『ブラック・ブレッド』 少年の翼
『ブラック・ブレッド(原題:Pa Negre)』を見ながら、スペイン映画なのに言葉の響きがスペイン語らしくないなあと思っていたらカタラン語だったんですね。ポスターのPa Negreもスペイン語でなくカタラン語。考えてみれば、カタロニアを舞台にした映画で登場人物がカタラン語をしゃべるのは何の不思議もない。いや、ごく自然なことだ。
フランコ独裁政権下で使用を禁止されていたカタラン語(やバスク語)が許されるようになったのは1975年のフランコ没後のこと。『ブラック・ブレッド』がカタラン語の映画として初めてアカデミー賞外国語映画賞のスペイン代表に選ばれたことから分かるように、フランコ没後40年近くたって、ようやくカタラン語の映画が国際的に認知されるようになってきたということか。
この映画はスペイン・フランス合作映画。カタロニアにはスペインから独立の気運があり、ピレネー山脈をはさんでフランスと国境を接しているから、フランス資本が入っているのは理解できる。監督のアグスティー・ビジャロンガはスペイン人だが、原作はカタロニア人ジャーナリスト。
マドリッドで上映するときはスペイン語の字幕がつくか、吹き替えされたんだろうな。今、アメリカ資本が世界中に入り込んで、あるいは英語圏の市場を狙って、いろんな国の映画が英語でつくられている(フランス映画で登場人物が英語をしゃべるのは何ともヘンな感じ)。そういう風潮に反して、こんな地域語(民族語)の映画が増えるのはとてもいいことだと思う。
日本でも20年以上前に『ウンタマギルー』(高嶺剛監督)という傑作があって、全編沖縄方言。日本語の字幕がついていた。これは日本映画じゃなく沖縄映画だなと思った記憶がある。それが継承されなかったのは残念だけど。
舞台は1940年代、スペイン市民戦争がフランコの勝利に終わった後の1940年代カタロニア。ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』が描くように、カタロニアは共和国軍(オーウェルやヘミングウェイ、キャパが参加した市民軍)とフランコ軍が最後まで激しく戦った場所だった。それだけに住民に残した傷は深く、フランコが勝利した後の弾圧もひどかった。その傷の深さが、映画の背景になっている。
カタロニアの山村に住む少年・アンドレウ(フランセスク・クルメ)が、崖下に落ちた馬車から瀕死の友達と、その父の死体を見つける。警察が殺人事件として捜査を始め、アンドレウの父・ファリオル(ルジェ・ガザマジョ)が疑われる。ファリオルと死んだ村人は共に内戦のとき共和国派に属していた。内戦後は村八分に近い扱いを受け、鳥を飼うことで辛うじて生計を立てている。ファリオルはアンドレウに「理想を忘れるな」と言い残してフランスへ逃げ、アンドレウは祖母の家に預けられる。そこには娼婦の家系と蔑まれている、片掌のない従姉・マリア(マリナ・コマス)がいた。
少年の目を通して村の様子が描かれる。金がすべてと教える学校教師はマリアと関係を持っている。夫のファリオルを助けてほしいと町長(セルジ・ロペス)に訴えでた少年の母・フロレンシア(ノラ・ナバス)は、フランコ派の町長に乱暴されてしまう。アンドレウは修道院で結核を治療している美青年を森で見かけ、山の洞窟にいるという翼を持った怪物を青年に重ねる。
殺された男の妻が、共和国派だった夫とファリオルが、実はフランコ派の裕福な地主からある男を私刑にする仕事を請け負っていたことを暴露する。祖母の家の屋根裏に潜んでいるところを発見され、逮捕されたファリオルは、地主に何事かを請い願う手紙を少年に託す……。
敗れた共和国派と勝利したフランコ派、貧しい農民と裕福な地主の関係が絡み合った村の人間模様。貧しい者同士のいがみあい(ブラック・ブレッドとは小麦だけでなくトウモロコシ、どんぐりの実などを混ぜた「貧者のパン」)。男色に対する偏見。少年が幻想する、ピレネーの森に住む翼をもつ怪物。父の、知らなかった裏の顔。殺人事件の犯人探し。いろんな要素が詰め込まれている。それがどこかに鋭く焦点を結ぶというより、ばらばらな印象のまま終わってしまうのが惜しい。
最後、少年は父の支払った犠牲の上に、地主の養子になって医師への道を歩き始める。少年が手にした翼は、無垢なものではありえなかった。成長した少年の姿は、現在の多くのカタロニア人の姿でもあるのだろうか。カタロニア版アカデミー賞であるガウディ賞を作品賞はじめ13部門で受賞したのは、少年に自身の姿を見たカタロニア人が多かったことの証左だろうか。
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