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August 29, 2012

『プロメテウス』 リドリー・スコットの叙事詩

Prometheus
Prometheus(film review)

『プロメテウス(原題:Prometheus)』はリドリー・スコット版『2001年 宇宙の旅』であり、同時にシリーズ第5作『エイリアン・ライジング』なんですね。

2本の映画の背後に見えるのは古代ギリシャ。『2001:A Space Odyssey』はタイトルの通り、宇宙船ディスカバリー号の受難と漂白が叙事詩「オデュッセイア」になぞらえられていた。人類発生以前、類人猿の地球に未知の生命体からのメッセージであるモノリスが立っている。2001年、そのモノリスが指さす木星へとディスカバリー号が向かい、旅の途中、未知の生命体によって宇宙船の中央制御コンピューターが狂いはじめる。

一方、プロメテウスはギリシャ神話の神。かつて神々と人間が争った時、神々が人間から奪った天上の火を人間に与えたとされる。人間は神々の子孫だが、人間が悪さばかりしているので、神々は人間と人間に火を与えたプロメテウスを罰した。そんなストーリーがこの映画の背景になっている、と思う。そのギリシャの神々は、映画『プロメテウス』では太陽系の外にある星LV223の「エンジニア(人間を設計した技術者といった意味か)」として現れる。

映画『プロメテウス』も人類発生以前の地球から始まる。古代の地球にやって来たエンジニアが自らの肉体を砕いて自分のDNAを濁流に拡散させる。濁流は海につながり、そこから人類が誕生する。アイスランドで撮影したらしいけど、荒涼とした大地と天地創造を思わせる滝の風景に、冒頭からリドリー・スコットの映像感覚が冴える。エンジニアがギリシャ彫刻を思わせる大理石のような肌を持っているのも、映画がギリシャを指向していることの表れだろう(ギリシャ神話にプラスしてキリスト教のいろんな要素が重なっているようだけど、それはさておき)。

クレジットが終わってプロメテウス号の内部の場面になると、無人の宇宙船内の静寂。これは『2001年 宇宙の旅』だけでなく、もう1本のスペースものの傑作『惑星ソラリス』の冒頭を思わせる。ただひとり、アンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスビンダー)が動いている。アンドロイドのデヴィッドは端正な顔立ち(デビッドがひとりで見ている映画『アラビアのロレンス』のロレンスそっくり)で、機械にもかかわらず幼児のような無垢と悪意を同居させている。ファスビンダーは、デヴィッドの口調は『2001年 宇宙の旅』のコンピューターHALの声を参考にしたと言っている。

プロメテウス号は巨大企業ウェイランド社のもので、科学者のエリザベス(ノオミ・ラパス)やウェイランド社のヴィッカーズ(シャーリーズ・セロン)が乗り組み、エンジニアの星を目指している。実はプロメテウスにはウェイランド社のオーナーで年老いたピーター(ガイ・ピアース)も密かに乗っている。デヴィッドやヴィッカーズは、オーナーの意図に沿って動いているらしい。ピーターの目的はエンジニアと会って不老不死を手に入れることのようだ。不老不死を求める話はギリシャのみならずいろんな神話に登場して、ここでもまた映画は神話的な背景を覗かせる。

プロメテウス号がエンジニアの星に着いてからの展開は、リドリー・スコットの『エイリアン』第1作のリメイクと言ってもいいくらい、その構造はほとんど同じだ。人工的な建造物があり、中に入っていった隊員がエンジニアやエイリアンと遭遇する。第1作でのエイリアンや宇宙船のデザインはスイスのアーチスト、H.R.ギーガーの手になるもので、以後、今にいたるまでこの種のヴィジュアルに大きな影響を与えているけれど、『プロメテウス』もそのデザインを踏襲している。鋼鉄のメカニカルな感触と巨大化した性器のような奇怪な形態。そこにはいつも粘液がまとわりついている。

