February 29, 2012
February 25, 2012
February 23, 2012
『東京プレイボーイ・クラブ』 酔ってるのに覚めて
Tokyo Playboy Club(film review)
プログラム・ピクチャーの時代、映画は2本立て(さらに昔は3本立て)だったけど、例えば東映なら『昭和残侠伝』とか『博奕打ち』といった人気シリーズに併映された裏番組にも、けっこう面白いのがあった。「表」の主人公がたいてい正統派のヤクザだったとすれば、裏番組はチンピラや愚連隊(死語だ)が主人公になることが多く、時には「表」の看板である任侠道に牙をむくような作品もあった。若き深作欣二監督の『狂犬三兄弟』とか中島貞夫監督『893愚連隊』(荒木一郎がよかった!)なんかが記憶に残っている。
24歳、奥田庸介監督の商業映画デビュー作『東京プレイボーイ・クラブ』は、そんなチンピラを主人公にした1960~70年代のプログラム・ピクチャーにオマージュを捧げているような映画だった。
暴力沙汰で故郷にいられなくなった勝利(大森南朋)が東京の場末の盛り場に流れ着く。故郷の仲間で「東京プレイボーイ・クラブ」なる怪しげなクラブをやっている成吉(光石研)の元にころがりこんだ勝利だが、地元のヤクザ3兄弟とケンカになり、ぼこぼこにしてしまう。その解決のため、クラブで働くエリ子(臼田あさ美)が金とともにホテルに送り込まれるが、SM趣味の3兄弟の長兄がプレイの最中に事故死してしまい……。
勝利や成吉が歩く飲み屋街のシーンに、「ok横丁」という看板が何度も映る。ロケは僕が生まれた川口市と荒川をはさんで向かい合う赤羽で、いまだに闇市の雰囲気が残る盛り場の夜がなんとも懐かしい。数年前、お世話になった印刷会社のオフセット印刷の職人さんたちと久しぶりに赤羽で飲んだけど、外国人が増えたことを除けばまだまだ「戦後」という言葉が似合う町だった(いや、「戦後」だって進駐軍がいたか)。
そんな場末の町で、すべてに暴力でケリをつけようとする勝利と、店のためにヤクザに膝を屈する成吉の2人は、時にぶつかりあいながら、かけがえのない友でもある。その2人の物語はアナクロ的に激しくもあり、コミカルでもあり、哀しくもある。
かつてのプログラム・ピクチャーと違うところは、突っ張って生きる勝利に対する作り手の思い込みを感じさせる一方、きわめて覚めた目も備えて、かつてのヤクザ映画の定型をずらしていることだろう。
ヤクザの死体を切り刻むとき、勝利が用意したのは青い水玉模様のエプロンで、その姿を見て成吉が笑う。パンツ一丁に水玉のエプロン、糸ノコを手にした勝利のショットがおかしい。もっとも、園子温のように血糊ぎとぎとの死体切断シーンを見せず、ごりごりと糸ノコの音だけで表現しているのは残酷描写を避ける60~70年代ふう。
ラスト近くでも、店の中で勝利がヤクザを再びぼこぼこに殴りつけるシーンがある。そこにいきなり流れてくるのは、チェリッシュの「てんとう虫のサンバ」。店内のオーディオが鳴り出すんだけど、そのちぐはくな取り合わせがもたらす酔っているのに覚めているような感覚こそが監督が意図したものだろう。
若い監督の処女作だから、もちろん穴は多い。エリ子と勝利の愛がきちんと描けてないから、最後の勝利の叫びが迫ってこない。奥田監督が饒舌に説明しないのは好感がもてるけど、2人の心が触れた瞬間を意図しているんだろう、車を走らせる勝利と同乗したエリ子が黙って外を見ていて、そこに原田芳雄の「横浜ホンキー・トンク・ブルース」がかぶってくるシーンなんかも、「決め」ショットのはずなんだけど、いまいち。
とはいえ、プログラム・ピクチャーの職人性を持ちつつ作家的な姿勢を崩さないのは、かつて5社体制のなかで優れた映画をつくっていた監督たちの共通の資質でもあった(過去・現在のハリウッドもそうだ)。次の作品が楽しみだなあ。
February 14, 2012
『ドラゴン・タトゥーの女』 正統派フィンチャー
The Girl with The Dragon Tattoo(film review)
『ドラゴン・タトゥーの女(原題:The Girl with The Dragon Tattoo)』の原作、「ミレニアム」3部作は第1巻『ドラゴン・タトゥーの女』だけ読んだ。スウェーデンのミステリーを読むのは、その昔の「マルティン・ベック」シリーズ以来。ミステリーのいろんな要素が山ほど詰め込まれていて、なるほど世界的ベストセラーになるのはこういう小説なんだな。
