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May 29, 2012

『ミッドナイト・イン・パリ』 12時のプジョー

Midnight_in_paris
Midnight in Paris(film review)

シンデレラは深夜12時の鐘の音とともに魔法がとけてしまうけど、パリのアメリカ人ギル(オーソン・ウィルソン)は12時の鐘とともに魔法にかかる。最近のタイム・トリップものはVFXを最大限使って過去や未来へ旅するけれど、この映画はタイム・トリップとお伽噺を重ねて1920年代へアナログな旅をする。

パリの裏道が、100年前も今もほとんど変わらないのをうまく使ってる。そこへ12時の鐘とともに馬車ならぬ旧式のプジョーが現われ、車に乗ることでギルは1920年代のパリへと連れ去られる。通りはカルチェ・ラタンのモンターニュ・サント・ジュヌヴィエーブ通り。20年以上前に仕事でこの界隈を歩いたことがあるけど、記憶に間違いなければパンテオンに向かって登る狭い坂道だった。そのショットを見て思い出した写真がある。

ウジェーヌ・アジェは19世紀末~20世紀初頭のパリを写した写真家で、彼には狭く曲がりくねった石畳のジュヌヴィエーヴ通りを写した作品がある。1930年代のパリ風俗を撮影したブラッサイの『夜のパリ』には、車のウィンドー越しに撮った、パーティに出かけるらしい着飾った男女が談笑しているショットがある。その2枚の写真を重ねると、この映画の「魔法がかかる」瞬間が再現される。

ギルが迷い込んだ1920年代のパリは、小説、詩、絵画、映画、写真、ダンスなどなど現代アートの源流がそこで生まれた神話の時代だった。その中心のひとつが作家ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ。似てる)のサロン。

サロンに集まったのはヘミングウェイ(本物もこんなエキセントリックな男だったんだろうな)、スコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻ら「ロスト・ジェネレーション」の作家たち。ピカソとその愛人アドリアナ(マリオン・コティヤール。ピカソには何人も愛人がいたから、そのひとりがモデルだろう。いい女)。ダリ(エイドリアン・ブロディ。これも雰囲気似てて笑える)や写真のマン・レイ、映画のルイス・ブニュエルらシュールレアリストたち。ほかに作曲家コール・ポーター、アフリカ系ダンサーのジョセフィン・ベイカー、詩人のジャン・コクトーやT.S.エリオットらキラ星のような名前にギルは次々に出会う。

ギルはアドリアナとともに、1920年代からもう一時代前のベル・エポックのマキシムにトリップして、ロートレックやゴーギャンにも出会う。パリという都市とともに思い出される芸術家が総出演。バックに流れるコール・ポーターはウッディ好みの1930年代ジャズ。現代芸術の「神々」(それは世界中の多くの人の神々でもある)が生きていた時代に生まれ、彼らに会ってみたいというウッディ・アレンの「夢」を、映画という「夢」の形を借りて実現させた映画だなあ。

ところでウッディ・アレンはずっとニューヨークを舞台に映画を撮ってきた。10年ほど前から映画づくりの拠点をヨーロッパに移し、最近の作品はロンドンやバルセロナを舞台にしている。『人生万歳』でいったんニューヨークに戻ったけど、今回はパリ、次回作はローマだそうだ。

ウッディの映画を都市という視点から見ると、ニューヨークという都市の過去現在を撮りつくして、主題をヨーロッパの都市に移したことになる。ウッディにとってのニューヨークは大河ドラマだけど、『ミッドナイト・イン・パリ』はこれ1本でパリを語りつくそうという盛りだくさん。

冒頭、パリの名所名所を深い色で写した数々のショットからもそれはうかがえる。ナレーションが言うように、雨のパリのしっとり濡れた美しさには誰もがうっとりするはず。勘ぐれば、世界中の映画祭での高評価に比べて興行成績の上がらないウッディが、観光スポットとパリの有名人を総動員して、どうだ、これがオレのパリだ、とつくってみせた映画にも思える。それは成功し、1700万ドルの製作費に対しウッディの作品で最高の1億4800万ドルの興収を上げた(wikipedia)。

それにしても、いつもながらアメリカ人とハリウッドに対してウッディは辛らつだなあ。ギルの婚約者イネズ(レイチェル・マクアダムス)親子はロスのセレブで、親娘の浅薄さがパリを舞台に際立つ。彼らがニューヨーカーでなく、ロスの住人に設定されているのがいかにもウッディらしくて笑える。主役のギルはハリウッドの売れっ子脚本家だけど、満たされずに作家への転進を夢見て小説を書いている。最後にギルが婚約者を捨ててパリに残るのは、ウッディのアメリカへのグッバイと取れなくもない。