第1作はホラー映画のスタイルを取って、エイリアンの出現は見る者を恐怖におとしいれた。でも『プロメテウス』ではそんな脅かしの映像やショットのつなぎはあまり使われない。古代文明を思わせるドームや、エンジニアの宇宙船操縦室や、エイリアンの薄気味悪い映像から、恐怖を味わうというより、リドリー独特の美的感覚を楽しむ映画だろう。その意味でもこれはエイリアン・シリーズというより、『2001年 宇宙の旅』に近い。もっとも、リドリーの映画はスタンリー・キューブリックの映画みたいに、隠された意味をあれこれ詮索しても始まらない。巨匠になったリドリーの美しい叙事詩に酔っていれば、それでいいんだと思う。

映画の最後、どのようにエイリアンが誕生したかが明かされる。だから『プロメテウス』は『エイリアン・ライジング』でもあるわけだ。当然、続編があるんだろう。


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August 24, 2012

金曜夜はやっぱり国会前

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No Nukes Meeting in front of The Diet

お盆明けでどうかなと思ったけど、多くの人が脱原発を求めて国会前に集まった。さすがに先月の国会包囲集会ほどの人出はないけれど、この規模の集会が続けば政治も無視できないだろう。

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August 23, 2012

『かぞくのくに』 言葉少なの理由

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Our Homeland(film review)

吉永小百合をスターにした『キューポラのある街』(1962)で、忘れられないシーンがある。吉永小百合演じる少女の同級生で在日朝鮮人の一家が北朝鮮へ帰国することになり、川口駅前で別れを惜しむ。集団帰国する者・見送る者がごったがえす夕暮れの駅前の雑踏を、カメラはぐるりと見渡していた。

そのカメラが捉えた駅前の町並みのほんの少し先に、私の育った家と鋳物工場があった。私は吉永小百合の2歳下で、映画では彼女に弟もいるから、川口を舞台にした『キューポラのある街』はほとんど私と友人たちの物語と言ってもいいくらいだ。川口は鋳物の町、つまり戦争中は軍需工場の町で、かなりの数の在日朝鮮人が工場で働いていた。彼らは戦後もそのまま、たいていは粗末な家に暮らしていた。

私の入った小学校にはどのクラスにも4、5人の朝鮮人生徒がいた。朝鮮人の先生もいて、放課後は彼らだけ集まって朝鮮語など特別な授業を受けていた(今考えれば先生も授業も法的に認められたものでなく、市の独自の判断だったろう)。私といつも徒競争で先頭を競い遊び仲間だった李泰明君も、中学に入った後、映画と同じ頃に北朝鮮に帰っていった。彼から一度だけ手紙が届いたが、その後は音信不通になった。

『かぞくのくに』はそれから30年近くたった1990年代半ばの物語である。

25年前に北朝鮮に渡ったソンホ(井浦新)が、脳の腫瘍を治療するため3カ月という期限つきで東京に帰ってくる。家族は朝鮮総連(映画ではそう言ってないが)幹部の父(津嘉山正種)、喫茶店を経営して一家を支える母(宮崎美子)、日本語教師をやっている妹のリエ(安藤サクラ)。3人は帰ってきたソンホと再会を喜ぶが、ソンホには見張りとしてピョンヤンからヤン(ヤン・イクチュン)が同行し、自宅前に車を止めてソンホと家族の行動を監視するようになる。

脚本・監督は在日朝鮮人のヤン・ソンヒ(梁英姫)で、彼女の実際の体験を基にしているという。妹のリエが監督自身と重なっている。

映画でははっきり言ってないけれど、総連幹部の父はおそらく金日成への忠誠の証として息子を北に差し出したのだろう。もっとも、現在の破綻国家寸前の北朝鮮から当時のことを考えてしまうと、多少の誤解が生ずるかもしれない。地下資源が豊富な北朝鮮(1970年頃まで国力は韓国と拮抗するか、北が上だった)で建国事業に奉仕することは、日本で差別と貧困にあえいでいた在日朝鮮人にとって大きな希望だったことは確かだ。日本のマスコミも「帰国運動」を好意的に記事にしていたし、『キューポラのある街』もその流れのなかにあった。北の実情を知らされていなかった、と言ってしまえばそれまでだが……。

