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June 30, 2012

『ブラック・ブレッド』 少年の翼

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Pa Negre(film review)

『ブラック・ブレッド(原題:Pa Negre)』を見ながら、スペイン映画なのに言葉の響きがスペイン語らしくないなあと思っていたらカタラン語だったんですね。ポスターのPa Negreもスペイン語でなくカタラン語。考えてみれば、カタロニアを舞台にした映画で登場人物がカタラン語をしゃべるのは何の不思議もない。いや、ごく自然なことだ。

フランコ独裁政権下で使用を禁止されていたカタラン語(やバスク語)が許されるようになったのは1975年のフランコ没後のこと。『ブラック・ブレッド』がカタラン語の映画として初めてアカデミー賞外国語映画賞のスペイン代表に選ばれたことから分かるように、フランコ没後40年近くたって、ようやくカタラン語の映画が国際的に認知されるようになってきたということか。

この映画はスペイン・フランス合作映画。カタロニアにはスペインから独立の気運があり、ピレネー山脈をはさんでフランスと国境を接しているから、フランス資本が入っているのは理解できる。監督のアグスティー・ビジャロンガはスペイン人だが、原作はカタロニア人ジャーナリスト。

マドリッドで上映するときはスペイン語の字幕がつくか、吹き替えされたんだろうな。今、アメリカ資本が世界中に入り込んで、あるいは英語圏の市場を狙って、いろんな国の映画が英語でつくられている(フランス映画で登場人物が英語をしゃべるのは何ともヘンな感じ)。そういう風潮に反して、こんな地域語(民族語)の映画が増えるのはとてもいいことだと思う。

日本でも20年以上前に『ウンタマギルー』(高嶺剛監督)という傑作があって、全編沖縄方言。日本語の字幕がついていた。これは日本映画じゃなく沖縄映画だなと思った記憶がある。それが継承されなかったのは残念だけど。

舞台は1940年代、スペイン市民戦争がフランコの勝利に終わった後の1940年代カタロニア。ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』が描くように、カタロニアは共和国軍(オーウェルやヘミングウェイ、キャパが参加した市民軍)とフランコ軍が最後まで激しく戦った場所だった。それだけに住民に残した傷は深く、フランコが勝利した後の弾圧もひどかった。その傷の深さが、映画の背景になっている。

カタロニアの山村に住む少年・アンドレウ(フランセスク・クルメ)が、崖下に落ちた馬車から瀕死の友達と、その父の死体を見つける。警察が殺人事件として捜査を始め、アンドレウの父・ファリオル(ルジェ・ガザマジョ)が疑われる。ファリオルと死んだ村人は共に内戦のとき共和国派に属していた。内戦後は村八分に近い扱いを受け、鳥を飼うことで辛うじて生計を立てている。ファリオルはアンドレウに「理想を忘れるな」と言い残してフランスへ逃げ、アンドレウは祖母の家に預けられる。そこには娼婦の家系と蔑まれている、片掌のない従姉・マリア(マリナ・コマス)がいた。

少年の目を通して村の様子が描かれる。金がすべてと教える学校教師はマリアと関係を持っている。夫のファリオルを助けてほしいと町長(セルジ・ロペス)に訴えでた少年の母・フロレンシア(ノラ・ナバス)は、フランコ派の町長に乱暴されてしまう。アンドレウは修道院で結核を治療している美青年を森で見かけ、山の洞窟にいるという翼を持った怪物を青年に重ねる。

殺された男の妻が、共和国派だった夫とファリオルが、実はフランコ派の裕福な地主からある男を私刑にする仕事を請け負っていたことを暴露する。祖母の家の屋根裏に潜んでいるところを発見され、逮捕されたファリオルは、地主に何事かを請い願う手紙を少年に託す……。

敗れた共和国派と勝利したフランコ派、貧しい農民と裕福な地主の関係が絡み合った村の人間模様。貧しい者同士のいがみあい(ブラック・ブレッドとは小麦だけでなくトウモロコシ、どんぐりの実などを混ぜた「貧者のパン」)。男色に対する偏見。少年が幻想する、ピレネーの森に住む翼をもつ怪物。父の、知らなかった裏の顔。殺人事件の犯人探し。いろんな要素が詰め込まれている。それがどこかに鋭く焦点を結ぶというより、ばらばらな印象のまま終わってしまうのが惜しい。