孤立した島で富豪一族の殺人という密室犯罪の謎解き。ナチスの過去がからむ歴史もの。猟奇連続殺人というシリアル・キラーもの。コンピューターを駆使したハイテク犯罪。見え隠れするキリスト教。パンクな女主人公の復讐劇。もうひとりの主人公であるジャーナリストがからむ社会派的な問題意識。主人公2人のラブ・ストーリー……。
そんなものがうまくシャッフルされて、軽快なテンポで語られてゆく。とても口当たりのいいミステリーなんだけど、それだけにすべてがさらっと処理され、すごいミステリーを読んだときの深い闇に引きずり込まれるような戦慄はない。贔屓にしているマイクル・コナリーなんかに比べると、そこが物足りない。
『ドラゴン・タトゥーの女』はスウェーデンでも映画化されたけど(未見)、ハリウッド版リメイクの監督はデヴィッド・フィンチャー。前作『ソーシャル・ネットワーク』は評価が高いが、やっぱり『エイリアン3』『セブン』『ファイト・クラブ』『ゾディアック』といったダークでミステリアスな作品のほうがフィンチャーの本領だろう。
不気味なモノたちがうごめく「エイリアン」ふうのオープニング・クレジットからしてフィンチャー・ワールド全開だ。どんよりした雲に覆われた冬のストックホルムや小島の風景も、フィンチャー好みの閉ざされた感覚。主人公のミカエル(ダニエル・クレイグ)とリスベット(ルーニー・マーラ)が出会うのだいぶ後になってからで、それまでミカエルが絡む本筋の殺人事件と、ドラゴン・タトゥーの女・リスベットをめぐるサブ・ストーリーがテンポよく交互に語られてゆく。
僕は小説を読んでいるから、そんな冒頭の「仕込み」はちょっと退屈したけど、複雑なストーリーを手際よく語る職人技を見ながら、フィンチャーは新しい作り手として知られるけど意外に正統派かもしれないな、と思っていた。異質なカットとカットを衝突させて観客を驚かせるつなぎや、絶えず流れる音楽(レッド・ツェッペリンなど)で情動を高めていくやり方は、ヒッチコックはじめ20世紀の映画が積み重ねてきたものだ。斬新な映像感覚や今ふうな音楽の選びで新しく見えるけど、語り口はオーソドックスと思う。
そんなスタイルで、いろんな要素のある原作からフィンチャーらしく猟奇殺人やリスベットの復讐劇をふくらませて、ダークな味のミステリーに仕立てている。原作ではナチスの亡霊が絡む歴史サスペンスの要素がもっと大きかったと記憶する。ドイツでナチスが台頭したとき、国内ばかりでなく近隣諸国でも親ナチス勢力対反ナチス勢力の対立があった。そのあたりが面白く、いかにもヨーロッパのミステリーだなあと感じた。映画は、そのあたりさらりと触れるにとどまっている。そこがフィンチャーらしいというか、ハリウッド映画というか。
それにしてもドラゴン・タトゥーの女を演ずるルーニー・マーラが、『ソーシャル・ネットワーク』に出てた女の子だとは気づかなかった。眉を剃り、鼻と眉にピアス、パンクな髪型、背中にタトゥーを背負って、ハードなシーンにも挑んでいる。見上げた役者根性だね。
February 11, 2012
二つの石川真生写真展
Ishikawa Mao photo exhibition "A Port Town Elegy"
沖縄生まれ、1970年代から沖縄を撮りつづけている石川真生の写真展をふたつ、新宿で見た。
ひとつは「港町エレジー」(~2月17日、新宿・フォトグラファーズ・ギャラリー、写真上)。港町の廃屋(通称「幽霊屋敷」)に男たちが集まってくる。ウミンチュ(漁師)、港湾労働者、失業者、ホームレス……。男たちが集まれば、当然酒盛り。時にはケンカ。酔いつぶれた男。裸の男。シンクをトイレにしている男。詫びを入れている男。コンテナを住まいにしている男。一張羅で決めたスキンヘッドの男。濃くて怪しい空気が、懐かしいような。その昔の若衆宿って、こんなんだったのかもしれないな。
1991年に沖縄で出版された同名の写真集も置いてあった。印刷のせいか、時代のせいか、ざらざらした感触だけど、今回の写真展のプリントは優しく、美しい。石川真生の男たちへの愛を感ずる。