北朝鮮の過酷な現実が少しずつ知られるようになったのは1980年代になってからで、そのころから総連の方針に反して除名されたり脱退する在日が多くなった。国籍を「朝鮮」から「韓国」に変える人や、日本に帰化する人も増えた。1990年代に設定された映画のなかでソンホの父が組織の幹部であることは、彼が筋金入りの北朝鮮支持者であることを示している。

映画は、ソンホを迎えた家族の姿を追う(隅田川と荒川に挟まれた北千住一帯でロケされている)。ソンホは家族と再会した喜びを抑え、あからさまな感情と言葉を表に出さない。父も内心の葛藤があるのか、言葉少なだ。北に批判的でソンホ兄妹を愛する叔父(諏訪太朗)は、「堕落した資本主義も捨てたもんじゃないぞ」とソンホに金を渡す。リエは、ソンホをショッピングに連れ出すけれど、ソンホは値札を見て買おうとしない。ソンホはかつての同級生とも会うけれど、彼らの質問攻めに何も答えない。バーをやっているゲイの同級生は「アタシはマイノリティのなかのマイノリティだけど、ずいぶん生きやすくなった」とつぶやく。

何があったのか、ソンホに急に帰国するよう指示が来る。ソンホは元恋人から「このまま消えちゃおうか」と迫られるけれど、無言で川原にたたずむ。リエはソンホを監視してきたヤンに向かって、「あなたも、あなたの国も大っ嫌い」となじる。ヤンは、「でも私もあなたの兄さんも、その国で生きていかなければならないんです」と静かに応じる。帰国する日、ソンホの母はソンホだけでなくヤンにも新調した背広を贈り、ヤンは黙ってそれを着る。

登場人物たちの激情がほとばしる場面が一、二あるけれど、それ以外のシーンでは誰もが現実を噛み締めて耐えている。本当はたくさんの言葉が発されるはずなのに、言葉が出てこない。そうすることで、監視人のヤンも含めて、国家や組織がひとりひとりの個人に強いているものの重さが見る者にじわっと染みてくる。

安藤サクラも井浦新(ARATAから改名)も、監視人を演ずるヤン・イクチュン(韓国映画『息もつけない』の監督・主演。この映画のために北の訛りを習得してきた)も、それぞれに素晴らしい。北千住界隈の、変哲もない下町と水辺の風景もいい。私は北千住から荒川を遡ったところに位置する川口の似たような風景のなかで育ったので、ソンホにかつての同級生、李君を重ねて見ないわけにいかなかった。

この十年、『パッチギ』(製作・李鳳宇)とか『血と骨』(原作・梁石日、監督・崔洋一)とか、在日コリアン映画と呼べそうな作品があった。『かぞくのくに』もそうした一本、しかも在日朝鮮人が抱える問題を正面から捉えた映画として記憶されるだろう。在日コリアンではないけれど、去年は地方に住む在日ブラジル人やタイ人が登場する『サウダーヂ』みたいな映画もあった。この国に住むさまざなな人間がさまざまな視点からつくり、結果として日本映画を豊かにするこういう作品が、もっと出てきてほしい。

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August 22, 2012

コシヒカリの稲穂

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an ear of rice in my garden

育てているコシヒカリの稲穂が大きくなってきた。稲穂は1株から4本ほど出ている。稲穂が頭を垂れるようになればいいのだが。

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今日の収穫。今年はミニトマトの出来が良くない。実が真っ赤になるまえに腐りはじめたり、黄色い斑点が入ってしまうものが混じる。土のせいか(トマトは連作障害があるから)、肥料のやり方に問題があったのか。

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August 21, 2012

トニー・スコットを悼む

Man_on_fire
memories of Tony Scott's films

トニー・スコット監督が自殺したと報じられている。ロサンゼルス港近くの橋のフェンスによじ登り、飛び降りる姿を目撃されていた。遺書もあったというが、自死の本当の理由など他人からはうかがい知れない。それにしても、なぜ、と思う。

兄のリドリー・スコットとやっていた制作会社「スコット・フリー」のプロデューサーとしてどんな問題を抱えていたか知らないけれど、少なくとも映画監督としてのトニー・スコットは充実していた。この10年を見ても、『マイ・ボディガード』『デジャ・ブ』『サブウェイ123 激突』『アンストッパブル』と快作を連発し、アクション映画の監督としてハリウッドでも一、二を競っていたと思う。最近では、兄のリドリーよりトニーの新作のほうが楽しみだった。