最後、少年は父の支払った犠牲の上に、地主の養子になって医師への道を歩き始める。少年が手にした翼は、無垢なものではありえなかった。成長した少年の姿は、現在の多くのカタロニア人の姿でもあるのだろうか。カタロニア版アカデミー賞であるガウディ賞を作品賞はじめ13部門で受賞したのは、少年に自身の姿を見たカタロニア人が多かったことの証左だろうか。

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June 27, 2012

安世鴻写真展「重重」を見る

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Ahn Sehong photo exhibition

写真展の中止問題がニュースになっている安世鴻写真展「重重」を見てきた(~7月9日。新宿・ニコンサロン。ただしニコンは開催を認めた東京地裁の決定に異議申立て中で、認められれば途中中止もありうるとしている)。周囲の騒々しい雑音のなかで、きわめて静かな写真、というのが第一印象だった。

韓国人写真家の安世鴻(アン・セホン)は、第二次大戦中に中国大陸で従軍慰安婦とされ、戦後は故郷に帰れず中国各地で暮らしている朝鮮人女性を訪ね歩いた。高齢になった彼女らは、ほとんどが貧しい暮らしを強いられている。写真の一部は「重重プロジェクト」に紹介されているが、そんなハルモニたちの肖像と生活が淡々と捉えられている。「敬老院」前でのスナップや、冬枯れの畑を支えられて歩くショット、狭い室内で料理するショットなど、日常の営みのなかからハルモニたちの思いが滲み出てくる。

写真は時にアジテーションの具ともなるが、ここには悲惨さを強調したり、撮影者のメッセージを声高に主張したりする姿勢はない。撮影者が時間をかけて彼女たちとつきあい、その心を溶かして内側に入り込めたからこそ可能になった表現だろう。

元従軍慰安婦の朝鮮人女性が中国にも取り残されていることを、この写真展で初めて知った。事実から目をそらしたり、予見に捉われて物を見るのでなく、まず事実そのものを見つめること。朝鮮人慰安婦の存在が政治問題化して久しいけれど、そうした作業からしか物ごとは始まらないのではないか。

社外の写真家による審査によって開催が決まったこの写真展を、ニコンサロンが「諸般の事情」で中止すると写真家に伝えたのは5月22日だった。ネット上に「歴史の捏造に加担する売国行為」といった批判がアップされ、ニコンにも抗議の電話が寄せられていたという。 仮処分審理の場で、ニコンは「政治性がないのが応募条件だが、それに反する」と主張した(朝日新聞。なお東京地裁は「そうした条件は明示されていない」とニコンの主張を退けた)。

ニコンサロンの写真展は、ほかの企業系ギャラリーがドキュメンタリーを避けて風景や動物の写真展が多いのに比べ、珍しくドキュメンタリーを重視してきた。ニコン・カメラが世界的ブランドになったきっかけは、朝鮮戦争に従軍した欧米の報道写真家がニコンの先鋭な描写力に惚れこんだことにあるから、それ以来の伝統を継いでいるともいえる。今年になってからも、東日本大震災をテーマにした連続写真展(本ブログ3月11日参照)や本橋成一の「屠場」(6月9日参照)など、ニコンサロンならではの優れた企画だった。

それだけに、今回のニコンの姿勢を残念に思う。どのような圧力があり、どのような議論があったのか知らないけれど、いったん決定した写真展をあやふやな理由で中止するのは、ドキュメンタリーに力を入れてきたニコンサロンの伝統に自ら水を差すことになる。

ましてや「政治性があるから」という弁明はいただけない。ドキュメンタリーは常に政治性を帯びる可能性があり、それを避けてはドキュメンタリーは成り立たない。ニコンサロンの展覧会として相応しいかどうかは政治性の有無でなく、作品の質が高いかどうか、だけであるはずだ。そうした経緯を経て開催を決めた以上、それなりの覚悟はあったはずだと思うのだが。

