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November 28, 2011

『恋の罪』 言葉とカラダ

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Guilty of Romance(film review)

小生がやってるニフティのブログに「検索ワード・ランキング」というのがある。例えば「浦和 古地図」とか検索エンジンに単語を入力し、検索した結果、小生のブログにたどり着いたものについて、単語(言葉)の多い順にランキングしたものだ。

2週間ほど前から、そのランキングに「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」というのが急に増えた。田村隆一の「帰途」という詩の書き出しで、一昨年だったか、映画『空気人形』の感想を書いたときに引用したことがある。それが今頃なぜ? 最近、世の中でこの詩が話題になった覚えもないし…と思っていたら、『恋の罪』を見てその疑問が解けた。映画の中で「帰途」が繰り返し出てきて、テーマに深くかかわる使われ方をしていたからだ。映画を見た人がこの詩に興味を持って、あるいは映画での使われ方の意味を求めて検索したんだろう。

人気作家の妻・いずみ(神楽坂恵)が、愛のない日常生活から風俗に足を踏み入れる(って、いかにも類型的だね)。いずみは渋谷・円山町で街娼の美津子(冨樫真)に出会うが、美津子は昼は大学で文学を教えるエリート女性(「東電OL殺人事件」がモデル)。いずみが美津子に会うために大学に行くと、美津子は教室で「帰途」の詩句をスライドに映して講義している。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

……

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

いずみは美津子の導きで、デリヘル嬢として円山町にさらに深く足を踏みこんでゆく。言葉の世界、意味が意味である世界(この社会)と、言葉のない世界、意味が意味にならない世界(円山町の廃墟アパートに象徴される)の間、昼の世界と夜の世界を行き来する二人の女。円山町の殺人事件を捜査する刑事の和子(水野美紀)もまた、昼の世界の仕事でも家庭でも満たされないものを抱えて、いずみと美津子に心を共鳴させてゆく。

『恋の罪』はそうした三人の女の「言葉が言葉にならない世界」への旅をめぐるドラマなんだけど、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という「帰途」の詩句が繰り返し、くどいくらいに登場して映画の核を明示する。もっとも、だからといっていずみ、美津子、和子の三人の女が「意味が意味にならない世界」に惹かれて(社会的には堕ちて)ゆくディテールが説得力を持って描かれていることにはならない。

美津子がいずみの舌や唇を触りながら「本当の言葉はね、カラダを持っているの」と呟く場面があるけれど、スクリーンに映し出されるいずみ、美津子、和子が「カラダを持っている」ようには僕には思えなかった。三人の女が抱える闇は「帰途」の言葉で比喩できるとしても、それだけでは彼女たちは観念の道具にすぎない。それが「カラダを持つ」ためには、異なった皮膚と血をもった三人の女それぞれが「言葉のない世界」に惹かれてゆく道行きを観客に納得させなきゃいけない。『恋の罪』はそのことに失敗している。

ひとことで言えば三人とも類型にすぎ、人間を描けてない。欲張りすぎ、ってことだろうか。『愛のむきだし』で園子温はボーイ・ミーツ・ガールのために、2本分の映画をつくって男と女それぞれが出会う瞬間までの時間を描いてみせた。その伝でいけば、『恋の罪』はいずみ、美津子、和子それぞれの3本分の映画が必要だったということになるのかな。

園子温の特徴である過剰な描写もここでは裏目に出ている。韓国映画でいえばキム・ギドクの変態性とパク・チャヌクの暴力性を併せもつ園子温の過剰さは『愛のむきだし』でも『冷たい熱帯魚』でも成功していたけど、ここでは円山町の廃墟アパートも、どしゃぶりの雨も、長いセックス描写も、冨樫真や大方斐紗子の怪演も観念的な空疎さを際立たせることにしかなっていない、と思う。フランツ・カフカの「城」が殺人事件のキーワードとして出てくるところも無用の文学趣味だし、三人の女の造型が男目線なのも気になった。

……などと不満を並べたのも、期待が大きかった裏返しにほかならない。似たテイストの映画で、似たような失敗作に『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』があったけど、ヒロインは『ヌード…』の佐藤寛子も『恋の罪』の神楽坂恵も新人(あるいはキャリアの乏しい女優)だった。どちらも脱ぎっぷりだけはよく、脱ぐことを求められる映画だからキャスティングに制約があるのは分かるけど、もう少しなんとかしてほしい(って、園監督は恵ちゃんと結婚しちゃったから、これからも彼女主演アリか)。役者さえよければ、どんな観念にも映画的なカラダを持たせられるものだけどなあ。