もっとも興行成績は必ずしも良くなかったようだ。wikipediaによると、『サブウェイ123 激突』が興行的に振るわず、進行していた『アンストッパブル』の企画が中断したこともあったという。かつて『トップガン』で組んだトム・クルーズのような華のあるスターでなく、デンゼル・ワシントンという地味な役者と組みつづけたのは、トニーの好みを示しているだろう。それにアクション映画といっても流行のVFXをふんだんに使ったものでなく、デジタル化以前のハリウッドを思わせる正統派のアクション映画だったから、初めからブロックバスターを狙えるものでもなかった。

ファンとしては、彼の映画を思い出すことでその死を悼むしかない。過去に見たトニーの映画から3本を挙げてみる。

『マイ・ボディガード』(2004)
好みで言えば、トニー・スコットの映画ではこれがいちばんと思う。原作はA・J・クイネル『燃える男(Man on Fire)』。元CIAの暗殺者で生きる目的を失った主人公が、メキシコの富豪に娘のボディガードとして雇われる。前半は失意でアル中になった主人公(デンゼル・ワシントン)の凍った心が娘(ダコタ・ファニング)との交流でゆっくり融けていく過程が、後半は麻薬・誘拐カルテルとのすさまじい対決が印象深い。一瞬挿入される黒々としたポポカテペトル山のショットが主人公の心象風景のようで、アクションに翳を与えていた。それまで正義派の役どころが多かったデンゼル・ワシントンが新しい面を開いた作品でもある。

『スパイ・ゲーム』(2001)
アクション映画監督としてのトニー・スコットが自分のスタイルをつくった一作、と思う。それまで『トップガン』や『ビバリーヒルズ・コップ2』で注目されてはいたけれど、兄のリドリーが『ブレードランナー』『エイリアン』とノワール感あふれる傑作を連発していたから、作家的な兄に比べて弟は単純なエンタテインメントか、という思い込みがあった。それがタランティーノ脚本の『トゥルー・ロマンス』で、おや、と思わせ、『スパイゲーム』では新しいエンタテインメントのスタイルを見せてくれた。

引退を目前にしたスパイが、中国で捕われ見殺しにされた後輩の危機を救う。デジタル技術を借りておそろしく速いテンポで物語を展開させながら、ロバート・レッドフォードとブラッド・ピッドの友情物語もちゃんと描く。アクションと人物描写を両立させて、1960年代のロバート・アルドリッチの映画を思い出した。

『アンストッパブル』(2010)
監督としてはこれが遺作になるのか。機関車が暴走する。2人の乗務員が、それを止めようとする。単純明快な設定でアクション映画の見本のような快作。リストラを通告されたベテラン機関士(デンゼル・ワシントン)と、コネで車掌になった若造(クリス・パイン)がいがみあいながらも協力するのは定石通りだけど、それを定石と感じさせないのは2人が抱える問題や家庭をちゃんと描いているから。機関車が暴走するペンシルバニアの工場地帯や郊外の風景も素晴らしい。

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August 13, 2012

カメラ・オブスキュラの像

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camera obscura

マウリッツハイス美術館展に行ったら、ショップでカメラ・オブスキュラを「フェルメールのカメラ箱」として売っていた。ボール紙の簡易組み立てキット。小学校の工作をやっている気分で、30分ほどで組みあがった。

ピンホールではなく、ちゃんとレンズ(プラスチック)と鏡がある。レンズを通して入った光が鏡で屈折し、パラフィン紙のスクリーンに像を結ぶのを上から覗きこむ。レンズを前後させて、ピント合わせもできる。

16世紀以降、フェルメールはじめ多くの画家が使ったという。カメラ・オブスキュラによって正確な遠近法の絵を描くことができるようになった。それがヨーロッパのリアリズム絵画に与えた影響は大きい。