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June 23, 2012

高味壽雄君を悼む

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memories of Takami Toshio

中学・高校以来の友人、高味壽雄君が亡くなった。こう書くだけで、身体から力が抜けていくのを感じる。

入院して3週間。末期の肺癌と肝硬変に加え、肺炎を併発した。病名から想像できるように、高味君は最後まで強い酒とタバコを好んだ。酒の席ではウィスキーのオンザロックに始まり、やがて「氷はいらない、ストレートで」になる。入院してHCU(高度治療室)に入ってからも、酸素を肺に取り込もうと大きく口を開け、苦しそうに呼吸しながら、友人のUにタバコを吸いたいと訴えた。

腰や肩に激痛を覚えながらぎりぎりまで大きな病院に行かなかったのは、身体を蝕む癌細胞とその転移を予感していたのか。苦痛に耐えながら、最後の最後まで友人や鎌倉のご近所、大学の教え子たちと一緒によく飲み、大量の煙を吸い、議論し、遊び、ウェブ上で発信を続けた。好きなことだけをやり、好きなように生きた。

高味君が8年前に始めたブログ「Radical Imagination」は去年の3.11、東日本大震災と原発事故の後、スイッチが入り直したように活発になった。ブログだけでは足らずにツイッターやfacebookも使ってメディアが報じない情報を集め、この国のシステムのおかしさを指摘し、住民の動きを支援し、反原発を訴えた。事故直後は昼夜を問わすメッセージを出しつづけて、おそらくほとんど寝ていなかったと思う。「少し休んだら」とメールしたこともあった。

僕のこのブログは本と映画と音楽の軟派なサイトだけれど、そこで書くことについて常に高味君のブログを意識していたことは間違いない。そもそもこのブログを始めたきっかけも、ITを駆使してデザイン/反デザインを教えていた高味君に影響されてのことだ。

高味君とは中学・高校時代から亡くなる直前まで、ある時期は頻繁に会い、ある時期は疎遠になったりした。別の大学に進んで疎遠になった時代に一度だけ会い、鮮明に覚えている場面がある。

1967年10月8日、佐藤栄作首相のベトナム訪問に抗議する新左翼の「羽田闘争」で、京大生の山崎博昭が死んだ日。京急蒲田駅近くで、機動隊に蹴散らされ追われたデモ隊が数百人、ただの群集になって逃げていた。僕もそのなかの一人だったわけだが、交差点で別方向から逃げてきた別のグループが合流したと思ったら、いきなり目の前に高味君の顔が出現したのだった。一瞬立ち止まり、互いに顔を見合わせて「やあ」と一言だけ言って笑い、また別れて走った。

その後、高味君は同じ高校の友人の名前を借りて返還前の沖縄に潜行したと聞いた(これについては当事者のNがブログ「ブック・ナビ」の6月16日に書いている)。再会したのは、その日から20年後のこと。それからは年に一、二度会い、会えば新宿や銀座で深夜まで飲んだ。氷はいらない、ストレートでとは、たいてい終電もなくなった深夜に飛び出すセリフだ。

冒頭の古い写真は、高校3年の秋、運動会の夜に打ち上げをやったときのもの。高校生の打ち上げとはいえ、アルコールも入っている。前から2列目、左から3人目、ワイシャツを脱いで白シャツで写っているのが高味君。本郷から通い、テニス部に属し、クラシック音楽が好きで、埼玉の工場地帯に育った僕から見ると山の手の香りを漂わせる少年だった。映画や(彼は古典好き、僕はゴダールから座頭市から手当たり次第)音楽や(彼はクラシック、こちらはジャズ)、激しくなっていたベトナム戦争のことを話した。

還暦を過ぎてからも、高見君と議論すると「Radical Imagination」というブログ名の通り彼は常にラディカル(根底的)な立ち位置を取ろうとした。その姿勢は昔から変わらない。この歳になると、目指す方向は共有していても、道筋についてはけっこう意見が食い違う。そんなとき、一拍おいてスイッチを入れ替えると、瞬時に高校時代の馬鹿話に興じていたときの関係に戻れる。それが中学・高校以来の友達ということだったろう。

高味君とは、いつでも会えるし、いつまでも語り合えると思っていた。それなのに高味、君はふっといなくなってしまった。病院から斎場に搬送された君に会ったとき、病院ではあんなに苦しげに呼吸していた君が穏やかに微笑んでいるのに、もう額は冷たくなっていた。淋しい。