「帰途」は、やっぱり『空気人形』のほうがふさわしいと思う。主役の二人がそろってベネツィア映画祭で新人俳優賞を受賞した新作『ヒミズ』に期待しよう。


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November 20, 2011

岩手・宮城の旅(6) 名取

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a trip to Tohoku destroyed by the Tsunami(6)

名取へは仙台に住む友人Kさんに案内してもらうことになった。Kさんの車に乗り、仙台東部道路を南下する。この高速道路は海岸線から数キロのところを走っている。

地図を見ると、仙台から名取、亘理町にかけては、ちょうど房総の九十九里浜のような平坦な海岸線がつづいている。リアス式の三陸海岸とともに、今度の津波ではこの平野部でたくさんの犠牲者が出た。名取市では881人もの市民が亡くなったり、行方不明になっている。

東部道路は数メートル盛り土された上につくられている。津波がこの平坦な土地を襲ったとき、東部道路を境に海側と山側とでは被害に大きな差が出た。津波に追われ東部道路に駆けあがって助かった人もいる、とKさんが教えてくれた。

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高速道路を下りて仙台空港方面に向かう。TVの映像ではよく分からなかったけど、海から空港はごく近い。津波に襲われて1階が水没し、1200人の利用客や職員が孤立した。空港近くでは「売ビル」の看板を見た。

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まずは海に行ってみよう、と海岸線を目指した。松の防砂林を超えると数メートルの防潮堤があり、堤に上ると静かな海が見えた。

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海を見ていたカップル。

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堤を下り、陸側に向かって歩く。堤と防砂林の間にはコンクリートの基礎だけがいくつか残っている。ここにはどんな建物があったのだろう。神社の形をした焼き物にコップや皿が供えられている。

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別のコンクリート基礎に置かれていたウルトラマン人形。

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防砂林を超えると、津波が襲いすべてを流し去った平らな地面がどこまでも広がっている。遠くをトラックやダンプカーが走り、人影は見えない。

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近くに1軒、立派な和風の家が流されずに残っていた。手前の1階部分は波がもぎ取っていったらしい。

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10月にまとまった名取市の復興計画を読むと、海岸線と東部道路の間に二重の堤防をつくって津波を防ぐ計画だとある。1次防御は海岸の防潮堤。2次防御は海岸線から数キロのところにつくる堤防。

この家と、ここから見えるあたりは1次防御ラインと2次防御ラインの間に位置する。計画では、この地域には人が住むことは許されず、建てられるのは水産業などの産業施設のみ。そこで働く人を津波から守るためには津波避難ビルを建てる。

計画が実現すれば、この風景はこれからずいぶん変わることになる。

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地震によって地盤が沈下したんだろう。あちこちに水が溜まって沼のようになっている。水辺にススキや葦が群生している。

津波が去ったまま手がつけられていない風景を見ていると、ふっと豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)という言葉が口に出た。古来、列島はこんな葦原の地で、人はそこに手を入れ瑞穂(稲穂)の国にしてきたが、繰り返し襲う台風や津波はそれをまた葦原の地に戻してしまう。この数千年はその繰り返しだったのではないか。その何度目かの葦原の原風景に、いま立ち会っているのではないか。

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空港のほうへ戻ると、小さな社が残されていた。わずかに高くなった丘に建てられているので、津波にも耐えたのだろう。月山神社の分社らしい。Kさんとふたり、地震と津波の2万人に近い犠牲者に手を合わせて短い旅を終えた。


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November 19, 2011

岩手・宮城の旅(5) 塩竈

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a trip to Tohoku destroyed by the Tsunami(5)

仙台では市内でなく、近くの塩竈と名取に行くことにした。仙台市の海岸部は駅から遠く、車でないと移動できないけど、地図で調べると塩竈なら駅から港が近いので歩いて動くことができる。仙台空港のある名取は、地震発生直後に名取沖合から押し寄せた津波が陸を襲い、家々やビニールハウスや車を飲み込んでいくのをNHKのヘリが上空から捉えていて、その映像が頭にこびりついていた。

朝、仙台駅から仙石線に乗って本塩釜の駅で降りる。

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駅も津波でやられていて、1階部分は工事中。名古屋から贈られた寄せ書きが貼られていた。

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駅前に出ると、すぐに津波で壊されたままのビルが目につく。歩いていたおばさんに聞くと、津波は激しい波というより「じわっと上がってきた」というが、塩竈市全体で47人の犠牲者を出している。

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津波から8カ月の商店街を歩いてみると、営業している店、工事中の店、閉まっている店、津波でやられたまま放置されている店、すでに取り壊され更地になっているところなど、復興もまだらになっている。それぞれの店にそれぞれの事情があるに違いない。そのひとつひとつの事情を汲みながら全体としてどう復興させるのか、自治体の大きな仕事だろう。時間がたてば、まだら模様はいよいよ進むから、時間との戦いでもある。月並みだけど、「頑張って」と声をかけたくなる。