われわれも小学校高学年になると遠近法で絵を描くことが良しとされる教育を受けた。でも、いったん遠近法を知ってしまうと、今度は逆に目に映るものすべてが遠近法で見えてしまう。ゴッホには糸杉があんなに渦巻いて見えたように、北斎には波と富士山があんなに極端に見えたように、それぞれの人にそれぞれのリアルな見え方があるはず。それを忘れないようにしたい。

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試してみると、それなりに像を結ぶ。庭の百日紅。ピントが甘いのは仕方ないけど、けっこう遊べるかもしれない。


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『セブン・デイズ・イン・ハバナ』 音楽と海とハバナっ子

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7 Days in Havana(film review)

小生、ハバナ・クラブの会員である。といってもラム酒メーカーのハバナ・クラブが組織している団体じゃなく、ただの飲み仲間なのだが。メンバーの一人にラテン・アメリカ文学の専門家がいて、何度もハバナを訪れている。彼に引き連れられてハバナに行き、スペイン・コロニアル様式の旧市街を歩き、キューバ音楽を聞き、うまいラムを飲んで、海を見よう、という会なのだが、10年以上前に発足して以来、まだ実現していない。

メンバーがそろって忙しく、今度こそ行こうという話になっても全員のスケジュールが合ったためしがない。でもそんなこと言ってる間にカストロが死ぬかもしれないし、こちらも年を取ってくる。そろそろ本気にならなければ……。

小生のハバナのイメージをつくったものが二つある。

一つは写真家、ウォーカー・エバンスの写したハバナ。白いストローハット、白いスーツの上下、ネクタイをびしっと決め、胸からチーフをのぞかせる洒落たムラート(混血)の男が、雑誌売りのスタンドの前に立っている有名な写真。あるいは、壁にバーや床屋の店の名がさまざまにデザインされたハバナの街角。1932年、アメリカの影響下にあった時代にキューバを訪れたエバンスが撮影した写真群だ。

名目は独立国だが、バナナ・リパブリックならぬシュガー・リパブリック。その植民地的空気と人々の姿をエバンスは見事に切り取っている。このときハバナにはヘミングウェイがいて、意気投合した2人は毎晩飲んだくれたという。

もう一つは映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』。ハバナの旧市街を走る車から、カメラが街路とそこに暮らす人々の姿を映し出していた。スペインの植民地時代に建てられた建物が、その後メンテナンスされずに熱帯の暑く湿った空気に晒されて古び、独特の風合いを醸し出している。そこにキューバ音楽がかぶさって、なんとも素敵な映画だった。

『セブン・デイズ・イン・ハバナ(英題:7 Days in Havana)』は、ハバナの月曜日から日曜日までを7つのエピソードでつないだオムニバス映画。キューバはじめ、スペイン、フランス、パレスチナ、アルゼンチン、アメリカの7人の監督が演出している。ハバナの町とそこで暮らす人々のちょっとした出来事が描かれるが、そのうち外国人(旅行者)の視点から見たものが3本(脚本はキューバのレオナルド・パドゥーラ・フエンテス)。

月曜の「ユマ」はプエルトリコ出身の俳優、ベニチオ・デル・トロの監督デビュー作。ハバナへ来たアメリカの若者が、タクシー運転手の自宅へ招かれハバナ料理(といってもフライド・バナナ)をご馳走になったり、女の子に誘惑されたり。夜はクラブへ出かけ、背が高く化粧の濃い女性と知り合いになるのだが……。いかにも初めての土地を訪れた旅行者が体験しそうな話と、いかにもありそうなオチに、にやりとさせられる。

火曜の「ジャム・セッション」の主役はセルビアの映画監督、エミール・クストリッツァ本人。ハバナ映画祭に招かれたクストリッツァが昼から酔いどれ、レセプションをすっぽかして運転手と酒場に繰り出す。そこではジャム・セッションが行われていて、太った運転手が見事なトランペッターに変身する。運転手を演じているのはキューバのミュージシャン、アレクサンダー・アブレウ。暮れなずむカリブ海に響くトランペットの音色が心地よい。

