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March 26, 2012

ようやく春

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flowers in my garden

梅だけだったわが家の庭にも、ようやく春が来た。ヒマラヤユキノシタ。

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花ニラ。

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ヒヤシンス。

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ホトケノザ。

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March 21, 2012

『ヒューゴの不思議な発明』 驚異の追体験

Hugo
Hugo(film review)

映画の冒頭、凱旋門を中心としたパリの夜景が上空から俯瞰される。カメラが首を振ると建設されて間もないエッフェル塔(映画のなかでは)が見え、そこからカメラは着陸態勢に入った航空機のように滑空しながら地上に近づいてゆく。やがて鉄道線路と、その終着駅であるモンパルナス駅が大きく見える。カメラはさらに地上すれすれまで接近し、線路に沿って駅のなかに入ってゆく。高速で移動するカメラは行きかう人の波をすり抜け、構内の大時計に近寄ったかと思うと、時計の針の間から覗く少年をクローズアップする。

ここまでが長いワン・ショット。こういうデジタルならではのカメラワークに最初にびっくりたのは『スターウォーズ』だったけど、『ヒューゴの不思議な発明(原題:Hugo)』も、そもそも見世物として出発した映画がそれをはじめて見た人々に与えた驚異と興奮を、デジタルと3Dいう新しい技術によって再現しようとしているように見える(ただし僕が見たのは2D字幕版)。

その後も画面は、「オペラ座の怪人」のように人知れず駅に住むヒューゴ少年(エイサ・バターフィールド)と映画の真の主人公であるジョルジュ・メリエス(ベン・キングスレー)との出会いを、流れるような映像と音楽を駆使し「グランドホテル」形式で脇役たちを紹介しながら追ってゆく。マーティン・スコセッシ監督の流麗な演出に陶然とする。

マーティン・スコセッシが初めての3D映画をつくるにあたってジョルジュ・メリエスを主人公に選んだのは、映画史に興味のある者には「なるほどね」と思えるものだった。3D映画がメリエスがつくりあげた映画の魔術に匹敵するとは僕には思えないけど、それでもデジタル時代の新しい技術と19世紀末に登場した映画という新しい見世物を重ねることで、スコセッシは映画というメディアのちょっと怪しげで、子供っぽく、魔術的な魅力を見直そうとしているようだ。

映画のもう一方の先駆者といわれるリュミエール兄弟が、今でいうドキュメンタリー映画を主体としたのに対して、メリエスはフィクショナルな劇映画をつくりあげた。しかも、この映画のなかでも映像が使われる『月世界旅行』はじめ、トリックにあふれた夢幻的な映画がメリエスの真骨頂だといわれる。

もともとメリエスはパリに奇術小屋を持つ奇術師で、同時に自動人形の製作者でもあった(この自動人形も、映画のなかで少年とメリエスをむすびつける重要な役を果たす)。19世紀末、リュミエールの映画興行を見て感動したメリエスは、自らも映画製作に乗り出すことになる。

もともと奇術師だったメリエスが映画のトリックに最初に気づいたのは、こんな出来事からだった。メリエスがオペラ座前の広場でカメラを回し、撮影したフィルムを映写してみると、広場を走っている乗合馬車が突然、葬式馬車に早変わりした。撮影中にフィルムが一瞬引っかかって動かなくなり、そのわずかな間に乗合馬車は走り去り、ちょうど同じ位置に葬式馬車が来たところで撮影が再開されたからだった(ジョルジュ・サドゥール『世界映画史』)。

そこからメリエスは、さまざまなトリックや二重露出、合成、着色などを駆使した幻想的な映画をつくりだして大成功を収める。『ヒューゴの不思議な発明』でも出てくるモンパルナス駅での蒸気機関車の脱線事故(下の写真)も、メリエスは映画にしている。パリ郊外に(太陽光で撮影するための)ガラス張りの水族館のようなスタジオを建て、ここで映画製作に没頭する(このスタジオも映画のなかで再現されている)。サドゥールは「彼の映画は…映画の少年時代にあって、科学という魔術によってすべての能力を与えられた、驚嘆すべき風変わりな少年が見た世界である」と言う。

Montparnasse_1895
(wikipedia)