……と、いかにもウッディらしいユーモアと辛らつと知的くすぐりと都市の風景が詰め込まれて、なんとも楽しい映画でした。

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May 26, 2012

コシヒカリの苗

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farmer's market in Tokyo

表参道でファーマーズ・マーケットをのぞく。ブルックリンに住んでいたとき、毎週土曜に近くの公園で野菜や食品を売るファーマーズ・マーケットが開かれていた。こういうのが近所にあるといいなあ。

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僕も会員になっている棚田ネットワークが出店して、コシヒカリの苗を売っている。土は伊豆半島松崎の棚田のもの。

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このポットで2~3週間、その後はバケツに移して育てる。果たしてコシヒカリを収穫できるか。

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別のブースで買った紀州南高梅のジャム。


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May 24, 2012

『別離』 二組の家族

Separation
A Separation(film review)

『別離(原題:JODAEIYE NADER AZ SIMIN)』のアスガー・ファルハディ監督は前作『彼女の消えた浜辺』を撮った後、イランでの映画製作を禁じられていた(wikipedia)。『彼女の消えた浜辺』はベルリン映画祭はじめいろんな賞を得たが、受賞スピーチのなかで、同じイランの映画監督でフランスに亡命したモフセン・マフマルバフ監督(『カンダハル』)への支持を訴えたためという。

幸い禁止措置は解除され、だから『別離』が撮られたのだが、イランで映画を撮るという行為が微妙な配慮を求められる活動であるのは確かだ。アッバス・キアロスタミ監督は政治性を超越した場所で生と死にまつわる映画をつくりつづけ、クルド系のバフマン・ゴバディ監督は『ペルシャ猫を誰も知らない』の体制批判で亡命を余儀なくされた。

ファルハディ監督の映画もまた、『彼女の消えた浜辺』にせよ『別離』にせよ、国を支配するイスラム法と齟齬を起こしつつある都市の中産階級を主人公に、許容されるぎりぎりを見定めながら映画をつくっているように見える。

英語教師のシミン(レイラ・ハタミ)が、娘の教育のため家族で出国する許可をとりつけた。ところが銀行員の夫・ナデル(ペイマン・モアディ)は、父親がアルツハイマーなので出国に同意せず、離婚沙汰になる。シミンは実家に戻ってしまい、ナデルは父の介護のため子連れの主婦ラジエー(サレ・バヤトチャドル)を雇う。ところがラジエーが無断外出した間に父親がケガをしてしまう。怒ったナデルがラジエーを突き飛ばしたことで、ラジエーは流産する。イスラム法では妊娠120日目以後は胎児に人格が認められ、ナデルは殺人容疑で拘束される。

そこからイラン流の法廷ドラマが始まる。といっても検事や弁護人がいるわけでなく、狭い部屋に判事がひとりだけ。ナデルはラジエーが妊婦であることを知りながら突き飛ばしたのではないか? ナデルが「知らなかった」と弁明すると、同席したラジエーの夫・ホジャットは彼に罵詈雑言を浴びせ、退席させられる。ラジエーは妊娠したことも、働いていることも、失業中の夫ホジャットに秘密にしていた。ナデルの嘘とラジエーの秘密が、事態をのっぴきならないものにしてゆく。

中流階級であるナデル一家と下層に属するホジャット一家が法廷の内と外で絡みあう。ナデルの保釈金も示談金も妻シミンの実家が用立てているから、シミンの実家は裕福なのだろう。移住許可を取れたのも、英語教師を職業にしているのも、そんな環境と無縁ではなさそうだ。イランといえば、今、核開発をめぐってアメリカと激しい対立の中にある。出国先は映画では明かされないが、アメリカかイギリスの英語圏と考えるのが自然だろう。いわば「敵国」に移住する。この映画を見る愛国的なイランの人々は、ナデル一家に反感を持つかもしれない。

ホジャットの家族は対照的だ。妻ラジエーは敬虔なイスラム教徒。介護するナデルの父が粗相したとき、服を脱がせて体に触れてもいいものか、電話で聖職者に相談するような女性だ(女性は家族以外の男性の肉体に触れてはならない)。夫ホジャットは頑固で乱暴者。ナデルに自分と家族の名誉を少しでも傷つけるような言動があると殴りかかる。「名誉殺人」(妻が姦通した場合、妻と相手を殺してもかまわない)が慣習としてある地域だから、名誉のためなら獄舎も死もいとわない、典型的なイスラム圏の男と言えるだろうか。