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June 21, 2012

吉武研司さんのマグカップ

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a mug by Yoshitake Kenji

ご近所の友人である画家、吉武研司さんはこのところ陶板壁画家としての活躍が目覚しい。東京の順天堂大学付属練馬病院、地下鉄副都心線北参道駅、成田空港第2空港ビルなどに巨大な陶板壁画を製作している。

その陶板を中心にした個展「八百万の神々の話」に行ってきた(~6月26日、広尾・ギャラリー華)。

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吉武さんの陶板に描かれたヒトや動物や魚や植物はどれも明るくて、生命を謳歌するように輝いている。陶磁器の釉薬でどうしてこんな色が出るの? と言いたくなる深い黄色や朱色が鮮やかだ。こういうものに囲まれていると、気分も軽やかで豊かになりそうだ。

せめてその恩恵にあずかろうと、染付けのマグカップを買った。僕は毎朝ミルクティーを飲む習慣があるので、明日からはこれにしよう。

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June 14, 2012

『ファウスト』『ダーク・シャドウ』 中世の闇

Faust

Dark_shadows
Faust & Dark Shadows(film review)

『ファウスト』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)と『ダーク・シャドウ』(ティム・バートン監督)を続けて見て、一方はゲーテ原作の映画化でヴェネツィア映画祭でグランプリを得たアート的作品、他方は子供の頃見たヴァンパイアTV映画に惚れたジョニー・デップが製作したハリウッド製エンタテインメントと対照的な映画だけど、いくつかの共通点があるのが面白かったな。

ひとつは、両方とも撮影監督が同じブリュノ・デルボネルだったこと。もっとも、同じ撮影監督が撮っているとはいえ2本の映画の映像はまったく違う。

『ファウスト』は19世紀初頭、まだ中世の空気を残すドイツの町が舞台。その石造の町と粗末な衣服を着た登場人物が、発色を抑え、茶色(時に青色)がかったくすんだ色調で再現されている。以前、ロシア映画『父、帰る』などで使われていた銀残しの手法だろうか。銀残しというのは、フィルムを現像処理するとき本来取り除く銀をそのまま残す手法で、これによって画面のコントラストが強まり、黒が締まり、色彩の彩度が落ちる。そのことで「古びて」「時代がかった」感じが生まれる。この映画はチェコの古い町でロケしたらしいけど、そんな伝統的な映画づくりによって、古い無声時代の映画のような感触で撮影されている。

一方の『ダーク・シャドウ』の設定は、1972年のアメリカ北東部メーン州の港町。200年前につくられたヨーロッパの古城ふうな舘と港町がイギリス・ロケで再現されている。古い舘を舞台にしたヴァンパイアものだから、こちらもタイトル通りダークな色彩が基調になっているけれど、血の赤はもちろんのこと、シボレーやドレスや下着やカーテンの赤が黒色と強烈なコントラストをつくっているのが印象的。いかにもハリウッド的お遊び感覚にあふれた色彩設計というか。

撮影監督のブリュノ・デルボネルはフランス人。『アメリ』のファンタジックな映像で売り出した。その後、『ロング・エンゲージメント』『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を撮り、3本ともアカデミー賞にノミネートされている。この撮影監督の名前、覚えておこう。

共通点のふたつめは、メフィストフェレス。まあ、『ファウスト』に登場してくるのは当たり前だけど。

映画『ファウスト』は、ゲーテの原作を自由に翻案したもの。原作で主人公のファウスト(ヨハネス・ツァイラー)を誘惑する悪魔・メフィストフェレスは、映画ではミュラー(アントン・アダシンスキー)という高利貸になって現われる。ミュラーが裸になって女たちが沐浴しているところに入っていくシーンがあるけど、ミュラーの下半身には男根ではなく尻尾がついている。このあたりの奇っ怪さがソクーロフ監督らしいところ。

『ダーク・シャドウ』の主人公バーナバス(ジョニー・デップ)は、18世紀、愛人だった魔女によってヴァンパイアにされ、封印され埋められた設定。それが200年後の1972年に封印が解かれて甦り、18世紀のヴァンパイアが1970年代アメリカに戸惑うのが笑いの種になってる。バーバナスが甦ったのは工事現場。そばにマクドナルドがあり、夜空に光る「M」の文字をバーバナスが200年前に見たメフィストフェレスの「M」と間違えてびっくりする。深読みすれば、マクドナルドは現代の悪魔であるってことか。アメリカ人を肥満にするための。