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駅から5分ほど歩くと、塩釜湾のいちばん奥のあたりに出る。津波で壊されたモーターボートや船が十数艘、打ち捨てられていた。

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さらに歩いていくと、操業していない造船所があった。人の気配はなく、あたりは静まりかえっている。手前には津波以来こうなったのだろうか、水が溜まっている。

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造船所に近づくと、1階は津波にやられている。

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造船所から魚市場のあるほうへ歩いていくと、地震と津波でつぶれたままの二階屋があった。3日間、被災地を歩いてきたけれど、こんな状態で放置されている家を見たのは初めてだ。どんな事情があるのだろう。想像すると胸ふたがれる。

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近くに捨てられていた畳。

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海岸線に沿って、復興のためにつくられたのだろう工事車両用の道路がつづいている。

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塩竈は鮨屋が多く、駅には鮨屋マップも置いてある。駅に近い「しらはた」が営業していたので、「今、ここでしか食べられないのは?」と聞いたら、鯖を握ってくれた。この日の朝採れたもので、ごく浅く締めてあるだけで生鯖に近く、とろりと甘い。

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しっかり締めた〆鯖にはそれなりの旨さがあるけど、ここはこういうふうに食べられる。その日に出るだけの鯖しか仕入れず、余ったら捨ててしまうんですよ、と板さん。まだ営業していない鮨屋もあるけれど、ここは震災から2カ月たたず4月29日に店を開けたという。

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November 18, 2011

岩手・宮城の旅(4) 久慈から八戸へ

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久慈も津波に襲われたけれど、市街地は無事だったため犠牲者は多くなかった。死者4人、全壊家屋324棟。

「この町は2本の川に挟まれてるんだけど、合流点で津波が二手に分かれたのがよかったかもな。でも堤防があふれるまであと30センチで、もう少し高かったらここもやられてた」と宿のおやじさん。被害が大きかったのは市街地を出て石油備蓄基地のあたりだというので、そちらへ行ってみた。

ここには国の石油備蓄基地がある。備蓄施設自体は地下にあるので無事だったが、付属の建物に被害が出た。接岸していた船が建物に乗り上げたという。基地の前には、岸壁水路のブロックがころがっていた。

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備蓄基地近くの造船所にも被害が出た。放置されたままの瓦礫のかたわら、盛り土で地盤を高くした上に新工場が建設されている。

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市街地に戻り久慈川を渡ったところに久慈港がある。被害は大きくなかったようで、市場は普通に動いている。今の季節はイカ漁が盛ん。

港の近くには大きな郊外型ショッピング・センターができ、スーパー、家電量販店、本屋、レンタル・ビデオ、衣料品店、雑貨の店、レストランなどが入っている。毎日の買い物はこちらに来ることが多くなった、とタクシーの運転手氏。町の中心が港の新開地側に移動している。

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対照的に、駅前はシャッター街になっている。その名も「駅前デパート」には、2階より上に店が入っていないようだ。広くて立派な駅前通りも閑散としていて、ぽつぽつとシャッターの下りた店がある。

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バスを待つ間、駅前通りを歩いていて小さな陶磁器の店「ギャルリ・シエスタ」を見つけた。普段使いの洒落たマグカップや食器が置いてある。点数が少ないし、素人っぽいレイアウトだなと思ったら、まだ10月にオープンしたばかりだそうだ。

「地震で陶磁器が壊れた人が多いんで、好きだった器の店を始めたんですよ」と、店主の若いお母さん。店主がやっているブログを拝見すると、実家が津波で流されたとのこと(ご両親は無事だった)。その直後に息子さんが生まれ、今は「子育てしながら、のんびり営業」。地元の小久慈焼などの品揃えが間に合わず、年末までにはもっと充実させますという。

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店主のセンスが滲み出る器のなかから、地元の若い陶芸家・泉田之也の中皿を買った。泉田は伝統的な小久慈焼の窯で修業して独立し、昨晩通った野田村で「のだ窯」を開いている。肌の黒い素焼きの器が特徴らしい。その黒い肌の半分に小久慈焼の飴釉をかけたもの。

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JR八戸線は久慈駅から種市駅までが津波で不通になっている。午後0時13分発のJR代行バスに乗る。途中、陸中八木駅は海のすぐそばの駅で、駅舎が流され建設中だった。

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小さな川を渡る橋梁が線路ごと流されている。陸中八木~宿戸間。

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種市駅でバスを降り、午後1時39分発八戸行きの列車に乗り換え。

