捉えた映画として記憶されるだろう。在日コリアンではないけれど、去年は地方に住む在日ブラジル人やタイ人が登場する『サウダーヂ』みたいな映画もあった。この国に住むさまざなな人間がさまざまな視点からつくり、結果として日本映画を豊かにするこういう作品が、もっと出てきてほしい。
Comments
身近に帰還事業で帰られた方がいらっしゃるなら、余計にこの作品は身に沁みたのではないでしょうか。
学友の頃なら尚のこと、余計なしがらみもないままに出会ったご友人でしょうから、どうしているかな・・・?と案ずるお気持ちもとてもよく解ります。
自由に行き来できれば何も困ることもないのに、それができない辛さというか、ジレンマを感じます。
>総連幹部の父はおそらく金日成への忠誠の証として息子を北に差し出したのだろう
なるほど。もしかしたら、そうかも知れないですね。あるいは他の幹部の手前、息子たちを送らない訳には行かなかったとか。いずれにしても、恐らくですが、幹部であることによって相応のいい生活をしていたはずだと思いますので、その代償として送り出したことが結果取り返しのつかないことになってしまっています。
日本、韓国、北朝鮮、これを観た7月中旬よりも、わずか1カ月の間に驚くべき速さで国家のしがらみがさらに一層複雑になってきています。
なので、あの時の舞台挨拶のヤンさんの言葉が重いんですね。「出演するか迷った」という。
それでも出て下さったことに改めて感謝したいです。
Posted by: rose_chocolat | August 23, 2012 08:11 PM
現在を見る視線は過去の体験の蓄積の上に成り立っていますから、こういう問題を考えても良くも悪くも個人的なものにならざるをえません。
「忠誠の証に差し出した」云々は、かつて総連の熱心な活動家でその後脱退した(とはいえ朝鮮籍の)年長の知人が帰国運動に関して言った言葉でした。むろん、「送らなければならなかった」側面もあったかもしれず、それやこれやで父は内面に葛藤をかかえていたのでしょう。
今更ながらヤンさんの決断に敬意を表します。
Posted by: 雄 | August 24, 2012 11:25 AM