もうひとつは「FENCES,OKINAWA」(~2月13日。新宿ニコンサロン)。こちらは石川真生のメイン・テーマである「基地と沖縄」。基地とともに生きざるをえない沖縄の日々。1980年代からの作品を集大成した同名の写真集からセレクトされている。
February 09, 2012
『ペントハウス』 「99%」の逆襲
『ペントハウス』の原題はTower Heist(タワー強盗)。ニューヨーカーなら、「タワー」と言えばセントラル・パークの南西角、コロンバス・サークルに面した、不動産王ドナルド・トランプが所有する58階建ての「トランプ・タワー」を連想するんじゃないかな。
実際、映画のなかで「タワー」はセントラル・パークとコロンバス・サークルに面している設定だから、誰が見てもトランプ・タワーだ。wikipediaによれば、そもそもこの映画が最初に企画されたときのタイトルは「Trump Heist(トランプ強盗)」だった。
トランプは現にこのトランプ・タワーに住んでいる。実在の大富豪から強盗しようという企画だったのだが、トランプもトランプで、メディアへの露出大好きな彼は、タワーの外観や内装についてこの映画のプロダクション・デザイナーに協力している。大富豪の部屋にピカソやウォーホールの大きな絵がかけてあるのは、トランプの部屋も実際そうなのかもしれない。そういうことも含めて、これはいかにもアメリカ的なコメディでしたね。楽しめます。
ジョシュ(ベン・スティラー)は1戸5億円する高級コンドミニアム「タワー」のマネージャー。リッチな住民の要望に応え、ご機嫌を取るのが仕事だ。ペントハウス(最上階)に住むウォール街の投資家で大富豪のショウ(モデルは当然トランプ)とは、チェスのパソコン対戦仲間。ショウにはタワー従業員の年金の運用を託していたのだが、ショウは金融詐欺で逮捕され、従業員たちは年金を失ってしまう。ぶち切れたジョシュはショウのペントハウスで暴れて解雇される。職を失ったジョシュは、同じく解雇された仲間たちとショウが部屋に隠している隠し金20億円を強奪する計画を立てる。
……と書いてくれば分かるように、これは『オーシャンズ11』みたいな泥棒映画のパロディでもある。『オーシャンズ11』は犯罪のためにいろんな分野のプロを集めるけれど、ジョシュが集めるのは元従業員で気弱なコンシェルジェ(ケイシー・アフレック)や先住民系のボーイ、タワーを追い出されたウォール街の負け組(マシュー・ブロデリック)といった頼りにならない素人たち。仲間に引き入れた泥棒のスライド(エディ・マーフィ)も、ベランダで小金になりそうなものしか盗まないこそ泥で、鋼鉄製の金庫など開けたこともない。しかも抜け駆けして金を独り占めしようとする。
そんな素人集団が、タワーの構造を知り尽くし、働いているのは皆顔見知りということだけを武器に、セキュリティ堅固でFBIも監視しているショウのペントハウスにいかに忍び込むか。ジョシュがFBIの女性捜査官といい感じになったり、気弱な元コンシェルジェが復職の話に飛びついて仲間を裏切ったり、アフリカ系のメイド(ガボレイ・シディベ)が思わぬ能力を発揮したり、泥棒映画の定式を踏まえ(脚本のテッド・グリフィンは『オーシャンズ11』も手がけた)、笑いをちりばめいいテンポ。
「お前はクビだ」というセリフが出てくるけど、これはドナルド・トランプが自ら製作・主演したNBCテレビのリアリティ・ショーで連発し、流行語になった決めゼリフだ。アメリカの映画館では爆笑だったろうな。タワー屋上のペントハウス専用プールの底に巨大な100ドル札が描かれているのも笑える。
そしてクライマックスの犯行は感謝祭の日に行われる。セントラル・パークに面した大通りに群集がつめかけパレードが行進する最中に、タワー屋上から純金製のフェラーリが吊り下げられたり、カーチェイスが繰り広げられたり。SFXも使ってるだろうけど、こういうのを実際にロケで撮影するんだからコメディといっても騙され甲斐がある。
これもwikipediaによると現実の感謝祭の数日後に撮影されたらしい。マンハッタンの目抜き通りを多分半日くらいは通行止めし、実際のパレードと同じ出し物が使われている。もちろんトランプ・タワーも協力してるだろう。金だけでなく、こういうことが普通に出来るからアメリカ映画は面白くなる。
お約束どおり、犯行はもちろん成功する。「持たざる者」が「持てる者」からまんまと財産を奪い返し、めでたし、めでたし。