でも彼の成功は長続きしなかった。職人肌のメリエスは映画の販売については息子に任せていたが、映画の製作から配給までを企業化したパテ社に太刀打ちできず、また少年ぽい夢幻劇も観客に飽きられて、メリエスは映画製作を断念せざるをえなくなる。最後には生活のため撮影したフィルムを目方売りしたという。

60歳になったメリエスは、モンパルナス駅の吹きさらしのなかに建てられた小さな玩具店の主人になった。この映画は、そこから始まっている。ヒューゴ少年は父から受け継いだ自動人形とスケッチに導かれて失意のメリエスに出会い、その好奇心と熱意によって、過去を封印したメリエスの凍った心を溶かしてゆく。最後にメリエスが映画草創期の巨匠として名誉回復されるのは史実の通りだ。

映画のなかでメリエスやリュミエールはじめ「映画の少年時代」の映像がふんだんに使われている。それを見ているだけでも楽しい。スコセッシの映画へのオマージュが画面隅々にまであふれ、彼には珍しく少年少女のファンタジーのような物語にしたのも、とてもいいな。


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March 17, 2012

吉本隆明逝く

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in memory of Yoshimoto Takaaki

吉本隆明が亡くなった。1960年代から70年代にかけて、むさぼるように読んだ記憶がある。細かいことはすべて忘れてしまったけれど、徹底して自分で考えること、正義を背負わないこと、を学んだ。果たして自分がそれをどれだけ実現できたかは覚束ないにしても。

「佃渡しで」という好きな詩の一節を書き写す。

佃渡しで娘がいった
<あの鳥はなに?>
<かもめだよ>
<ちがうあの黒い方の鳥よ>
あれは鳶だろう
むかしもいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
<これから先は娘にきこえぬ胸のなかでいう>
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

<あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう>
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる

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March 16, 2012

わが家の放射線量

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radiation level in my house

さいたま市が放射線モニターを貸し出ししている。お隣さんと一緒に借りてきて、わが家を計ってみた。ちなみに文科省が集計している空間放射線量では、この日(3月14日)のさいたま市は0.051μSv(マイクロ・シーベルト)/h(地上1m)となっている。

計器は国産でHORIBAのPA-1000というやつ。掌にのる小さなもので、0.001μSvから計れる。計ったのは地上5センチと1メートル(以下の表で前の数値が地上5センチ、後ろが1メートル)。

門の前      0.080  0.080
生垣の脇     0.080   0.081
庭(クローバー) 0.080  0.058
雨樋の下     0.148  0.075

雨樋の下、雨水が集まるところの数値が高いのは、さまざまな報道で分かっていた。さいたま市では雨樋の下、樹木直下などで1μSV/h(地上5センチ)以上の数値が出るところを「局所的汚染」としているが、その基準値の1/7程度。

去年の秋、3カ所あるその雨樋の下の表土を数センチ入れ替え、庭のいちばん遠いところに埋めた。ここを「わが家のホットスポット」と呼んでいる。 

わが家のホットスポット 0.314   0.077

うーん、かなり高い。去年3月、事故直後に首都圏にも放射性物質が流れた。そのとき集中的に汚染されたものだろう。ここには近づかないほうがよさそうだ。もっとも「局所的汚染」の基準値の半分以下。1メートル離れれば他と変わらない値になる(さいたま市も「1メートル離れれば放射線量は大幅に下がる」としている)。

畑    0.071   0.070

畑の数値が高ければ、夏野菜の種をまく前に表土を入れ替えようかと思っていた。でも表土には栄養分が集まっている。結果は、芝の代わりにクローバーを植えてある庭の数値より低い。どうするか。迷うところだ。

居間    0.062   0.059
キッチン  0.055   0.051

わが家はガラス戸が多く開放的な木造住宅なので、屋内でも外とあまり変わりない。

「わが家のホットスポット」と雨樋の下(地上5センチ)の数値を除けば、屋外の数値は一定の幅に収まっている。それほど精密な計器ではないから、細かな数値の差にこだわっても意味はない。誤差の範囲内と考えていいだろう。