映画の最後に、示談金をめぐってふたつの家族は再び対照的な姿を見せる。

示談金交渉がまとまった和解の席で、ナデルはラジエーに、「自分(ナデル)が突き飛ばしたことで流産した」とコーランに誓ってほしいと言う。その前のシーンで、ラジエーはナデルの妻シミンに、「車に撥ねられたのが流産の原因かもしれない」と告白していた。そのことを知ったシミンが夫のナデルに知らせたのかどうか、映画は語らない。でももしナデルがそのことを知っていたとしたら、イスラムの戒律を逆手にとってラジエーに難題をふっかけたことになる。

一方、車に撥ねられたことで流産したかもしれないと思っているラジエーは、イスラム教徒として、突き飛ばされて流産したとコーランに誓うことができない。止めようとする夫のホジャットを振り切り、和解の席を立ってしまう。

ラジエーの秘密とナデルの嘘に始まった事態はもつれにもつれ、結局、ナデルとシミン、ホジャットとラジエーの二組の家族をばらばらにしてしまう。後に、それぞれの娘が残される。俗化した(善くも悪くも日本人の常識に近い)中流のナデル夫妻と、宗教や風土的慣習の色濃い下層のホジャット夫妻。その二組の家族それぞれが今のイランの現実を反映していることは確かだろう。そして宗教や風土を超えた男と女のリアルな姿が映し出されているからこそ、僕たちの身にも迫ってくるんだと思う。

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May 21, 2012

乳頭温泉巡り 白岩焼

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Shiraiwayaki pottery

乳頭温泉郷からの帰り、5時間ほど空いていたのでバスで角館へ回る。角館には何度か行っているけど、10年前に行ったとき、以前のきちんとした暮らしのある町の風情がなくなり東映映画村みたいになっているのを見てがっかりした。だから町歩きはそこそこに、白岩焼の窯元へ。

白岩焼は江戸時代に始められ、秋田藩主への献上品から日用雑器まで多様な陶器で繁栄したが、幕末から明治に衰退して途絶えた。復興したのは戦後で、訪れた和兵衛窯はかつての窯元の血縁が1992年に開窯した。

白岩焼の特徴は、肉厚の器と海鼠(なまこ)釉と呼ばれる深い青に灰白色の混じった釉薬。花瓶を求める。


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乳頭温泉巡り 鶴の湯から休暇村まで

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a tour of Nyuto Spa, from Tsurunoyu to Kaniba Spa

孫六温泉と黒湯に滞在してる間に、乳頭温泉郷の他の5つの湯にも入った。

鶴の湯には10年ほど前に泊まったことがある。そのころも今も、全国の温泉ランキングで必ず上位に来る人気の湯。濃い乳白色の湯と、肌になめらかな質感、素晴らしい露天のロケーションを考えれば、それも納得。

でも最近は人気がありすぎて日帰り入浴の客が多く、大型観光バスが来るとイモ洗い状態になると聞いていた。この日は雨が降っていたので少なめだったけど、それでも他の湯に比べればぐっと多い。風呂に入っていたのはほとんどが韓国からの客。ハングルが飛びかっている。しばらくしたらオモニが3人、混浴の湯にそろりそろり入ってきて記念写真を撮りはじめた。

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鶴の湯の「本陣」。ここは秋田藩主が湯治に来た歴史があり、当時の建物の形を残している。

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「乳頭温泉郷 湯めぐり帖」というのがあって、泊まったところでこれを買うと、他の6つの温泉に日帰り入浴することができる(1500円)。7つの温泉を巡るミニ・バスに乗ることもできる。鶴の湯は他の湯から5キロほど離れているから、ハイキングならともかくそぞろ歩くのはちょっときつい。

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バス停終点から100メートルほど奥に入ると蟹場温泉がある。建物から少し歩いたところにある混浴の露天。雨が降っていて、老カップルが仲良く傘をさしていた。湯は無色透明で、弱アルカリ単純泉。

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蟹場温泉の内湯。広い木風呂でいい湯らしいけど、この日は朝から何度も湯に入ったのでパス。ここから妙乃湯、大釜温泉はごく近い。

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妙乃湯の露天(混浴)。先達川を眺めながら入る。赤味を感ずる薄黄緑の湯。赤味は鉄分で、あふれた湯のかかる岩が赤くなっている。

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妙乃湯。内装は都会ふうに洒落ていて、女性人気No.1だそうだ。でもこういう宿は伊豆や箱根にいくらもあるから、わざわざここまで来て、という気もするが……。