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車窓風景。海岸線から離れ、海が見え隠れする高台を走る。

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湾の向こうに工場や町並みが見えてきた。もうすぐ八戸だ。八戸から新幹線で仙台に出て、今日は仙台泊まり。 

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November 17, 2011

岩手・宮城の旅(3) 陸中野田から久慈へ

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a trip to Tohoku destroyed by the Tsunami(3)

田老には無論泊まるところなどない。宮古の宿が取れなかったので盛岡まで戻ることも考えたけど、同じ道を帰るのもつまらない。三陸鉄道と代行バスを乗り継いで久慈まで行けば宿があることが分かったので、久慈を目指すことにした。

田老駅午後4時33分発、小本行きの列車。宮古に通っている高校生が何人か降りてきて、乗るのは僕と田老にある高校の女子生徒2人。

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小本駅で代行バスに乗り継ぐ。ここから陸中野田駅までは津波にやられて鉄道が動いていない。バスはひたすら真っ暗な山の中を走る。陸中野田駅が近づき海が見える道に出たらしいけれど、暗くてなにも見えない。

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終点の陸中野田駅。小本駅で乗るときは5人ほどいた乗客は僕1人になっていた。

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道の駅が店じまいしていたのを、ちょっとだけ見せてもらう。

野田の特産は塩。海水で塩をつくり、内陸に運んで売ることで成り立っていた村だという。今は「のだ塩」として人気があると、お姉さんが教えてくれた。

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ところが塩をつくる「のだ塩工房」が津波で流されてしまった。そのために売る製品がなく、味見のための塩だけが一升枡で置いてある。舐めてみると甘い。
「ミネラルが豊富だからおいしいでしょ」
来年1月には高台に再建中の工場が完成するそうだ。

野田村は津波で2桁の大きな犠牲者を出した北端の場所になる。死者37人、全壊家屋308棟。「この道の駅のすぐ前まで水が来たんですよ。町はすっかりやられてしまって」と、お姉さんの顔が曇る。

列車まで30分ほど時間があったので、線路の下をくぐって港のほうに少しだけ歩いてみた。街灯もなく真っ暗で、道の両側にはただ野原が広がるだけ。ずっと向こうに広い道路があるらしく、車のライトが動いている。果たしてここが津波でやられた場所なのか、もともと野原だったのかも分からない。荒涼とした気配にそれ以上歩く気力をなくし、早々に駅に戻った。

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陸中野田駅のホーム。高校生が列車を待っている。

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陸中野田駅午後7時発の久慈行き「復興支援列車」。

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久慈に着いたのは7時半。到着が遅いから夕食は用意できないと言われていたので、宿のおやじさんに教わって近くの店へ。サンマとソイの刺身、白魚の唐揚げ、アサリ雑炊。どれも地元の魚介で、旨い。

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外へ出ると月が出ていた。


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November 16, 2011

岩手・宮城の旅(2) 田老

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ほとんど人影のない田老の無人駅を降りると、目の前を国道45号線が走っている。トラックやダンプカーの往来が激しい。

国道を渡って町のなかへ入っていく。海側には防潮堤があり、この地域は堤によって守られていたはずだけれど、そこに広がる風景に息を飲んだ。家々がコンクリートの基礎だけを残して、なにもかもが消えている。遠くに3階建てのビルが2つ、見えるだけだ。津波は高さ10.7メートル(海面から)の防潮堤を超えて家々を呑み込んでしまった。

後で聞くと、今回の津波は明治と昭和の2度の津波より大きく、20メートルに達したという。「ほらあそこに4階建てがあるだろう。あの屋上のところまで来たんだよ」と、港の漁師が話してくれた。

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遠くに見えたビルに向かって歩く。このビルは元農協、最近はタクシー会社の所有になっていた。そばまで行ってみると、1階部分がきれいになくなり、向こうの景色が素通しで見える。おそらく2階も滅茶苦茶になっているだろう。

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田老は場所によって防潮堤が二重になっている。昭和8年の津波の後で建設が始まり、戦後に960メートルの堤防が完成したが、その後、さらに新しく全長1.3キロの防潮堤がつくられた。港のそばの防潮堤は古いものだろうか、盛り土に鉄筋の入っていないコンクリートづくりだったため、鉄扉の出入り口を残して津波によって破壊されてしまった。

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田老港。水揚げし、セリの行われる市場の建物は壊れたままだ。

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市場近くで漁師が集まって作業していた。聞くと、若布の種を植えているんだという。種を植えたロープを海に入れて養殖すると、来年の春には若布が獲れる。若布をやっている漁師だけでなく、ほかの漁師も手伝いにきてにぎやかにやっている。何人かに津波のことを聞いた。