水曜の「セシリアの誘惑」でハバナの歌い手・セシリアを演ずるメルヴィス・エステベスの歌声も伸びのある声が素敵だ。セシリアは、仕事したスペイン人プロデューサーにマドリッドへ来ないかと誘われ、アメリカへ亡命するかしないか決めかねている恋人の野球選手との間で悩む(セシリアは土曜のエピソードにも出てきて、最後にマイアミへ向け船出する)。

日曜の「泉」は楽しい。おんぼろアパートに住む老婆マルタが朝早く、住民を起こして召集をかける。「聖母が川の女神のためにパーティを開けとおっしゃった。今夜、パーティを開くから部屋に泉をつくって聖母をまつれ」。マルタの命に誰も逆らえない。男たちは、どこかからレンガやペンキを調達してくるし、女たちは料理やケーキをつくる。子供たちは海で魚を釣る。突貫工事で泉は完成し、日曜の夜はパーティで大団円。ハバナの夜は更けてゆく。

エピソードによって出来不出来はある。火曜の「ジャム・セッション」、水曜の「セシリアの誘惑」、日曜の「泉」が印象に残った。でもそれ以上に、月曜から日曜までハバナっ子の喜びや悲しみを綴りながら、背後に常にキューバ音楽が流れているのが快い。音楽とハバナの風景と人々を見ているだけで満足。

ああ、いよいよハバナに行きたくなってきた。

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August 11, 2012

『ダークナイト・ライジング』 ゴッサムとNY

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The Dark Knight Rises(film review)

『タイム・アウト』や『ヴィレッジ・ヴォイス』といったニューヨークの情報誌で、この都市の文化やアート・シーンについて書かれた記事のなかで、ニューヨークはしばしば「ゴッサム(・シティ)」と表現される。ゴッサムはもちろんバットマンが住む架空の都市の名前だけれど、アメリカ人にとってゴッサムという架空の街はニューヨークとほぼ重なるらしい。マンハッタンのソーホー、ヴィレッジ以南のダウンタウンがゴッサム・シティのモデルになっているという(wikipedia)。

ゴッサムと言えばニューヨークというのが常識になったのはコミックのバットマンが登場してからだけど、もともとニューヨークをゴッサムと呼ぶことは19世紀からあったようだ。ゴッサムとはイギリスの伝説上の村で、そこには愚者が住むという。ということは、「愚者の街」といった意味合いなんだろう。

『ダークナイト・ライジング(原題:The Dark Knight Rises)』の撮影はイギリスを中心に、アメリカのニューヨーク、ロサンゼルス、ピッツバーグ、ニューアークやインドで行われた。なかでゴッサムの都市風景はニューヨーク、ロサンゼルス、ピッツバーグでロケされているらしいが、明らかにニューヨークと分かる場面がいくつか出てくる。ニューヨークのランドマークのひとつであるブルックリン橋が落ちるショットがあるし、大詰め近くの舞台になるのはイースト・リバーにかかるクイーンズボロ橋だ。

ただクイーンズボロ橋の場面は画像処理されていて、現実にはクイーンズボロ橋の向こうは海方向とは反対でクイーンズの街並みが広がるけれど、映画ではすぐ海になっていて、バットマンが消えてゆくラストシーンになる。明らかにニューヨークと分かるけれど、完全にニューヨークではない。バットマンのコミックや映画のファンには、そのあたりがいちばん納得できる架空の街・ゴッサムなんだろうか。

「ダークナイト」3部作は悪役が映画のキモだけど(2作目のヒース・レジャーは絶品だった)、今回のべイン(トム・ハーディー)はゴッサムの地下世界の支配者。地上の核融合施設から炉心を奪って中性子爆弾にし、ゴッサムを脅迫して破壊をたくらむ。

この設定、福島第一原発の事故の後ではなんともリアリティがある。福島の事故は、原発がコントロールを失えば(あるいは意図的に暴走させれば)核兵器になりうることを現実に証明してしまった。核施設をテロリストが襲って脅迫する映画の設定は、近未来の現実かもしれない。

バットマンはアメリカを代表する人気コミックだから何度も映画化されていて、僕は1990年代のティム・バートン監督版しか見ていないけど、今回のクリストファー・ノーラン監督の3部作は他に比べてノワール色が濃いように思う。そもそもバットマン(クリスチャン・ベール)と悪役のべインが同じ師をもつという設定からも分かるように、バットマンは単純なヒーローではなくダークな部分を秘めている。