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大釜温泉の露天。赤味がかった黄緑の湯。湯にひたした手からは鉄の匂いがする。一度入っただけでタオルが赤味を帯びた。

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大釜温泉の建物は廃校になった小学校校舎を移築したもの。

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休暇村・乳頭温泉郷には乳頭温泉と田沢湖温泉と2つの湯がある。こちらは乳白色の田沢湖温泉の湯。ブナ林のなかの露天が気持ち良い。

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乳頭温泉巡り ブナ林を歩く

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walking Japanese beech forest

乳頭温泉郷の周りにはブナ林が広がっている。世界遺産の白神山地ほどの広さはないし、ミズナラが混じったり杉が植林されているところもあるけれど、特に鶴の湯周辺、休暇村から黒湯にかけてのブナ林は見事だ。

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雨がようやく止んで、ブナ林を歩いた。ブナ林は明るくて、歩いていて楽しい。殊に今は新緑の季節。日差しを受けた黄緑色の葉が柔らかく透き通りそうに輝いている。

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ブナの葉。

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今年は雪が多く、休暇村から黒湯へ向かう道にはまだこんなに根雪が残っている。

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いたるところに細い流れがある。ブナ林の水はおいしい。孫六温泉も黒湯も湧き水を使っているけれど、飲むと冷たくて甘くて、体中に沁みわたる。温泉につかった後に飲む水はビールよりよっぽど旨い。

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地図を見るとミズバショウの湿原があるんだけど、黒湯で聞いたら、今年は雪解けが遅いからまだ歩けないという。それでも車道から少し脇に入ると水辺にミズバショウが咲いている。

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ブナ林の下には小さな花がいろいろ。これはサンカヨウ。

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May 20, 2012

乳頭温泉巡り 黒湯

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a tour of Nyuto Spa, Kuroyu

朝、孫六温泉から黒湯へ移動する。といっても、孫六温泉からは先達川の対岸に黒湯の建物が見えている。木橋を渡り、歩いて5分とかからない。先達川と黒湯沢が合流するあたりに黒湯はある。

このあたり冬は4メートル近い雪が降る。除雪されたバス停から黒湯の一軒宿まで数キロあるから、冬は閉鎖される。4月20日に営業を再開して、まだ1カ月もたっていない。

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建物の日陰には根雪が残る。

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木造の建物はすべて黒く塗られ、幾棟かはカヤ葺き屋根。孫六は昔ながらの素朴な山の宿といった風情だけど、こちらは洗練された山の宿。HPもあり、インターネットで簡単に予約できる。もっとも孫六と同様、昔ながらの自炊棟もある。

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敷地には源泉の賽の河原がふたつあり、硫黄泉がこんこんと湧き出ている。風呂は混浴の内湯と露天、男女別の内湯と露天、それにもうひとつの内湯と2つの打たせ湯がある。

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黒湯でいちばんの風呂は、なんといっても混浴の露天。受付棟の裏にあり、内湯から扉を開けて外に出ると、浴槽の周囲にブナの柱が立ち、屋根がかけてある。

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湯は乳白色で柔らかい。熱さもちょうどいい。周囲に人が来る場所もないから、風呂には囲いがない。さえぎるもののない視界に賽の河原と黒湯沢の流れが広がる。ランプ型の電球がついている。電気が来たのは2年前。それまでは自家発電で、もっと前は本物のランプだった。

人が入っていない時を見計らって長々と風呂につかると、乳白色の湯の心地よさ、目に入る風景の穏やかな美しさに、こういう宿以外では味わえない幸せな気分にひたれる。

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夜はまた岩魚の塩焼きの贅沢。隣にベトナムのホーチミンから来た若い女性2人が浴衣姿で座った。ひとりはショートヘアの活発な子で英語を話す。もうひとりは長い髪が楚々とした印象。混浴に興味深々で、「カップルは混浴に入るのがいやじゃないですか?」などと聞いてくる。「ここへ来たなら試さなきゃ。遅い時間なら誰もいないから行ってごらん」とけしかけた。それにしても、ベトナムから女性だけでこんな山の宿まで来るんだなあ。

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こちらは男女別の内湯(もちろん男湯です)。広い湯船が気持ちよい。混浴の湯より薄い乳白色。もっとも源泉は混浴も男女別も透明で、時間がたつと乳白色が強くなる。だから湯を張りかえたばかりのせいで色が薄いのかもしれない。

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黒湯の打たせ湯は昔から有名。「秋田」を数十年にわたって撮った木村伊兵衛も撮影している。