「地震が来たから、すぐに船で沖に出た。津波が引いて港に戻ったらなんにもなくて、夢のようでもあり地獄のようでもあったな」
「地震が来て高台に逃げた。振り返ったら家が1軒もなくて、まるで地獄みたいな」

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全員で記念写真。頼まれてシャッターを押したついでに、こちらも1枚撮らせてもらう。近くの仮設に暮らしている人が多い。「来年の春には若布が獲れるから、そのころまた来てよ」

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再び防潮堤を超えて、町の中心部へ歩く。高台にある家や学校や市役所支所は助かったけれど、こちらも道路と基礎だけの平坦な風景。ぽつりぽつりとプレハブが建つ。

今回の津波で田老地区では184人の人々が亡くなり、あるいは行方不明になった(全壊した家屋は1609軒)。宮古市全体の死者・行方不明者は525人だから、田老地区の被害がとりわけ大きかったことが分かる。もっとも明治29年津波の田老の犠牲者1859人、昭和8年の911人に比べれば、犠牲者の数はぐっと減っている。津波に超えられたとはいえ二重の防潮堤があったこと、津波の恐ろしさについて言い伝えや教育が徹底していたことがこの数に表れているのかもしれない。不幸中の幸いだった。

明治と昭和の津波、そして戦後のチリ地震津波について体験者の証言を集めた吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫)のなかでも、吉村は三陸海岸の防潮堤に強い印象を受けたことが本を書くきっかけになったと、こう書いている。

「三陸沿岸を旅する度に、私は、海にむかって立つ異様なほどの厚さと長さをもつ鉄筋コンクリートの堤防に目をみはる。…その姿は一言にして言えば大袈裟すぎるという印象を受ける。
 或る海辺に小さな村落があった。戸数も少なく、人影もまばらだ。が、その村落の人家は、津波防止の堤防にかこまれている。防潮堤は、呆れるほど厚く堅牢そうにみえた。見すぼらしい村落の家並に比して、それは不釣合なほど豪壮な構築物だった。
 私は、その対比に違和感すらいだいたが、同時にそれほどの防潮堤を必要としなければならない海の恐ろしさに背筋の凍りつくのを感じた」

吉村昭が抱いた「違和感」は、33年前に僕が田老を訪れたときに感じたものでもあった。自然の風景を寸断してつくられた人工の巨大構築物。それがあったことで犠牲者の数を減らしたかもしれないとはいえ、結局のところ、自然の脅威の前に無力だった。鉄扉を残して無残に壊れた堤防を見ていると、人間の「科学的」な「想定」などというものがいかに無力かを思ってしまう。

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田老の平坦な地区は山に向かって5分も歩けば尽きてしまう。家屋が流されるか無事だったかの境になった高台の縁まで行くと、学校から子供たちが坂道を下りてきて、同じ方向に歩いていく。

「どこ行くの?」
「これから学童」
「写真撮ってもいい?」
「いいよ」
「手に持ってるの、なに?」
「これね、カブトムシ飼ってたんだよ」

黄色い帽子の少年がしゃがんで紙パックを引っくり返し、中の土を出して見せてくれた。この季節、パックのなかにもうカブトムシはいない。いなくなっても、パックだけ大事に取っておいたんだろう。

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コンクリートの基礎をまたぎながら歩いていると1軒のプレハブがあり、軒先の赤白青の「くるくる」に灯りがついて動いている。営業してるんだ。中をのぞくと店主と客が1人、待合の椅子に座って談笑していた。

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床屋から数十メートル歩いたところに、「田老ふるさと物産センター」と書かれたプレハブがあった。のぞいてみたけど、商品らしきものはない。

「何か売ってるんですか?」
「いや、なんにもない。これからだな。あと10日もすれば鮭が上がるから、それを加工して荒巻鮭を売るよ」

田老で買えるものがあれば買いたいと思っていたけど、ということで何も買えなかった。床屋も行ったばかりだったし…。

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少し離れた海寄りの地区にはまだ瓦礫が積んである。車や鉄筋、木造物などに分別してあり、ブルドーザーやクレーン車が動いているけど、処理にはまだ時間がかかりそうだ。夏を越した車の残骸には、こびりついた土から草が生えている。

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太陽が山の陰に隠れると、急に寒くなってきた。小本行きの列車は午後4時33分。駅に向かって防潮堤を歩く。雲間から一条の光が射してきた。

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November 14, 2011

岩手・宮城の旅(1) 田老へ

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田老へ行きたいと思っていた。

東日本大震災の地震と津波で大きな被害を受けた地域のうち、僕が行ったことがあるのは仙台、宮古、田老(現在は宮古市に編入)の3カ所。そこがどうなったのか、報道を見ながらずっと気にかかっていた。震災直後に行くのはためらわれたし、そのうち体調を崩して夏がすぎ、秋も深まってきた。これ以上延ばすと本格的な冬になってしまう。そこで予定をぐんと短くして2泊3日の旅に出ることにした。

