『苦役列車』 おかしみの相乗?
西村賢太の小説『苦役列車』から滲み出るおかしみの元は文体にあると思う。戦前の私小説をモデルにした古めかしい文体を、地の文にも会話にも採用している。例えばこんなふうに。
「斯くして、最も手っ取り早い日銭の稼ぎ先を失った貫多は、たちまち次の日より困窮状態に追い込まれる次第と相成った。/飲み食いの方の不如意は無論、買淫どころか煙草銭にさえ事欠く有様となってしまった」
「『畜生。山だしの専門学校生の分際で、いっぱし若者気取りの青春を謳歌しやがって。当然の日常茶飯事ででもあるみてえに、さかりのついた雌学生にさんざロハでブチ込みやがって』」
戦前の古い小説みたいな空気と、身勝手で臆病で嫉妬むきだしのセリフばかり吐く主人公の、時代から取り残された生き方とが妙に親和して、客観的に考えればこんな嫌な奴はいないのに、読んでるうちに親近感を覚えてしまう。
一方、山下敦弘の映画から滲み出るおかしみの元もその文体にある。『リンダ・リンダ・リンダ』でも『松ヶ根乱射事件』でも『天然コケッコー』でも、カットを短く刻まない長回し、風景や人を正面から捉えるカメラ・ポジション、セリフとセリフのあいだの絶妙の間。物語をあれこれ動かすより、ショットやセリフの面白さの積み重ねで映画をつくる。そんなスタイルに貫かれた画面のなかで、ペ・ドゥナや新井浩文や夏帆が生き生き動きまわっていた。
でも映画『苦役列車』は、西村賢太のおかしみと山下敦弘のおかしみが合体して相乗効果を上げたかと言われれば、面白いシーンはそれなりにあるんだけど、うーん、ちょっと残念だったね。
もちろん小説の文体のおかしみがそのまま映画の文体のおかしみに移しかえられる訳はない。そこで山下敦弘が考えたのは、メジャーな映画にふさわしく物語として再構成すること。そのため小説には存在しない康子(前田敦子)を登場させて、貫多(森山未來)と康子の青春ストーリーを脇の主題にしようとしたと思う。でもそんなふうに物語的要素を増やしたために、『マイ・バック・ページ』に続いて山下敦弘本来のスタイルはずいぶんと弱くなったなあ。
大手製作会社の映画の作り手として当然の変貌だろうけど、かつては川島雄三も加藤泰も深作欣二も5社体制のなかで個性あふれる作品をつくっていたわけだから、山下は自分のスタイルをこれからどうつくってゆくのか。彼の映画を見つづけたい。
その代わりに山下が力を入れたのは、舞台になる1980年代の東京、真っ盛りのバブルから取り残された場末の町や風俗街のリアリティ。代田橋や大泉、八王子、土浦あたりでロケし、さらにデジタルでなくスーパー16ミリのフィルムで撮影しているから粒子が荒れ、その効果は出てるけど、そのために映画全体がリアリズムになった。原作は実体験を基にした私小説ではあるけれど、必ずしも三人称のリアリズムではなく、むしろ貫多の目から見られた歪んだ一人称に近い。
当時のバブルの雰囲気は、貫多がバイト先で知り合う専門学校生の正二(高良健吾)とガールフレンドに象徴させている。それ以上に背景を描けば社会的視点が入ってきてしまうから、そうしなかったのはいかにも山下らしいけど。
最後、貫多がアパートのごみ溜めに上空から降ってくるのは、『マグノリア』で最後に蛙が降ってくるのを思い出した。でも、あのシュールな終わり方と違って、最後は大家に家賃を催促されておかしみのあるリアリズムで終わる。このラスト、好きだなあ。
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