『ヒューゴの不思議な発明』 驚異の追体験
映画の冒頭、凱旋門を中心としたパリの夜景が上空から俯瞰される。カメラが首を振ると建設されて間もないエッフェル塔(映画のなかでは)が見え、そこからカメラは着陸態勢に入った航空機のように滑空しながら地上に近づいてゆく。やがて鉄道線路と、その終着駅であるモンパルナス駅が大きく見える。カメラはさらに地上すれすれまで接近し、線路に沿って駅のなかに入ってゆく。高速で移動するカメラは行きかう人の波をすり抜け、構内の大時計に近寄ったかと思うと、時計の針の間から覗く少年をクローズアップする。
ここまでが長いワン・ショット。こういうデジタルならではのカメラワークに最初にびっくりたのは『スターウォーズ』だったけど、『ヒューゴの不思議な発明(原題:Hugo)』も、そもそも見世物として出発した映画がそれをはじめて見た人々に与えた驚異と興奮を、デジタルと3Dいう新しい技術によって再現しようとしているように見える(ただし僕が見たのは2D字幕版)。
その後も画面は、「オペラ座の怪人」のように人知れず駅に住むヒューゴ少年(エイサ・バターフィールド)と映画の真の主人公であるジョルジュ・メリエス(ベン・キングスレー)との出会いを、流れるような映像と音楽を駆使し「グランドホテル」形式で脇役たちを紹介しながら追ってゆく。マーティン・スコセッシ監督の流麗な演出に陶然とする。
マーティン・スコセッシが初めての3D映画をつくるにあたってジョルジュ・メリエスを主人公に選んだのは、映画史に興味のある者には「なるほどね」と思えるものだった。3D映画がメリエスがつくりあげた映画の魔術に匹敵するとは僕には思えないけど、それでもデジタル時代の新しい技術と19世紀末に登場した映画という新しい見世物を重ねることで、スコセッシは映画というメディアのちょっと怪しげで、子供っぽく、魔術的な魅力を見直そうとしているようだ。
映画のもう一方の先駆者といわれるリュミエール兄弟が、今でいうドキュメンタリー映画を主体としたのに対して、メリエスはフィクショナルな劇映画をつくりあげた。しかも、この映画のなかでも映像が使われる『月世界旅行』はじめ、トリックにあふれた夢幻的な映画がメリエスの真骨頂だといわれる。
もともとメリエスはパリに奇術小屋を持つ奇術師で、同時に自動人形の製作者でもあった(この自動人形も、映画のなかで少年とメリエスをむすびつける重要な役を果たす)。19世紀末、リュミエールの映画興行を見て感動したメリエスは、自らも映画製作に乗り出すことになる。
もともと奇術師だったメリエスが映画のトリックに最初に気づいたのは、こんな出来事からだった。メリエスがオペラ座前の広場でカメラを回し、撮影したフィルムを映写してみると、広場を走っている乗合馬車が突然、葬式馬車に早変わりした。撮影中にフィルムが一瞬引っかかって動かなくなり、そのわずかな間に乗合馬車は走り去り、ちょうど同じ位置に葬式馬車が来たところで撮影が再開されたからだった(ジョルジュ・サドゥール『世界映画史』)。
そこからメリエスは、さまざまなトリックや二重露出、合成、着色などを駆使した幻想的な映画をつくりだして大成功を収める。『ヒューゴの不思議な発明』でも出てくるモンパルナス駅での蒸気機関車の脱線事故(下の写真)も、メリエスは映画にしている。パリ郊外に(太陽光で撮影するための)ガラス張りの水族館のようなスタジオを建て、ここで映画製作に没頭する(このスタジオも映画のなかで再現されている)。サドゥールは「彼の映画は…映画の少年時代にあって、科学という魔術によってすべての能力を与えられた、驚嘆すべき風変わりな少年が見た世界である」と言う。
でも彼の成功は長続きしなかった。職人肌のメリエスは映画の販売については息子に任せていたが、映画の製作から配給までを企業化したパテ社に太刀打ちできず、また少年ぽい夢幻劇も観客に飽きられて、メリエスは映画製作を断念せざるをえなくなる。最後には生活のため撮影したフィルムを目方売りしたという。
60歳になったメリエスは、モンパルナス駅の吹きさらしのなかに建てられた小さな玩具店の主人になった。この映画は、そこから始まっている。ヒューゴ少年は父から受け継いだ自動人形とスケッチに導かれて失意のメリエスに出会い、その好奇心と熱意によって、過去を封印したメリエスの凍った心を溶かしてゆく。最後にメリエスが映画草創期の巨匠として名誉回復されるのは史実の通りだ。
映画のなかでメリエスやリュミエールはじめ「映画の少年時代」の映像がふんだんに使われている。それを見ているだけでも楽しい。スコセッシの映画へのオマージュが画面隅々にまであふれ、彼には珍しく少年少女のファンタジーのような物語にしたのも、とてもいいな。
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