震災から8カ月たち、被災地もずいぶん変わっているに違いない。ボランティアでもなく取材でもない旅で、さまざまに報じられている以上のことが分かるとも思えない。でも、やっぱり今のうちに見ておきたい。その風景を肉眼で見、空気を感じ、地元の人と言葉を交わすことで、自分のなかに情報やデータでないものとして今度の震災を記憶しておきたい。

そんなことを考えながら11月8日、盛岡駅で午前11時4分発のJR山田線宮古行き快速リアス号に乗った。

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山田線は盛岡と釜石を結ぶローカル線だけど、宮古─釜石間は今も不通。盛岡─宮古間に日に4本の列車が走っている。2両連結の列車が走りはじめると、車窓には秋の紅葉が広がる。乗客は1両に5人ほど。

東北新幹線の福島~仙台あたりでは、8カ月後の今も屋根を青いシートで覆った家がぽつぽつ見えたけれど、盛岡あたりは地震の揺れもさほど大きくなかったのだろう、ほとんど目立たなくなる。山田線沿線は、地震も津波もまったく感じられない風景がつづいている。

3月11日に地震と津波があったとき、友人の住む仙台とともに気になったのは田老のことだった。ニュースに注意していたけれど、当日も翌日も田老については何も触れられない。あれだけの備えがあるんだから、大丈夫だったに違いない。そうも思った。でも、その翌日だったか、田老の町が全滅したというニュースが入ってきた。大丈夫だったのではなく、情報が途絶えていたのだ。

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田老に行ったのは30代のはじめ、週刊誌の記者をしていた1978(昭和53)年のことだった。

その週刊誌には「終着駅のあるまち」という2ページの連載記事があった。編集部員が旅に出て、ごく短い記事を書く。まだ牧歌的な時代で、毎週忙しくしている編集部員が交代で息抜きするための、いわば「お遊び」ページだった。

どこへ行くかは、部員に任されている。当時、僕は「港町ブルース」という歌が好きだったから、♪宮古、釜石、気仙沼~などと口ずさみながらそのあたりの地図を眺めていたら、田老という地名が目に入ってきた。そのころ国鉄は久慈と宮古を結ぶ路線を計画して北と南から建設を進めていたが、宮古から北へ伸びる宮古線の当時の終着駅が田老という駅だった。どんな町なのか。ここに行ってみよう。

というわけで、僕は何の知識もないまま、遊び気分で田老へ行くことになった。1896(明治29)年、1933(昭和8)年、1960(昭和35)年(チリ地震津波)と、3度も大津波に襲われたことなどちっとも知らない能天気だった。

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探したら当時の記事が出てきた。短いものなので書き写してみようか。

「ここは港町だというのに、田老の町なかからは港も、水平線も見えない。多くの人々が漁に出ているというのに、町のなかでは、網を広げて干す光景も、庭先に漁具が雑然と積み重ねられているあの見慣れた風景もない。日本中どこの漁村にも漂っている共通の匂いがない。そのかわりに目立つのは、ここ5年から10年の間に新築されたらしい色とりどりの文化住宅の群ればかりだ。
 町と、そこからは見えない海とを隔てているのは、町全体をすっぽりと囲む形の、高さ10メートル、全長3キロに及ぶコンクリートの防波堤だ。その堤の何カ所かにある5メートル四方ほどの鉄の扉をくぐると、初めて海草の乾燥場と港と水平線とが見える。
 明治29年津波 死亡1859人
 昭和8年津波 死亡911人
 防波堤の理由はここにある。
『寒い朝でねえ。波が引いた湾には家がプカプカ浮いてたよ』
 夕刻、堤の上を散歩していたじいさんは昭和8年の記憶を語った。防波堤は、通り過ぎゆく者の感傷など許さぬかたちで連なっている」

遊び気分の「旅もの」を書くためにやって来たのに、旅情の感じられない風景にとまどっているような文章だなあ。直近のチリ地震津波についての記述がないのは、限られた行数のなかで、防潮堤に守られて死者も家屋の被害もなかったので触れなくてもすむ、という判断だったろうか。よく覚えていない。当時の宮古線についてもメモを書いているので、ついでに。

「国鉄宮古線(12.8キロ) 昭和47年2月に開業、1日に8本が走る。利用客は日に約530人。1両で宮古以外の3駅は無人駅。途中の駅では、雨ざらしのホームの下で白塗りの廃バスが待合室になっている。将来は八戸からの八戸線、久慈線とドッキングする予定」

