『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
7年前、一度だけピナ・バウシュとヴッパタール舞踏団の公演を見にいったことがある。その直前にペドロ・アルモドバルの映画『トーク・トゥー・ハー』でピナの踊りを見ていた。彼女が属するらしいコンテンポラリー・ダンスというものも含めダンスの素養はまったくないけれど、舞台は官能と陶酔に満ちてなんとも楽しかった。
その面白さが映画『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち(原題:Pina)』に再現されていた。
コンテンポラリー・ダンスと言われるものには、無知の感想であることを承知で言えば、クラシック・バレエみたいな優雅な美しさはない。時に人体が脊椎のない軟体動物のように動いたり、逆に関節がばらばらになって人間機械のように動いたり、ヨーロッパに生まれたクラシック・バレエのきわめて人工的な「美しさ」に対するアンチとして出てきたのだろう。
でもそれだけでは実験的なアートになりかねないのを、ピナ・バウシュの面白さは、物語を感じさせるシチュエーションの中でそれを演じたり、水や土や砂、風といった自然のなかで演じることで、見る者にスペクタクルな興奮を与えることから生まれてくるように見える。音楽のセンスのよさや、動きを集団的に反復させることによる陶酔感も、面白さを加速する。
ヴィム・ヴェンダース監督はピナの生前からこの映画を3Dで企画し、ピナの死でいったんは中止を覚悟したが、ぜひつくってほしいという団員の希望で実現したのだという。団員がピナを回想し、それぞれの代表作を踊る。ドイツ西部にあるヴッパタールの舞踏団の舞台だけでなく、ヴッパタールの路上や街を走るモノレール車内や採石場でもダンスが演じられることで、スペクタクルの要素が一層強くなっている。
もっともこの映画が3Dで撮られていることについては、それほどの興奮を覚えなかった。もともと映像の陶酔や興奮は、3次元の現実を2次元の平面に閉じ込める際、カメラのフレームや遠近感の選択によって生の現実と異なる「美」が生まれることから来ると思う。それをもう一度3次元に戻すについては、現実の3次元とまた異なる新しい「美」が生まれているかどうかが問われる。僕の印象では今の3Dはまだミニチュア感が強くて、なんだか小人の舞台を望遠鏡で覗いているような気がした。もっと驚異の3Dが出てくることを期待したい。
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