岩手・宮城の旅(2) 田老
a trip to Tohoku destroyed by the Tsunami(2)
ほとんど人影のない田老の無人駅を降りると、目の前を国道45号線が走っている。トラックやダンプカーの往来が激しい。
国道を渡って町のなかへ入っていく。海側には防潮堤があり、この地域は堤によって守られていたはずだけれど、そこに広がる風景に息を飲んだ。家々がコンクリートの基礎だけを残して、なにもかもが消えている。遠くに3階建てのビルが2つ、見えるだけだ。津波は高さ10.7メートル(海面から)の防潮堤を超えて家々を呑み込んでしまった。
後で聞くと、今回の津波は明治と昭和の2度の津波より大きく、20メートルに達したという。「ほらあそこに4階建てがあるだろう。あの屋上のところまで来たんだよ」と、港の漁師が話してくれた。
遠くに見えたビルに向かって歩く。このビルは元農協、最近はタクシー会社の所有になっていた。そばまで行ってみると、1階部分がきれいになくなり、向こうの景色が素通しで見える。おそらく2階も滅茶苦茶になっているだろう。
田老は場所によって防潮堤が二重になっている。昭和8年の津波の後で建設が始まり、戦後に960メートルの堤防が完成したが、その後、さらに新しく全長1.3キロの防潮堤がつくられた。港のそばの防潮堤は古いものだろうか、盛り土に鉄筋の入っていないコンクリートづくりだったため、鉄扉の出入り口を残して津波によって破壊されてしまった。
田老港。水揚げし、セリの行われる市場の建物は壊れたままだ。
市場近くで漁師が集まって作業していた。聞くと、若布の種を植えているんだという。種を植えたロープを海に入れて養殖すると、来年の春には若布が獲れる。若布をやっている漁師だけでなく、ほかの漁師も手伝いにきてにぎやかにやっている。何人かに津波のことを聞いた。
「地震が来たから、すぐに船で沖に出た。津波が引いて港に戻ったらなんにもなくて、夢のようでもあり地獄のようでもあったな」
「地震が来て高台に逃げた。振り返ったら家が1軒もなくて、まるで地獄みたいな」
全員で記念写真。頼まれてシャッターを押したついでに、こちらも1枚撮らせてもらう。近くの仮設に暮らしている人が多い。「来年の春には若布が獲れるから、そのころまた来てよ」
再び防潮堤を超えて、町の中心部へ歩く。高台にある家や学校や市役所支所は助かったけれど、こちらも道路と基礎だけの平坦な風景。ぽつりぽつりとプレハブが建つ。
今回の津波で田老地区では184人の人々が亡くなり、あるいは行方不明になった(全壊した家屋は1609軒)。宮古市全体の死者・行方不明者は525人だから、田老地区の被害がとりわけ大きかったことが分かる。もっとも明治29年津波の田老の犠牲者1859人、昭和8年の911人に比べれば、犠牲者の数はぐっと減っている。津波に超えられたとはいえ二重の防潮堤があったこと、津波の恐ろしさについて言い伝えや教育が徹底していたことがこの数に表れているのかもしれない。不幸中の幸いだった。
明治と昭和の津波、そして戦後のチリ地震津波について体験者の証言を集めた吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫)のなかでも、吉村は三陸海岸の防潮堤に強い印象を受けたことが本を書くきっかけになったと、こう書いている。
「三陸沿岸を旅する度に、私は、海にむかって立つ異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防に目をみはる。…その姿は一言にして言えば大袈裟すぎるという印象を受ける。
或る海辺に小さな村落があった。戸数も少なく、人影もまばらだ。が、その村落の人家は、津波防止の堤防にかこまれている。防潮堤は、呆れるほど厚く堅牢そうにみえた。見すぼらしい村落の家並に比して、それは不釣合なほど豪壮な構築物だった。
私は、その対比に違和感すらいだいたが、同時にそれほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた」
吉村昭が抱いた「違和感」は、33年前に僕が田老を訪れたときに感じたものでもあった。自然の風景を寸断してつくられた人工の巨大構築物。それがあったことで犠牲者の数を減らしたかもしれないとはいえ、結局のところ、自然の脅威の前に無力だった。鉄扉を残して無残に壊れた堤防を見ていると、人間の「科学的」な「想定」などというものがいかに無力かを思ってしまう。
田老の平坦な地区は山に向かって5分も歩けば尽きてしまう。家屋が流されるか無事だったかの境になった高台の縁まで行くと、学校から子供たちが坂道を下りてきて、同じ方向に歩いていく。
「どこ行くの?」
「これから学童」
「写真撮ってもいい?」
「いいよ」
「手に持ってるの、なに?」
「これね、カブトムシ飼ってたんだよ」
黄色い帽子の少年がしゃがんで紙パックを引っくり返し、中の土を出して見せてくれた。この季節、パックのなかにもうカブトムシはいない。いなくなっても、パックだけ大事に取っておいたんだろう。
コンクリートの基礎をまたぎながら歩いていると1軒のプレハブがあり、軒先の赤白青の「くるくる」に灯りがついて動いている。営業してるんだ。中をのぞくと店主と客が1人、待合の椅子に座って談笑していた。
床屋から数十メートル歩いたところに、「田老ふるさと物産センター」と書かれたプレハブがあった。のぞいてみたけど、商品らしきものはない。
「何か売ってるんですか?」
「いや、なんにもない。これからだな。あと10日もすれば鮭が上がるから、それを加工して荒巻鮭を売るよ」
田老で買えるものがあれば買いたいと思っていたけど、ということで何も買えなかった。床屋も行ったばかりだったし…。
少し離れた海寄りの地区にはまだ瓦礫が積んである。車や鉄筋、木造物などに分別してあり、ブルドーザーやクレーン車が動いているけど、処理にはまだ時間がかかりそうだ。夏を越した車の残骸には、こびりついた土から草が生えている。
太陽が山の陰に隠れると、急に寒くなってきた。小本行きの列車は午後4時33分。駅に向かって防潮堤を歩く。雲間から一条の光が射してきた。
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