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男女別の露天。先達川と、遠くに乳頭山の稜線。

翌日の食事のとき、今度はニューヨークから来た20代の夫婦と隣合った。男性はコロンビア大学の法科大学院に在籍していて、これから半年、東京の法律事務所で研修するそうだ。僕がブルックリンのフォート・グリーンに1年住んでいたと言うと、「えっ、そこには友達がいるから行ったことあるよ。世間は狭いですね」と流暢な日本語で答える。温泉大好き。黒湯はインターネットで探したそうだ。ここから盛岡を経由して、宮古の浄土ケ浜に行くという。僕も去年の秋、宮古市田老に行ったので、津波の被害について話す。

それにしても、昨日今日と続けて外国人と出会った。箱根や伊豆ばかりでなく、というより、こういう山の一軒宿を好む外国人がたくさんいるんだ。

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乳頭温泉巡り 孫六温泉

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a tour of Nyuto Spa, Magoroku

家族の湯治を兼ねて、乳頭温泉郷に5日ほど行ってきた。乳頭温泉郷は八幡平の秋田県側、乳頭山の山懐に点在する温泉で、新しくできた国民休暇村を含め7つの温泉がある。盛岡から秋田へ抜ける田沢湖線の田沢湖駅からバスで小1時間。平日の午後早い時間とあって、終点までの客は他にいなかった。

孫六温泉は乳頭温泉郷のいちばん奥にある一軒宿。バス停から林道を15分ほど歩くと、ひなびた湯治場といった感じの宿が見えてくる。

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宿の脇を先達川が流れる。かなりの急流で、ところどころに人工的に段差が設けられ、ごうごうと轟いている。

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昔ながらの玄関。宿は老夫婦がやっていて、孫娘の亭主である若いにいちゃんが町から通いで手伝いに来ている。

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玄関脇に木村伊兵衛の有名な「秋田おばこ」のポスターが貼ってあった。

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温泉は宿の外、河川敷にある。内湯が「石の湯」「唐子の湯」のふたつ、露天風呂が3つある(ひとつは女性専用)。

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「石の湯」。河原の大石を利用した湯だから、この名前をつけたんだろう。湯は透明で、ちょうどいい熱さ。かすかに硫黄の匂いがする。湯の出口で漉しているが、その手前には硫黄の湯の花が沈殿し固まっている。背を石にもたせて足を伸ばし、じっと川の音を聞いていると体と心がほぐれ、山の湯へやって来たなという気分になる。

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小屋の外へ出て露天風呂へ。ここはまた別の源泉で、やはり湯は透明。「石の湯」よりぬるいから、長く入っていてものぼせない。両手をこすると、きゅっきゅとする感じ。ほかに泊まり客はいないので、4つの温泉を独り占めの贅沢。

標高800メートル。新緑の季節だけど、対岸の斜面にはまだ雪が残っている。今年は雪解けが遅いそうだ。

このあたり、冬は4メートル近い雪が降る豪雪地帯。バス停から宿までの道は、にいちゃんが自家用の雪かき車で除雪するという。近くの黒湯は冬季は営業をやめてしまう。どうして孫六はやってるの? と聞いたら、冬を楽しみにしてるお客さんがいるし、人がいないと雪で家が傷んでしまうから、ということだった。

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夕食は山の宿らしく岩魚の塩焼きに山菜づくし、いぶりがっこ(タクワンの燻製)の漬物。初めて食したシドケの味噌あえが旨い。

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岩魚の骨酒。酒はオリジナルの「孫六」。やや甘口で飲みやすい。冷やでもいける。

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秋田名物、きりたんぽ鍋。

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締めは稲庭うどん。骨酒が効いて、いい気分になってしまったなあ。

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翌朝起きると、雨。深い霧。肌寒い。昼近くなっても霧雨はやまない。だからといって、この日は宿に滞在するのでちっとも困らない。この日も他に泊り客はいないし、天気が悪いから日帰り入浴の客もほとんど来ない。温泉につかり、部屋で布団にもぐりこんでを繰り返しながら一日を過ごす。

自家発電で宿にはテレビもないから、楽しみは読書。旅に持ってきたマイクル・コナリー『エンジェルズ・フライト』2巻を読み耽る。読んでいなかった昔の作品。今回はロス市警内部の暗闘。ヴェトナム世代であるボッシュ刑事が抱える屈折が犯罪者の闇とシンクロしてしまう、いつものパターンだけど、やっぱり面白い。

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これはまた別の露天。いちばんぬるい。雨に顔を打たれ、暮れてゆく風景を眺めながら長湯する。自家発電なので、湯は夜10時に真っ暗になる。

