「砂町」と「屠場」
Onishi Mitsugu & Motohashi Seiichi photo exhibition
力の籠もった写真展をふたつ見た。大西みつぐ「砂町」(~6月21日、新宿・エプサイト)と、本橋成一「屠場」(~6月19日、銀座ニコンサロン)。
「砂町」は大西が18歳から12年を過ごした江東区砂町を撮影したもの。砂町は両国や深川といった江戸情緒あふれる下町ではなく、昭和に入ってからの新開地。かつては郊外の農村であり、その後は工場地帯として発展した。町工場。モルタルのアパート。葦原と土手とコンクリート堤。「砂町銀座」の商店街。僕が生まれ育ったキューポラの町、埼玉県川口(砂町の側を流れる荒川の上流に当たる)と似た雰囲気を持っている。
今でこそ表通りはきれいになりマンションが林立するけれど、町の裏側に入り込むと昭和のすがれた空気が残っている。といって、大西は青春を過ごした町の記憶をノスタルジックにたどるわけでなく、マンションや新しい公園も含めた今の砂町にカメラを向けている。フィルム・カメラでなくデジタル・カメラのカラーで撮られているのも、そんな現在の空気と色を写しこむための試みのように見える。人の動きのユーモラスな瞬間を捉える切れの良さと、人々に向ける温かい視線は昔から変わらない。
会場にいると撮影者の体温がじわっと伝わってくる、いい写真展でした。
「屠場」は、大阪府松原にある牛の屠場を十数年にわたって撮影したドキュメント。
ドキュメンタリーというのは、空間的・時間的距離によって「見えないもの」、あるいは同じ空間・時間を共有しているのに「見えないもの」を、「見えるもの」として受け手に提示してみせる作業と言えないだろうか。「屠場」は、私たちが生命を維持するのに欠かせないものとして日常生活の基礎となる営みでありながら、「見えないもの」あるいは「見たくないもの」として存在している。
朝、処理場へ引かれてきた牛が屠畜室へ入れられ、技術員が眉間に特殊なピストルを打ち込む。急所をはずせば牛が暴れるから、熟練の職人技が求められる。倒れた牛は脊髄をつぶされ、喉を切られて吊るされる。血を抜かれ、皮をはがれ、部位ごとに解体される。内蔵は内臓処理室へ送られる。その過程がモノクロームで克明に記録されている。「いつからぼくたちは、いのちが見えなくなったのだろうか」と本橋は問う。
今もなくなっていない偏見のなかでここで働く人々がカメラの前に立っているのは、ひとえに撮影者への信頼ゆえだろう。ピストルを手にした技術員のポートレートは、生命をつかさどる者の尊厳に満ちている。
(ふたつの写真展とも、同名の写真集が刊行されている。どちらも力作です)
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