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三陸鉄道宮古駅。JR宮古駅と隣り合せになっている。

当初、宮古に泊まってこことその周辺を見たいと思っていたのだが、宿が取れない。何軒かの旅館とビジネスホテルが営業しているけれど、宮古は三陸海岸復興の基地になっているらしく、どこも年末までいっぱいだという。残念だけど泊まるのをあきらめ、駅前を素通りするだけにした。

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かつての国鉄宮古線、現在の三陸鉄道北リアス線。宮古駅13時10分発の「復興支援列車」。途中の小本駅まで、日に4本運行している。海岸線を通る小本駅から陸中野田駅までは津波にやられ運休中。代行バスが走り、陸中野田駅から久慈駅までは日に8本運行している。

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2両連結の列車には20人ほどの住民や学生のほか、「復興支援観光」の十数人が乗っている。宮古に泊まり、市場で買い物をして、小本まで行くのだという。小本まで往復するだけでも、復旧をめざす三陸鉄道をささやかながら支援することになる。

北リアス線はトンネルつづき。トンネルから出たと思うと駅があり、駅を出るとまたトンネルに入る。

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トンネルを出たと思ったら田老駅に着いた。降りたのは住民・学生数人と僕。高台にあるホームから海のほうを眺めると、工事現場のような赤茶けた土地が広がっていてブルドーザーやクレーン車が動き、その向こうに静かな海が見える。

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November 10, 2011

ある民家の肖像・廊下

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a passage way of Japanese wooden house

ずっと中断していたphoto albumの「ある民家の肖像」。デジタル一眼レフを買い換えたので、テスト代わりに再開してみた。

このブログに載せる写真のほとんどはコンパクト・デジカメで撮っていて、一眼レフはたまに仕事で使うだけ。これまで使っていたのはごく初期のモデルで、800万画素と今では携帯のカメラより画素数が少ない。かつてのパソコンと同じで、進化途上のデジタル製品はあっという間に古代の遺物みたいになってしまう。久しぶりに最新のモデルを触ってみると、以前のとはボタンの位置や設定がだいぶ違う。慣れるまで時間がかかりそう。

写真は廊下の奥から玄関を見たところ。右が8畳の居間で左がやはり8畳の寝室。

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縁側の廊下。板張りの上に畳表の薄敷きを敷いている。これからの季節、昼間はここがぽかぽかと暖かい。読書には最高の場所になる。

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November 06, 2011

『ウィンターズ・ボーン』 冬の死体

Winters_bone
Winter's Bone(film review)

映画にはいろいろな楽しみ方があるけれど、そのひとつは、映画でなければ生涯行かないような場所と、そこで暮らす人々に出会えることだろう。もちろん映画はフィクションだけど、リアルさを求める作品なら、大なり小なりその地域と住民の存在を反映しているはずだから。『ウィンターズ・ボーン(原題:Winter's Bone)』もそんな映画だった。

舞台はミズーリ州のオザーク高地。僕は1年間アメリカにいて旅行もしたけれど、ミズーリのオザーク高地なんて名前も知らなかった。ミズーリは中西部と呼ばれる合衆国中央部にあり、中西部といえば一面の穀物畑が広がる大平原というのが一般的イメージだから、こんな山の暮らしがあることを映画で初めて知った。

17歳の少女リー・ドリー(ジェニファー・ローレンス)の家は父親がドラッグ製造の罪で収監され、彼女が精神を病む母と12歳の弟ソニー、6歳の妹アシュリーの生活を支えている。そこへ保安官がやってきて、保釈された父が行方をくらまし、このままでは保釈金の担保になっている家と森を明けわたすしかない、と告げられる。リーが父親を捜しはじめるのが映画の発端。

リーは伯父ティアドロップ(ジョン・ホークス)の家へ行くが、首をつっこむなと脅される。そこには近づくな、と警告された家に行くと、邪険に追い返される。誰もが父親について聞かれるのを嫌う。どうやら父は村ぐるみのドラッグ製造組織の一員で、村のおきてを破ったらしい。

『ウィンターズ・ボーン』はオザーク高地のオール・ロケで撮影され、地元民も出演しているという。リーの家をはじめ、村の貧しさに胸を打たれる。どの家も開拓時代と変わらない粗末な小屋。寒い冬を迎えるのに、食料も薪も足りない。隣家の主婦が見かねて、シチューにしなさいと野菜をもってくる。肉は森で捕えるシカかリス。リーは弟のソニーに銃の撃ち方を教えながらリスをしとめ、皮の剥ぎ方、内臓の処理の仕方も教える。