ちなみに測定値から年間被曝量を出す式はこんな具合になっている。

年間被曝量(mSv)=[測定値μSv]×[8+a×16]×365÷1000
(aは屋内の低減係数で木造なら0.4。わが家の値からすると0.4は低すぎると思うが、それはひとまずおいて)

今回計った地上1メートル、19カ所の値の平均値0.075μSvをこの式に入れて計算すると、年間被曝量は0.39ミリ・シーベルト(mSv)となる(事故被曝だけでなく自然被曝も含む)。年間被曝量の目安とされている1mSvの半分以下だけれど、これ以外に食物から来る内部被曝もある。

わが家の空間放射線量(地上1メートル)は平均0.075μSV/hだけど、さいたま市が公表している同じ日の数値は0.051(地上1メートル)。この差はどう考えたらいいだろう。

さいたま市の数字は市内桜区の県衛生研究所で測定されている。さいたま市は大雑把に言えば海抜十数メートルの大宮台地と、そこから数メートル低い荒川流域の低地とからなる。わが家は大宮台地にあり、県衛生研究所は低地にある。とはいえ市内には山と呼べるようなものはなく、丘が散在する程度だ。わが家の回りにも放射性物質が吹きだまるような高低の差はない。とすれば、考えられるのは数メートルの海抜の差か、観測機器の誤差か。

いずれにしても、国が言う「年間1ミリ・シーベルト」という「基準値」以下ではあるけれど、改めて首都圏も放射線で汚染されていることを痛感する。今回の値ならばさほど心配することはないだろうけど、雨水が集まるところにホットスポットがあるかもしれないから要注意だ。


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March 13, 2012

『アリラン』 再生の「アクション!」

Photo
Arirang(film review)

『アリラン(英題:Arirang)』の最後で、この映画の監督であり脚本家であり主演者でありカメラマンであり、要するに人里離れた小屋でまったく一人で映画をつくっていたキム・ギドクが、手作り銃の銃口を自らに向け、カメラを回しながら叫ぶ。「レディー」「アクション!」。撮影現場で監督が本番のときにかける「用意」「ハイ」の掛け声。それを聞いたとき、同じように最後のセリフが「アクション!」の一声だった映画を思い出した。

クリント・イーストウッド監督の『ホワイトハンター ブラックハート』。アフリカ・ロケに出かけたハリウッドのカリスマ監督(クリント本人が演ずる)が、映画の脚本が完成しないまま、象狩りに熱中する。あげく、ハンティングの最中に人を死なせてしまう。主演女優も到着し、脚本が未完のまま撮影初日を迎えた監督は、カメラを据えた背後で絞り出すような声を出す。「アクション!」。

どちらの作品にも、映画を撮れなくてもがく監督の精神的苦悩が描かれている。イーストウッドの映画は巨匠ジョン・ヒューストンをモデルに、『アフリカの女王』ロケのエピソードを素材にしたフィクション、キム・ギドクのは鬱状態に陥り山に籠もった自分にカメラを向けた半分ドキュメント、半分フィクションのような作品だ。

キム・ギドクが映画を撮れなくなったのは3年前の『悲夢』の後らしい。解説によると、事故と裏切りがあったという。この映画の撮影中、首を吊るシーンであやうく女優が本当に首を吊りそうになった。仲間の裏切りに会った。仲間とは、想像するにキム・ギドクの助監督を務め、後に『映画は映画である』でメジャー・デビューしたチャン・フンのことだろうか。

事故のショックと友の裏切りで鬱状態になり、ギドクは山の小屋にひとりで籠もった。雪を溶かしてインスタント・ラーメンをすすり、干魚をかじり、エスプレッソ・マシンを自作し(手仕事が好きなんだろう)、ざんばら髪になって猫と暮らす。自分は何をやっていたのか、自問する日々。幻聴か、ドアを叩く音がして開けるのだが、そこには誰もいない。キム・ギドクは、そんな自分にカメラを回していく。

問うギドクと答えるギドク。その映像を見ている、もうひとりのギドク。ドッペルゲンガーのように自分が増殖していく。無限の自己増殖は、孤立した人間の妄想にほかならない。でもギドクは、最後にそんな自分を殺そうと銃を手作りする。このあたりになると、もうギドクはかつてのギドクに戻り、映画づくりに情熱を燃やしはじめたらしいことが画面から感じられる。