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May 13, 2012

『捜査官X』 裏目読み武侠映画

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Wu Xia(film review)

40年前に学生だったころ雑誌『映画芸術』の編集長は小川徹という男で、彼が書く映画論は「裏目読み」と称されていた(小川が編集する『映画芸術』の常連、虫明亜呂無や斉藤龍鳳の映画論はものすごく面白かった)。

そのころハリウッドには、レッドパージで追放された7人の監督・脚本家ほど大物ではないものの、コミュニストとの関係を疑われた何人もの監督や脚本家がいた。彼らは追放されることをまぬがれ、ハリウッドで主にエンタテインメント映画をつくっている。彼ら(例えばロバート・アルドリッチ)がつくる映画には表面的には何の政治的メッセージも読み取れないけれど、映画のそこここに作り手の思いや主張がさりげなく埋め込まれている。それを目に見える形で(時には作り手の思惑も超えて)取り出してみせるのが「裏目読み」だ、と小川徹は言っていた。

この「裏目読み」の手法はハリウッドだけでなく、日本の当時の5社体制のなかで娯楽映画をつくっていた左派の監督(例えば深作欣二)の作品にも応用できる。そうした「資本の論理」が貫徹する国々の映画だけでなく、表現に対して政治的統制がある国々の映画にも「裏目読み」は適用することができる。今で言えば、映画への統制を目に見えて強めている中国映画にも有効かもしれない。

そんなことを思い出したのは『捜査官X(原題:武侠)』(ピーター・チャン監督)を見て、この香港・中国製の武侠映画は当然中国での収益を当てにしているからいろんな配慮があるけど、「裏目読み」してみるとけっこう面白いなあと感じたから。

清朝滅亡後の中国、雲南の僻村で殺人事件が起こる。やってきた捜査官シュウ(金城武)が調べると、殺されたのは2人の凶悪犯だった。2人が強盗しようとした現場に紙漉き職人のジンシー(ドニー・イェン)が居合わせ、彼の正当防衛から2人が死に至ったことが分かる。調べるうちシュウはジンシーが只者でないことに気づき、その正体を探る……。

映画の後半で、ジンシーの背後にいるのが13世紀に滅んだ西夏王国の血を引く暗殺集団「七十二地刹」であることが知れる。西夏は中国西北部にチベット系のタングート族がつくった国で、中原の漢民族国家である唐や宋に対抗し、やがて勃興したモンゴルに滅ぼされた。清の時代には、「タングート」とはチベットを意味したという(平凡社・世界大百科)。

七十二地刹は、西夏80万の民が虐殺されたことの恨みを晴らすために代々の暗殺集団となっていた。ジンシーは実はその七十二地刹の首領の息子だったのだ。映画では七十二地刹は悪役で、暗殺集団を抜けたジンシーとカンフーで激闘を繰り広げる。それが映画のクライマックスになっている。

当然のことながら悪漢は敗れ、傷ついたジンシーは妻のアユー(タン・ウェイ)、子供たちとの平和な生活に戻る。このラストシーンはチベット系タングートの末裔であるジンシーが、中国に同化したとも読める。

でもここでもうひとつ面白いのはアユーが少数民族ふうの刺繍が入った衣装を着ていることで、どうやら彼女も漢民族ではないらしいことだ。僕は雲南に行ったことがあるけど、雲南は苗(ミャオ)族やイ族など少数民族が多数を占める地域。ということは、ジンシーは最後に漢民族と同化したというより、暗殺集団と縁を切りながら少数民族としての矜持を保ちつづけたということになる。

この映画から少数民族の抵抗と復讐というテーマを読み取るのが過剰な「裏目読み」かどうか分からない。でも、中国でこの映画を見る人のある部分は、ジンシーと七十二地刹の背後に弾圧されているチベットを、あるいはウィグルやモンゴルを感ずるんじゃないかな。

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May 12, 2012

最後の菊地成孔ダブ・セクステット

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Kikuchi Naruyoshi live

久しぶりに菊地成孔のダブ・セクステットを聴く(5月8日、表参道・BLUE NOTE)。いつも通りMCなしのぶっ通しでマイルスの「ソーサラー」やオリジナルなど6曲を全力疾走。このグループはマイルス・デイヴィス・クインテットをダブ(電子的リミックス)によって今日化するってコンセプトなんだろうけど、聴いた感じはマイルスというよりフリージャズ化したコルトレーン・グループに近い。ともかくエネルギーが詰まってる。アンコールでは「甘いのを1曲」と、メローなナンバーを。

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ところで、このグループで演奏するのはこの日が最後だそうだ。メンバーが増えてセプテットになるらしい。何が入るんだろう? サックスをもう1本? まさかハードバップふうにトロンボーンじゃないよなあ。菊地成孔のことだから、あっと驚く編成になるのかも。楽しみだ。

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May 10, 2012

『ル・アーブルの靴みがき』 港町人情噺?

