『私が、生きる肌』 アルモドバル流魔術
The Skin I Live in(film review)
『私が、生きる肌(原題:La Piel Que Habito)』の予告編を見たとき、僕が連想したのは安部公房の原作を勅使河原宏が映画化した『他人の顔』だった。事故で顔に大火傷を負った男(仲代達也)が、精巧な仮面をかぶって「他人」となり、妻(京マチ子)を誘惑し、仮面をつくった医者(平幹二朗)を殺す。いかにも安部公房らしく孤独な現代人のアイデンティティを巡る哲学的で、エロティックでもある映画だった。
でも実際に見た『私が、生きる肌』は、ずいぶんテイストの違うものでしたね。『他人の顔』のような哲学的心理劇というよりソープオペラに近い、妻と娘を失ったマッド・サイエンティストの愛憎・復讐譚。アルモドバル監督の映画は、通俗的な設定や物語と耽美的な映像、現代アートへの興味がないまぜになっていることが多いけど、『私が、生きる肌』もそんなアルモドバルらしい一本。彼自身はこの映画について「悲鳴と恐怖のないホラー映画」と語っている(wikipedia)。
人工皮膚を研究する医師・ロベル(アントニオ・バンデラス)の妻・ベラは、ロベルの異父弟に誘惑され、交通事故で全身を火傷して自殺してしまう。ロベルの娘・ノルマもデートレイプされそうになり精神に異常を来たして死んでしまう。ロベルは娘を襲ったビセンテ(ジャン・コルネット)を誘拐監禁し、性転換手術を施したうえ全身に人工皮膚を植えつけ、顔は死んだ妻そっくりに仕立ててベラ(エレナ・アナヤ)と名づける。
映画は現在と過去を行き来しながら、次第にその物語を明らかにする。でも冒頭は、ロベルが手術後に豪邸の一室に閉じ込めたベラを見つめ、話しかけることから始まるから、見る者はロベルとベラの関係が妻なのか、愛人なのか、また別の関係なのかよく分からない。ロベルの部屋には超大型の液晶画面が据えられ、常にベラを写している。現実のロベルと映像のベラがスケールの異なる大きさで写されるショットが、2人の不安定な関係を暗示している。
娘を死に追いやったビセンテを人体実験によって亡き妻そっくりの人工美女に仕立て、そのビセンテ(ベラ)をロベルがどのように愛するようになったのか。女にされたビセンテ(ベラ)は、逃亡や自殺未遂を繰り返しながら、どのように自分が女性であることを受け入れ、ロベルを愛するようになったのか。
アルモドバルはそんな心理ドラマにほとんど関心がないようだ。次々に畳みかける過剰なストーリー展開と(本筋以外にも、アルモドバルらしい母と息子の愛と葛藤がサブ・ストーリーになっている)、倒錯的エロティックなシーンと、いつもながら赤を基調とした耽美的な映像と、ベラが壁にびっしり書く日付や塑像といった現代アートふうな映像と、快い音楽とに酔いながら、見る者は心理ドラマの不在に気づく間もなくに結末に連れていかれる。
それがアルモドバルの魔術であり、観客を納得させる心理ドラマの不在は意図されたものだろう。その意味でアルモドバルの映画を見るのは、ストーリーの矛盾に気づく間もなくはらはらどきどきさせられ、気がつけば結末にたどりついているヒッチコック体験に似ている。
アルモドバルはストーリーのヒントを1950年代フランスの犯罪映画『顔のない眼』から得たらしい。『気狂いピエロ』が50年代B級犯罪映画のゴダール流リメイクだったように、『私が、生きた肌』も50年代犯罪映画のアルモドバル流リメイクなんだろうな。
Comments
去年のラテンビートで観たキリなんですが、アルモドバルらしいとしか言いようのない鮮烈な映画でした。
好き度は高くないけれど、ぐいぐい引き込まれる怖面白さ。
Posted by: かえる | June 06, 2012 11:13 AM
アルモドバルのストーリー・テリングの凄さに圧倒されます。でもこの映画、女性から見たらいろいろ「問題あり」でしょうね。母子関係もいかにもアルモドバルだし。
Posted by: 雄 | June 06, 2012 07:29 PM