バットマンやスーパーマン、スパイダーマンなどのアメリカン・コミックはは1950年代、撲滅運動に見舞われた。アメリカの良識的保守層は一方でコミュニズムを嫌い(赤狩り)、他方で俗悪コミックを目の敵にした。コミックは社会からはみだしかけた下層の若者や移民の若者に支えられていたから、保守エリートの目には社会的秩序に挑戦するものと映ったんだろう。バットマンが単純な正義のヒーローでなくダークな部分を抱えているのは、それと無関係ではないのかもしれない。

それにコウモリ(バット)とかクモ(スパイダー)とか、人が気持ち悪く思う生き物には「邪悪な力」が秘められているという偏見も、こうしたヒーローを生み出す意識下の原動力になっているだろう。もっともこの作品、イデオロギー的に見れば、ビリオネアで法に拠らない私刑執行人であるバットマンとゴッサム市警が組んで悪玉資本家と地下帝国の反乱派をやっつける構図になる。ヒーローが正義の味方というのはコミックやエンタテインメント映画の基本だから、そこにいかに苦味を流し込むかが作り手の勝負になる。

ノーラン版バットマンのノワール色は、撮影監督ウォーリー・フォスターの仕事を抜きにしては考えられない。

フォスターは『メメント』以来、『インソムニア』『プレステージ』『インセプション』そして「ダークナイト」3部作と、クリストファー・ノーランとずっと組んできた。『メメント』の乾いた都市風景、『インソムニア』では狂気をはらんだ白夜のどんよりした光、『プレステージ』の世紀末の耽美、『インセプション』の暴走する脳内風景と、どの作品も記憶に残るシャープな映像感覚。『ダークナイト・ライジング』でもゴッサムの地下世界の闇が魅力的だ(ニューヨークの地下廃墟に住人がいるという事実をヒントにしたのかも)。

IMAXカメラを3Dでなく大画面でのリアルさを求めるために使っているのも面白い。オープニングの航空機ハイジャックやアメフト競技場の爆破シーンなんかド迫力(ユナイテッドシネマ浦和で鑑賞。それで別料金取られるのは納得いかないけど)。

クリストファー・ノーランとウォーリー・フォスターのチームは、クリント・イーストウッドとトム・スターン、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥとロドリゴ・プリエトといったハリウッドの監督-撮影監督の黄金コンビと比べても引けを取らない。

マリオン・コティヤールが悪役で登場するのもいいな。

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August 10, 2012

路上のブラックマン

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Black Man on terribly hot street in Shibuya

この暑いさなかに仕事とはいえ、ご苦労さん。ストレッチの店開店の宣伝らしい。渋谷で。


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August 05, 2012

最初の1枚

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summer sky in Ginza, Tokyo

6年間使った常用カメラ、リコーGX100が壊れてしまった。この機種には満足していたし、ニューヨークに1年いたときも毎日持って歩いたので愛着はあったけど、思い切って買い換えることにした。

僕の常用カメラの条件は、①小さくてショルダーバッグに入ること、②35ミリ前後で撮ることが多いので、その焦点距離で撮れること、③シャッターのタイムラグが小さいこと、④フラッシュを使わないので常時発光禁止に設定できること、⑤露出補正の操作が簡単なこと、⑥四つ切くらいまで伸ばせる、それなりの画質、といったあたり。無論、安いにこしたことはない。

有楽町のビックカメラで1時間ほどあれこれいじって、結局決めたのはニコン・クールピクスP7100。①の条件だけは今までのGX100より一回り大きくて重く、気にはなる。バッグにカメラと手帳、携帯、それに単行本を1冊入れると(外出の最小限)、それなりの重さになりそうだ。まあ我慢の範囲内、と思うことにする。ほかの条件は問題なくクリア。それに発売から時間がたっていて、けっこう安くなっているのがありがたい。

最初に試しに撮ったのがこの1枚。銀座コアのエレベーターから。いかにも夏空の雲、だった。


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