こういう映画がコメディとして成り立つのは、アメリカの「持てる者」の持つ財産がケタはずれに大きいからだろう。去年のウォール街占拠デモのスローガンは「1%対99%」だったけど、アメリカでは上位1%の世帯が全米の富の33%を所有し、上位5%が60%を握っている(小林由美『超・格差社会アメリカの真実』)。その最上位には純資産10億ドル以上のビリオネアが400世帯いるが、ドナルド・トランプの純資産は30億ドルといわれるから(wikipedia)、間違いなくその特権階級の一員。だからこそ「悪者」として成り立つわけだ。
日本でも金融資産を持つ最上位層に富が集中し、格差が拡大しつつあるとはいえ、ここまで極端ではないし、ヒール役の金持ちとして思い浮かぶ顔もない。
悪評も評判のうち。ドナルド・トランプはこの映画を見て、ガハハハと笑ったんだろうな。
February 05, 2012
浦和ご近所探索 冬の別所沼
taking a walk to Besshonuma pond
寒さがゆるんだので、別所沼へ散歩に出かけた。
別所沼ではヘラブナや鯉、口ボソが釣れる。今ではブラックバスもいるらしい。子供が小さいころは休みの日に口ボソ釣りに出かけた。弁当をつくり、午後いっぱいいて、子供が釣った数匹の口ボソを持って帰り、庭の水瓶に入れる。けっこう大きくなったのもいるが、たいてい猫にやられてしまった。
釣り人を見て回ると、あまり釣れてない。「もう少し水がぬるまないとね」。じっと座っていると、まだ寒い。
弁天島と呼ばれる小さな島があり、別所沼弁才天が祀られている。昭和のはじめ、深川の洲崎神社から分祀されたものだという。弁財天の起源はインドの河川神「薩羅薩伐底(サラスヴァティ)」で、だから水辺に多いんだな。
別所沼の近く、新しい道路が通り、周りに住宅が密集しても、ここだけは昔から変わらない一角がある。墓が三基あり、浦和監獄の合葬者の墓と記されている。明治初期、現在の県庁近くに浦和監獄がつくられた。秩父事件で有罪になった農民たちもここに収監されている。戦後しばらく、小生がガキのころも浦和刑務所として残っていた(現在も川越少年刑務所さいたま拘置支所がある)。
墓は監獄で亡くなり、遺骨の引き取り手がなかった囚人たちのものだろう。明るい風景のなかに、過去がぞろりと顔をのぞかせている。いつもきれいに整備されているのが救いだ。
別所沼への散歩道に数本の大きな桜の木があり、満開になっても人は少なく、花見の穴場だった。久しぶりに通ると、工事の塀で囲まれている。高層マンションができるらしい。浦和は住宅地として人気が高いせいか、古い住宅が壊されて高層マンションが次々に建設されている。桜の木が伐られなかったのがせめてもの救いか。
February 03, 2012
『J・エドガー』 「強い男」の神話
クリント・イーストウッドは『J・エドガー(原題:J.Edgar)』でつくりあげた主人公を、元FBI(米連邦捜査局)長官、J・エドガー・フーバーを端的に言って好きなんだろうか、嫌いなんだろうか。映画を見ながらそんなことを考えたのは、監督であるイーストウッドが主人公にどう向き合っているのか、共感しているのか、それとも批判的に見ているのかが微妙に思えたからだ。
1930年代にFBIを強大な組織につくりあげ、リンドバーグ事件やギャングとの対決で名を上げた男。第二次大戦中はスパイ摘発、戦後の冷戦期には赤狩りでリベラル派に敵対した反共主義者。マイノリティへの露骨な差別主義者。歴代大統領はじめ要人の秘密を握り、恐怖によって半世紀に渡り大きな権力を行使しつづけた男。
例えばリベラル派のオリバー・ストーン監督なら、アメリカの影の権力者としてのフーバーを憎々しげな主人公に仕立ててシニカルに映画化したにちがいない(多分、つまらない映画になったろう)。一方、「政治的正しさ」にうるさい現在のアメリカで、今どきこんな反共主義者、差別主義者を単純なヒーローとして描けるはずもない。イーストウッドの描くJ・エドガーは、そのどちらでもないように見える。ではイーストウッドはフーバーのどこに惹かれたのか。
役者としてのイーストウッドが演じてきた人間像、映画監督としてのイーストウッドが造型してきた数々の主人公をふりかえってみると、『J・エドガー』がやはりイーストウッドの映画だなと思えるのは、それが「強い男」の物語であることだ。