ほかに歌手の「カーペンターズ」を「大工」と取ったりするギャグと、70年代音楽は魅力的だけど、ティム・バートンらしいブラックな面白さにいまいち欠ける。ごひいきミシェル・ファイファーも、悪役のほうが彼女の魅力を引き出せたと思うけどなあ。

ところで『ファウスト』も『ダーク・シャドウ』も中世ヨーロッパの悪魔や魔女のフォークロアが基になっている。ファウスト伝説はゲーテやトーマス・マンの小説、シューマンやリストの音楽を生み、ヴァンパイア伝説はムルナウの古典『吸血鬼ノスフェラトゥ』はじめ数々の傑作映画を生み出した。ヨーロッパ中世の闇が今にいたるまで小説や映画や音楽の豊かな源泉になっているのには感心する。日本にも同じようなフォークロアがあるけど、こんなふうに創造の源になってはいないように思う。そういうことが小説や映画の厚み、深みにも関係してくるんじゃないだろうか。


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北浦和駅のツバメ

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chickens of swallow

北浦和駅には毎年、ツバメがやってきて巣をつくる。以前は改札の真上に巣をかけ、糞が落ちないよう駅員さんが巣の下にベニヤ板を吊るしていた。何年か前に改装されてからは巣をかけられなくなったらしく、今年は階段上のパイプを利用して巣をつくっている。

5羽のヒナがいて、巣立ちも近そうだ。1羽が羽ばたいて飛ぶ練習しているのがブレて写っている。

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巣の下にはこんな配慮が。何人もの人が足をとめ、ヒナの様子をにこにこしながら眺めている。


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June 09, 2012

「砂町」と「屠場」

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Onishi Mitsugu & Motohashi Seiichi photo exhibition

力の籠もった写真展をふたつ見た。大西みつぐ「砂町」(~6月21日、新宿・エプサイト)と、本橋成一「屠場」(~6月19日、銀座ニコンサロン)。

「砂町」は大西が18歳から12年を過ごした江東区砂町を撮影したもの。砂町は両国や深川といった江戸情緒あふれる下町ではなく、昭和に入ってからの新開地。かつては郊外の農村であり、その後は工場地帯として発展した。町工場。モルタルのアパート。葦原と土手とコンクリート堤。「砂町銀座」の商店街。僕が生まれ育ったキューポラの町、埼玉県川口(砂町の側を流れる荒川の上流に当たる)と似た雰囲気を持っている。

今でこそ表通りはきれいになりマンションが林立するけれど、町の裏側に入り込むと昭和のすがれた空気が残っている。といって、大西は青春を過ごした町の記憶をノスタルジックにたどるわけでなく、マンションや新しい公園も含めた今の砂町にカメラを向けている。フィルム・カメラでなくデジタル・カメラのカラーで撮られているのも、そんな現在の空気と色を写しこむための試みのように見える。人の動きのユーモラスな瞬間を捉える切れの良さと、人々に向ける温かい視線は昔から変わらない。

会場にいると撮影者の体温がじわっと伝わってくる、いい写真展でした。

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「屠場」は、大阪府松原にある牛の屠場を十数年にわたって撮影したドキュメント。

ドキュメンタリーというのは、空間的・時間的距離によって「見えないもの」、あるいは同じ空間・時間を共有しているのに「見えないもの」を、「見えるもの」として受け手に提示してみせる作業と言えないだろうか。「屠場」は、私たちが生命を維持するのに欠かせないものとして日常生活の基礎となる営みでありながら、「見えないもの」あるいは「見たくないもの」として存在している。

朝、処理場へ引かれてきた牛が屠畜室へ入れられ、技術員が眉間に特殊なピストルを打ち込む。急所をはずせば牛が暴れるから、熟練の職人技が求められる。倒れた牛は脊髄をつぶされ、喉を切られて吊るされる。血を抜かれ、皮をはがれ、部位ごとに解体される。内蔵は内臓処理室へ送られる。その過程がモノクロームで克明に記録されている。「いつからぼくたちは、いのちが見えなくなったのだろうか」と本橋は問う。

今もなくなっていない偏見のなかでここで働く人々がカメラの前に立っているのは、ひとえに撮影者への信頼ゆえだろう。ピストルを手にした技術員のポートレートは、生命をつかさどる者の尊厳に満ちている。

