『RIVER』 路上の風景
世界にすごい監督はたくさんいるけど、好きな監督となると、その数はぐっと減る。例えば僕の場合、ラース・フォン・トリアーのように、すごい監督のつくる映画が必ずしも好きとは限らない。逆に好きな監督の映画が必ずしも作品として出来がいいとは限らない。好きというのは映画の良し悪しとあんまり関係なく、肌合いが合うというか、テイストの問題が大きいからだろう。その意味で廣木隆一監督は好きな監督のひとりだ。
廣木監督の映画がなぜ好きかと考えてみると、ひとつには職人性と作家性がほどよくバランスされていることがある。かつて5社体制のなかで増村保造、川島雄三、加藤泰、深作欣二、神代辰巳といった監督たちがエンタテインメントでありながら作家的な主張を持つ映画をつくっていたけど、廣木監督はそういう流れを汲む今や数少ない一人だと感じてきた。
もっとも彼の場合、1本の映画に作家性と職人性が共存しているというより、ある場合にはエンタテインメント性が勝ち、ある場合には作家性に傾いて、トータルで見るとバランスが取れているといった感じ。ただ僕は廣木監督のピンク時代の映画をまったく見てないし、いちばんメジャーな『余命1ヶ月の花嫁』も見てないから、あくまで見た範囲での話だ。
好きな監督であるいまひとつの理由は、女優を美しく撮る監督であること。『不貞の季節』の星瑤子、『天使に見捨てられた夜』のかたせ梨乃、『M』の小川聡子、『雷桜』の蒼井優あたりが記憶に残ってるけど、とりわけ『ヴァイブレータ』『やわらかい生活』の寺島しのぶは最高に美しい。
僕の好きな寺島しのぶも蒼井優も、役者としての魅力はすごいけど美しく撮るのはなかなかむずかしい女優さんだ。そんな場合でも、廣木監督はその女優のいちばん美しい表情のショットを必ずはさみこむ(『キャタピラー』の若松孝二は同じピンク出身でも、寺島しのぶをきれいに撮ろうとしない。戦争下の農家の主婦という設定は分かるけど、セックス・シーンなど1ショットだけでも美しく撮れるはずなのに)。
ところで『RIVER』はどちらかといえば作家性の強い映画だった。廣木監督の映画は物語的展開の面白さと映像の官能がないまぜになってるけど、これは物語をごく単純にし、描写だけで成り立っているような映画だった。
秋葉原の無差別殺傷事件で恋人を失った後、家に引きこもったひかり(蓮佛美沙子)は、久しぶりに秋葉原に出てきてあてもなく町を歩く。極端に言えばストーリーはそれだけ。秋葉原の町を歩きながら、女性カメラマン(中村麻美)に声をかけられたり、メイド喫茶のスカウト(田口トモロヲ)に声をかけられてその気になったり、路上で歌う音楽家と話をしたり、ガード下で電子部品を売る祐二(小林ユウキチ)と知り合ったりする。
そんな路上のひかりを、手持ちカメラが延々と追う。ことに冒頭、秋葉原に降り立ったひかりが町を歩き女性カメラマンに声をかけられるくだりは、おそらく即興的に10分以上にわたってワンショットで撮影されている。オレンジ色のスプリング・コートを着たひかりが足早に人々の波をぬってゆく。背後の店舗にあふれるけばけばしい色彩が流れてゆく。そんな路上の風景がこの映画の命だ。
現実を遮断して引きこもっていたひかりにとって、この路上の風景は現実だ。一方、故郷の父母を捨てて都会に出てきた祐二にとって、同じ路上の風景は逃避の場にすぎない。その故郷が大地震と津波で壊滅したとき、祐二は逃げ出した故郷の瓦礫の風景という現実に立つことを決める。若い2人がそれぞれに「現実」に向かい合う。そのことを、ひたすら映画は描く。
後半、いきなり画面に登場する被災地の風景に対して映画の物語がよく拮抗しえているかと言えば、いささか軽いような気もする。でも、おそらく映画の撮影中に起こった地震と津波をただちにフィクションのなかに取り込んだ瞬発力は買いたい。
冷たい風に吹かれ後れ毛がなびく蓮佛美沙子の相手を見つめる表情が美しい。
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