Le_havre
Le Havre(film review)

『ル・アーブルの靴みがき(原題:Le Havre)』を見ながら、この物語はいつの時代に設定されているんだろう、と思った。ル・アーブルの港や主人公が住む下町の風景、人々の服装や車に今を感じさせるものはなにも出てこない。裏町の店のたたずまいや服装、車なんかは1960~70年代の感じだろうか。テレビも古い型だった(と思う)。でもユーロ紙幣を使っているから、ユーロが生まれた2002年以降の話ということになる。

アキ・カウリスマキのファンなら、そういう疑問がほとんど意味をもたないことは分かっている。カウリスマキの現代のお伽噺みたいな映画は、どれも今日の話でありながら過去を思わせるノスタルジックな感じがあり、そもそも厳密に時代を設定する必要なんかない。にもかかわらずそれが気になったのは、この映画がアフリカから密航してきた少年という、移民の問題を素材にしているから。

パリで作家志望だったボヘミアンのマルセル(アンドレ・ウィルム。カウリスマキの『ラ・ヴィ・ド・ボエーム』と同じ役名、同じ役者)が、夢破れル・アーブルで靴磨きをして妻のアルレッティ(カティ・オウティネン。カウリスマキの年老いたミューズ)とつましく暮らしている。アルレッティは重病で入院し、マルセルは港でアフリカから密航してきた少年イドリッサと出会い、家にかくまう。それを知ったご近所のパン屋や八百屋、バルのおやじ、おかみさんたちも協力し、果てはイドリッサを追う警視(ジャン=ピエール・ダルッサン)までも少年に同情して……。

これ、いったいいつの話なんだろうな。

もともとヨーロッパの国々は植民地を持っていたから、植民地から多くの「外国人」が入り、また労働力不足から積極的に移民を受け入れ、定住化を進めてもいた。でも1970年代にヨーロッパが不況になると一転して移民に厳しくなった。定住した移民は主に都市近郊の低所得者向けの団地に住み、世代交代が進む。移民2世3世は職も少なく、差別もあって、フランスではパリや地方都市で暴動が起こった。一方、移民に職を奪われたと考える国民、とくに若者たちは移民排斥を訴える極右に心を寄せている。昨年、ノルウェーで起こった連続テロ・銃乱射事件もイスラム系移民が増えたことが背景にある。大雑把にいって、それが移民をめぐるヨーロッパの現状だろう。

カウリスマキの映画がいつもお伽噺めいて、リアリズムでないことは分かっているし、現在とも過去ともつかない寓話性がカウリスマキの魅力であることも承知している。僕もカウリスマキのそこが好きだ。でもいつもは政治的な素材を避ける彼が移民を取り上げた以上、映画が発するメッセージは否応なく政治性をもってしまい、それを抜きにしては映画を語れなくなる。『寅さん』ヨーロッパ版みたいな下町人情噺とは、単純に楽しめなくなってしまう。

この映画に出てくるのは誰もが善意の人々で(唯一の例外が密告者のジャン=ピエール・レオ!)、みな密航者の少年に同情している。もともと少年はロンドンを目指しているから、ここに定住しようとしているわけではない。ル・アーブルはいっとき身を隠す場所にすぎない。だからこそ、マルセルと近隣の貧しい人々の「ひとときの冒険」が成り立つわけだ。でも、マルセルがここに住みたいと言ったら、ことはそう簡単ではなくなってしまうんじゃないだろうか。

それにマルセルにも近所のおじさんおばさんにも子供や孫はいないみたいだけど、もし彼らに子供や孫がいて、彼らが職につけないでいたら、密航者の少年をどんな目で見るだろう。そういうことをすべて抜きにしたこの映画のメッセージを言葉にすれば、人の善意がすべてを解決する、ってことだろうか。

カウリスマキの映画で社会問題を云々するのが野暮なことは分かっている。でも繰り返しになるけど、密航者や移民が登場する以上、そのことを見ずに、いつものお伽噺なんだし、最後に「奇跡」だって起こるんだから固いことなし、って画面に浸ることもできない。