リーの家が森を持っているということは、かつては林業もしながら自給自足的生活を営んでいたのだろう(リーは、森を取られる前に樹齢100年の木を売れとアドバイスされる)。ところがそれでは生活が成り立たず、村ぐるみでケシ栽培とドラッグ製造に走った、という設定になっているらしい(説明的なセリフがほとんどないから、推測)。村人たちはドラッグをつくりながら、自らも中毒になっている。製造組織のボスは牛の牧畜業者。ミズーリは牧畜業が盛んだから、そんな現実を背景にした設定だろう。

デブラ・グラニック監督の長編第2作。説明的な描写を避け、リーの行動を追うことで謎が解けてくるミステリーのスタイルもいいし、オール・ロケで撮影された山村の寒々した風景や、灯りのない室内がリアル。タイトルがそこから来ているらしい、夜の湖で死体(bone)の文字通り骨を切るシーンはじめ、沈んだ調子の画面が見事だ(撮影はマイケル・マクドノー)。

それ以上に素晴らしいのが、リーになるジェニファー・ローレンス。『あの日、欲望の大地で』のジェニファーはかわいい少女だったけど、この映画では家族を支え、暴行されてもひるまない精神を備えた大人びた少女を演じている。彼女の魅力があればこそ、この重く暗い映画が輝いて見える。

アメリカの貧困と犯罪という暗部に目を向け、オール・ロケで製作費を抑えるとともにリアルさを求める。インディペンデントらしい映画(wikipediaによると製作費200万ドル)。もっともリーという少女の造型は、ラストで「無茶したな」という言葉に「ドリー家の人間だもの」と答えさせたり、西部劇の伝統を踏まえたいかにもアメリカ人好みだと思う。


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November 04, 2011

村越としや展「FUKUSHIMA」

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Murakoshi Toshiya photo exhibition

蔵前の長応院という寺のなかにギャラリー空蓮房がある。住職が鍵を開けてくれた扉と中の潜り、2度にわたって茶室の躙口(にじりぐち)のような入口を身をかがめて潜りぬけると、8畳ほどの閉ざされた空間がある。漆喰なのか別の素材なのか、床も壁も真っ白。身をかがめる動作、上下左右を白色に囲まれる体験、そこにいるだけで五感が日常を離れてゆくのが感じられる。ここでは年に数回、写真展や美術展をやっている。

今やっているのは村越としや「FUKUSHIMA」(12月10日まで。要予約)。福島出身の村越が、3.11の前と後に故郷を撮った写真で構成されている。

入口すぐの広い空間に展示されているのは、3.11前の風景。といって特別なものが写っているわけでなく、どことも区別がつかない農村風景や森や山並みが横長の紙に暗い調子でプリントされている。奥の狭い空間に展示されているのは3.11後の風景。ここでも村越は地震の被害をことさら強調することなく、野に放たれたままの牛など、一見なんでもない風景を撮影している。

とりあえず「前・後」という展示になっているけれど、そこに過大な意味を持たせているわけではないらしい。ふつう写真家なら、写真に写らない放射能を絵としてどう表現するかに苦心するものだけど、村越はそのことにも興味がなさそうだ。とはいえ3.11の前と後で、福島の風景はなにかが変わっている。その見えないなにかに、村越は目をこらしているように思える。

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November 03, 2011

2日続けてジャズ・ライブ

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Kanna Hiroko & GHQ jazz live

ニューヨークで大変なお世話になったジャズ・シンガー、カンナ・ヒロコさんが里帰りしてライブをやったので万難を排してかけつける(11月1日、本郷・東京倶楽部)。

スタンダードを歌っても、3年前にニューヨークで聞いたのとはずいぶん変わった。うまく年輪を重ねているのを感ずる。新しい歌も数曲。なかでもジョン・コルトレーンのブルース「センターピース」がよかった。

バックは、彼女の日本でのライブにいつもつきあう嶋津健一(p)と加藤真一(b)に、最近アメリカから帰国した斉藤純(ds)が加わったトリオ。嶋津・加藤は長いコンビだけど、斉藤とは初の顔合わせだ。ジャズメンは会ったその日に演奏することも多いから、互いの力を探り合ってばちばち火花が散る。嶋津のオリジナル「ビビッときた時」はじめ、トリオだけの演奏は伴奏のレベルを超えていた。

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翌日はゴッド・ハンズ・カルテット(GHQ)へ(11月2日、六本木・アルフィー)。多田誠司(as)、鈴木央紹(ts)、井上陽介(b)、江藤良人(ds)。

アルトとテナー、2本のサックスでぶりぶり。多田誠司を聞くのは初めてだけど、艶のある音。井上陽介のベースがスイングしていた。

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