安世鴻写真展「重重」を見る
写真展の中止問題がニュースになっている安世鴻写真展「重重」を見てきた(~7月9日。新宿・ニコンサロン。ただしニコンは開催を認めた東京地裁の決定に異議申立て中で、認められれば途中中止もありうるとしている)。周囲の騒々しい雑音のなかで、きわめて静かな写真、というのが第一印象だった。
韓国人写真家の安世鴻(アン・セホン)は、第二次大戦中に中国大陸で従軍慰安婦とされ、戦後は故郷に帰れず中国各地で暮らしている朝鮮人女性を訪ね歩いた。高齢になった彼女らは、ほとんどが貧しい暮らしを強いられている。写真の一部は「重重プロジェクト」に紹介されているが、そんなハルモニたちの肖像と生活が淡々と捉えられている。「敬老院」前でのスナップや、冬枯れの畑を支えられて歩くショット、狭い室内で料理するショットなど、日常の営みのなかからハルモニたちの思いが滲み出てくる。
写真は時にアジテーションの具ともなるが、ここには悲惨さを強調したり、撮影者のメッセージを声高に主張したりする姿勢はない。撮影者が時間をかけて彼女たちとつきあい、その心を溶かして内側に入り込めたからこそ可能になった表現だろう。
元従軍慰安婦の朝鮮人女性が中国にも取り残されていることを、この写真展で初めて知った。事実から目をそらしたり、予見に捉われて物を見るのでなく、まず事実そのものを見つめること。朝鮮人慰安婦の存在が政治問題化して久しいけれど、そうした作業からしか物ごとは始まらないのではないか。
社外の写真家による審査によって開催が決まったこの写真展を、ニコンサロンが「諸般の事情」で中止すると写真家に伝えたのは5月22日だった。ネット上に「歴史の捏造に加担する売国行為」といった批判がアップされ、ニコンにも抗議の電話が寄せられていたという。 仮処分審理の場で、ニコンは「政治性がないのが応募条件だが、それに反する」と主張した(朝日新聞。なお東京地裁は「そうした条件は明示されていない」とニコンの主張を退けた)。
ニコンサロンの写真展は、ほかの企業系ギャラリーがドキュメンタリーを避けて風景や動物の写真展が多いのに比べ、珍しくドキュメンタリーを重視してきた。ニコン・カメラが世界的ブランドになったきっかけは、朝鮮戦争に従軍した欧米の報道写真家がニコンの先鋭な描写力に惚れこんだことにあるから、それ以来の伝統を継いでいるともいえる。今年になってからも、東日本大震災をテーマにした連続写真展(本ブログ3月11日参照)や本橋成一の「屠場」(6月9日参照)など、ニコンサロンならではの優れた企画だった。
それだけに、今回のニコンの姿勢を残念に思う。どのような圧力があり、どのような議論があったのか知らないけれど、いったん決定した写真展をあやふやな理由で中止するのは、ドキュメンタリーに力を入れてきたニコンサロンの伝統に自ら水を差すことになる。
ましてや「政治性があるから」という弁明はいただけない。ドキュメンタリーは常に政治性を帯びる可能性があり、それを避けてはドキュメンタリーは成り立たない。ニコンサロンの展覧会として相応しいかどうかは政治性の有無でなく、作品の質が高いかどうか、だけであるはずだ。そうした経緯を経て開催を決めた以上、それなりの覚悟はあったはずだと思うのだが。
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