(ふたつの写真展とも、同名の写真集が刊行されている。どちらも力作です)


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June 04, 2012

皐月とアジサイ

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hydrangea in my garden

アジサイが色づいてきた。

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額アジサイも咲いている。

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いつもならまず皐月が咲き、それからアジサイになるのだけど、今年は同時。どうも花が咲く順序がおかしいし、数種類の種をまいた畑の育ちも遅い。今年、土の温度がなかなか上がらないのだろうか。

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June 02, 2012

『私が、生きる肌』 アルモドバル流魔術

Theskinilivein
The Skin I Live in(film review)

『私が、生きる肌(原題:La Piel Que Habito)』の予告編を見たとき、僕が連想したのは安部公房の原作を勅使河原宏が映画化した『他人の顔』だった。事故で顔に大火傷を負った男(仲代達也)が、精巧な仮面をかぶって「他人」となり、妻(京マチ子)を誘惑し、仮面をつくった医者(平幹二朗)を殺す。いかにも安部公房らしく孤独な現代人のアイデンティティを巡る哲学的で、エロティックでもある映画だった。

でも実際に見た『私が、生きる肌』は、ずいぶんテイストの違うものでしたね。『他人の顔』のような哲学的心理劇というよりソープオペラに近い、妻と娘を失ったマッド・サイエンティストの愛憎・復讐譚。アルモドバル監督の映画は、通俗的な設定や物語と耽美的な映像、現代アートへの興味がないまぜになっていることが多いけど、『私が、生きる肌』もそんなアルモドバルらしい一本。彼自身はこの映画について「悲鳴と恐怖のないホラー映画」と語っている(wikipedia)。

人工皮膚を研究する医師・ロベル(アントニオ・バンデラス)の妻・ベラは、ロベルの異父弟に誘惑され、交通事故で全身を火傷して自殺してしまう。ロベルの娘・ノルマもデートレイプされそうになり精神に異常を来たして死んでしまう。ロベルは娘を襲ったビセンテ(ジャン・コルネット)を誘拐監禁し、性転換手術を施したうえ全身に人工皮膚を植えつけ、顔は死んだ妻そっくりに仕立ててベラ(エレナ・アナヤ)と名づける。

映画は現在と過去を行き来しながら、次第にその物語を明らかにする。でも冒頭は、ロベルが手術後に豪邸の一室に閉じ込めたベラを見つめ、話しかけることから始まるから、見る者はロベルとベラの関係が妻なのか、愛人なのか、また別の関係なのかよく分からない。ロベルの部屋には超大型の液晶画面が据えられ、常にベラを写している。現実のロベルと映像のベラがスケールの異なる大きさで写されるショットが、2人の不安定な関係を暗示している。 

娘を死に追いやったビセンテを人体実験によって亡き妻そっくりの人工美女に仕立て、そのビセンテ(ベラ)をロベルがどのように愛するようになったのか。女にされたビセンテ(ベラ)は、逃亡や自殺未遂を繰り返しながら、どのように自分が女性であることを受け入れ、ロベルを愛するようになったのか。

アルモドバルはそんな心理ドラマにほとんど関心がないようだ。次々に畳みかける過剰なストーリー展開と(本筋以外にも、アルモドバルらしい母と息子の愛と葛藤がサブ・ストーリーになっている)、倒錯的エロティックなシーンと、いつもながら赤を基調とした耽美的な映像と、ベラが壁にびっしり書く日付や塑像といった現代アートふうな映像と、快い音楽とに酔いながら、見る者は心理ドラマの不在に気づく間もなくに結末に連れていかれる。

それがアルモドバルの魔術であり、観客を納得させる心理ドラマの不在は意図されたものだろう。その意味でアルモドバルの映画を見るのは、ストーリーの矛盾に気づく間もなくはらはらどきどきさせられ、気がつけば結末にたどりついているヒッチコック体験に似ている。

アルモドバルはストーリーのヒントを1950年代フランスの犯罪映画『顔のない眼』から得たらしい。『気狂いピエロ』が50年代B級犯罪映画のゴダール流リメイクだったように、『私が、生きた肌』も50年代犯罪映画のアルモドバル流リメイクなんだろうな。


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