カウリスマキが小津安二郎の映画を好きなことはよく知られている。僕はこれを見て与那覇潤の『帝国の残影』という面白い小津論を思い出した。

『東京物語』『晩春』など傑作として評価される家庭劇では、戦争と戦後の現実は周到に避けられている。小津は一方で『東京暮色』など戦争と戦後の現実に根ざした作品もつくっているが、それらは失敗作とされ、興行的にも失敗した。小津の名作群はまぎれもなく小津の作品ではあるけれど、同時に、戦争と戦後の現実から目をそらしたい観客の無意識が名作たらしめたのだ、という趣旨だった。

その伝で言えば、カンヌ映画祭で国際批評家連盟賞を受けた『ル・アーブルの靴みがき』は、ヨーロッパの現実を見たくない批評家と観客の無意識が名作たらしめた、ということになるだろうか。

この映画は「港町3部作」の第1作だという(wikipedia)。後の2作はスペインとドイツになるらしい。どんな映画になるのだろう。いろいろ言いつつ、やっぱり楽しめるし、期待してしまうのがカウリスマキ。ユーロスペースを出て、1階のカフェでカルヴァドスを頼もうとしたけどなくて、マルセルも飲んでた白ワインで我慢した。


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May 06, 2012

大粒の雹

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sudden hailstorm

6日午後、急に空が暗くなったと思ったら雷が鳴り、大粒の雹が降ってきた。畑はゴーヤとミニトマト、バジルの芽が出てきたばかりなので心配したが、どうやら大丈夫のようだ。


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しゃくなげに蜂と蜘蛛

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flowers in my garden

しゃくなげが咲いた。ほかの花の開花は遅かったけど、急に暖かくなったせいか、今年のしゃくなげは早いような気がする。いつもは連休明けだったと思うが。蜜を求めて、ピンクの花に蜂と蜘蛛がきている。

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紫蘭。数カ所に植えてある株の花がいっせいに咲いた。いつもは半月ほど一輪挿しに挿して楽しめるのだが、今年は1週間で散ってしまいそう。

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鈴蘭。


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May 03, 2012

『裏切りのサーカス』 小説と映画の相似

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Tinker, Tailor, Soldier, Spy(film review)

『裏切りのサーカス(原題:Tinker, Tailor, Soldier, Spy)』の原作、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を読んだのはもう30年以上前のことになる。

細かなところはなんにも覚えてない。でも、スパイ小説につきもののアクションやサスペンスは皆無。会話による頭脳ゲームだけで組織に潜む二重スパイをあぶりだしてゆくこの長編は、同じ英国諜報部員を主人公にしたイアン・フレミングの007シリーズ(高校時代に読みふけった)とは対照的に、動きのほとんどない、沈鬱な空気が今も記憶に残っている。

映画も、小説の世界をそのまま映像化してる。派手なシーンはいっさいなし。作戦の失敗で英国諜報部(通称サーカス)を引退したスマイリー(ゲイリー・オールドマン)が、諜報部トップ4人に潜むソ連のスパイ(もぐら)を摘発する任務につく。

普通のスパイ映画なら、スマイリーの宿敵・ソ連KGBのリーダーであるカーラや、もぐらが三角関係を結ぶスマイリーの妻などを登場させるところだけど、この映画ではカーラもスマイリーの妻も後姿を見せるだけ。設定や物語の面白さで映画をドライブする普通のスタイルは徹底して避けられている。いかにもイギリスふうの渋い映画だなあ。

もっとも監督はスウェーデン出身で、『ぼくのエリ 200歳の少女』のトーマス・アルフレッドソン。シャープな映像と演出で見る者を惹きつける。

小説の元になっているのは「キム・フィルビー事件」。ケンブリッジ卒のエリートであるキム・フィルビーがソ連に通じ、英国諜報部の幹部になって情報をソ連に流した。それが明らかになり、フィルビーはソ連に亡命した。事件はイギリス中を震撼させ、ジョン・ル・カレだけでなく、グレアム・グリーンもこの事件を基に『ヒューマン・ファクター』を書いている(こちらもアクション皆無のスパイ小説だった)。

現実の事件は1950~60年代、原作が出たのは1970年代だから過去の物語なんだけど、アルフレッドソンの映像とセットや調度品などの美術はノスタルジックな空気をまったく感じさせない(撮影はホイテ・ヴァン・ホイテマ)。

むろん建物や車や航空機は古いものだけど、サーカス内部の図書室や会議室などポスト・モダンにしつらえられ、今ふうな映像で切り取られている。そのことからも想像されるように、アルフレッドソンはこれを冷戦時代の過去の物語としてではなく、現在にも通ずる国家への忠誠と裏切りの物語としてつくろうとしているようだ。

エンタテインメントではないけれど、緊迫感あふれて楽しめる映画でした。

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