1960年代までの西部劇と、その伝統を継いでイーストウッドが役者として名を上げたマカロニ・ウェスタンは典型的な「強い男」の映画だった。ハリウッドへ戻ったイーストウッドのヒット作「ダーティ・ハリー」シリーズも、西部劇のヒーローを現代都市に甦らせた「強い男」の映画だった。その後、イーストウッドは役者だけでなく監督としても映画を作りはじめたが、相変わらず「強い男」を演じつづけ、「強い男」を主人公にした映画を作りつづけた。
でも、監督としてのイーストウッドの個性は、1960年代までの西部劇のヒーローのような「強い男」を、表側からだけでなく、裏側からも見ていることにあるのではないか。外面的な「強い男」の背後に、どのようなものが潜んでいるのか。ハリウッドの伝統に立ちながらもハリウッド的な単純さとは一線を画し、善悪正邪で割り切れない人間の複雑さに目をこらしていることが、イーストウッドをアメリカを代表する監督に押し上げたのだと思う。
『荒野のストレンジャー』も『ペイルライダー』も、ヒーローに死の影が色濃くまとわりついている西部劇だった。『センチメンタル・アドベンチャー』では珍しく「強くない男」を主人公にしているし、製作に回った『タイトロープ』では主人公の警官は性的なトラウマに悩まされている。『ホワイトハンター ブラックハート』では、タイトル通りブラックハートな映画監督が主人公だった。2000年代に入ってからは『ブラッドワーク』『ミスティック・リバー』『父親たちの星条旗』『グラン・トリノ』と、「強い男」の背後にあるものを見据えた傑作を連発している。
ところでイーストウッドは政治的には右派で共和党支持と言われるけど、彼の「強い男」の映画はマイノリティーへの差別とは無縁だ。イーストウッドの西部劇に悪役としてのインディアンが出てきたことはないと思う。逆に『父親たちの星条旗』は主人公のひとりが先住民系に設定され、マイノリティの目から見た第二次大戦~戦後史という側面を持っていた。現代的西部劇『グラン・トリノ』でも、イーストウッドが助けるのはベトナムから移民してきたマイノリティのモン族だった。
そんなイーストウッドの体質を見てくると、『J・エドガー』で彼がフーバーのどこに惹かれたのかが見えてくる。J・エドガーは、まぎれもなくイーストウッド映画の「強い男」の系列に属する主人公だ。ただし、イーストウッドは権力者である「強い男」をこれまで描いたことも、演じたこともない。フーバーの差別主義者としての顔も、イーストウッド映画とは相容れない。
イーストウッドが惹かれるのは、フーバー(レオナルド・ディカプリオ)という「強い男」が内に秘めていたものだ。小さいときから「強くなれ」と教育した母親との、近親相姦の匂いを感じさせる母子関係。片腕であるクライド(アーミー・ハマー)との密かなホモ・セクシュアルの関係。一方では、秘書のヘレン(ナオミ・ワッツ)との永遠のプラトニック・ラブみたいな関係。
そんなふうに「強い男」の内側が描写されるけど、なかでもゾクッとくるのは、母が死んだ後、フーバーがクローゼットから母のドレスを取り出して身につけ、ネックレスを首に巻くところだ。このシーンはフーバーに異性装者との噂があったことに基づいているらしい。いつの間にか、いろんな社会的事件よりフーバーのさまざまな愛のかたちのほうが前面に出てくる。
映画は自らFBIをつくり、死ぬまで長官だったフーバーの50年間の表と裏を、時間を前後させながら追ってゆく。例えばリンドバーグ事件とか、ギャングとの戦いとか、ケネディ兄弟との暗闘とか一点に的を絞れば、もっとドラマチックな語り方もできたはずだ。でもそれをすれば、否応なく主人公はヒーロー(アンチ・ヒーロー)になってしまい、見る者に感情移入を強いることになる。
それをせず、叙事に近い語りを採用したことで、いつものイーストウッドとは一味違うテイストの映画になった。それが監督の主人公へに対する微妙な距離感になったんだろう。好みでいえば、強烈な個性のヒーロー(アンチ・ヒーロー)に即して語る映画こそイーストウッドの本領だと思うけど、年老いてなおさまざまなスタイルで映画をつくるイーストウッドは、やはりすごい。
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