イーストウッドが絞り出す最後の「アクション!」の言葉は虚無に苛まれた虚ろな声だったけれど、ギドクの「アクション!」は再生のために自分を殺す決断の叫びだった。この『アリラン』をつくった後、ギドクは早くも新作を完成させたらしい。

この映画、キヤノンEOSを使って撮られているとのこと。映画をつくるというのは長いこと共同作業だったが、まったくひとりでこんなことができるまで機材は進歩しているんだ。

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March 11, 2012

3.11 4つの写真展

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photo exhibitions of Tsunami and the Fukushima accident

あれから1年の時間がすぎて、3.11についての写真展がいくつも開かれている。

石川直樹「やがてわたしがいる場所にも草が生い茂る」(2月29~3月6日。銀座ニコンサロン)。石川は津波の直後に八戸に入り、三陸海岸を宮古まで車を走らせた。僕も11月に訪れたことのある田老(宮古市)が主に撮影されている。まだ田老の被害が新聞・テレビで報道されていなかった時期の、救援や復興にまったく手がつけられていない風景。ただ見つめるしかない。

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笹岡啓子「Difference3.11」(~3月20日。銀座ニコンサロン)。三陸海岸と福島県阿武隈山地で撮影されている。瓦礫に埋もれた「異様な風景」と、目に見えない放射性物質を見ようとするように凝視される「なにもない風景」。

長倉洋海「子どもたちの元気便 ─震災からの出発」(~3月22日。新宿・コニカミノルタプラザ)。被災地に生きる子どもたちの笑顔が素晴らしい。

瀬戸正人「Cesium-Fukushima」(~3月11日。新宿・Place M)。こちらも見えないセシウムをあぶりだすように、ネガポジが反転された山林の風景。


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March 06, 2012

『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』

Pina
Pina(film review)

7年前、一度だけピナ・バウシュとヴッパタール舞踏団の公演を見にいったことがある。その直前にペドロ・アルモドバルの映画『トーク・トゥー・ハー』でピナの踊りを見ていた。彼女が属するらしいコンテンポラリー・ダンスというものも含めダンスの素養はまったくないけれど、舞台は官能と陶酔に満ちてなんとも楽しかった。

その面白さが映画『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち(原題:Pina)』に再現されていた。

コンテンポラリー・ダンスと言われるものには、無知の感想であることを承知で言えば、クラシック・バレエみたいな優雅な美しさはない。時に人体が脊椎のない軟体動物のように動いたり、逆に関節がばらばらになって人間機械のように動いたり、ヨーロッパに生まれたクラシック・バレエのきわめて人工的な「美しさ」に対するアンチとして出てきたのだろう。

でもそれだけでは実験的なアートになりかねないのを、ピナ・バウシュの面白さは、物語を感じさせるシチュエーションの中でそれを演じたり、水や土や砂、風といった自然のなかで演じることで、見る者にスペクタクルな興奮を与えることから生まれてくるように見える。音楽のセンスのよさや、動きを集団的に反復させることによる陶酔感も、面白さを加速する。

ヴィム・ヴェンダース監督はピナの生前からこの映画を3Dで企画し、ピナの死でいったんは中止を覚悟したが、ぜひつくってほしいという団員の希望で実現したのだという。団員がピナを回想し、それぞれの代表作を踊る。ドイツ西部にあるヴッパタールの舞踏団の舞台だけでなく、ヴッパタールの路上や街を走るモノレール車内や採石場でもダンスが演じられることで、スペクタクルの要素が一層強くなっている。

もっともこの映画が3Dで撮られていることについては、それほどの興奮を覚えなかった。もともと映像の陶酔や興奮は、3次元の現実を2次元の平面に閉じ込める際、カメラのフレームや遠近感の選択によって生の現実と異なる「美」が生まれることから来ると思う。それをもう一度3次元に戻すについては、現実の3次元とまた異なる新しい「美」が生まれているかどうかが問われる。僕の印象では今の3Dはまだミニチュア感が強くて、なんだか小人の舞台を望遠鏡で覗いているような気がした。もっと驚異の3Dが出てくることを期待したい。

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