『エッセンシャル・キリング』 アフガン版「地獄の黙示録」
Essential Killing(film review)
ヘリコプターの翼が回転する音がかすかに聞こえてくる。それだけで何かが起こる予感がしてしまうのは、『地獄の黙示録』とか『ブラッド・ワーク』とか、冒頭でヘリの音を効果的に使った映画を何本も見ているからだろう。
暗い画面がフェード・インすると、白茶けた岩山の連なりを俯瞰する上空からの映像。乾燥しきった、白く鋭い岩山の稜線が連なる。『127時間』のユタ州の赤い岩山の風景もすごかったけど、こちらの真っ白い岩山は、もっと不穏で不気味だ。画面のなかに、岩山の上を飛ぶ米軍ヘリが入ってくる。岩山に入った亀裂の底の谷を白いアラブ服を着た男が逃げている。
魅惑的な映像と音で示されるのは、追う者と追われる者という最も単純なアクション。これからなにが起こるのか、わくわくしてしまう。こういう瞬間を味わえるのが、映画の最高の楽しみだね。もっとも、『エッセンシャル・キリング(原題:Essential Killing)』は、そこから普通のアクション映画のようには展開しない。
監督のイェジー・スコリモフスキがこの映画のアイディアを思いついたのは、前作『アンナと過ごした4日間』のロケハンで故国ポーランドにいたとき、故郷に近い飛行場を米軍が中東のアラブ人捕虜を移送するのに使っていたのを知ったこと、そして飛行場近くの雪道で車がスリップし道路から飛び出す事故を起こしたことからだったらしい(wikipedia)。
なるほどね。そういう日常的な出来事や捕虜移送のニュースから、並みの監督なら中東とヨーロッパを結ぶ政治的テーマの映画を発想しそうなものだけど、そんな政治性や社会性を持った映画でもなく、アクション映画でもなく、こんな奇妙にねじれた映画をつくりだしてしまうのがスコリモフスキのオリジナルな才能なんだろうな。
映画は、アラブ人テロリストらしいムハンマド(ヴィンセント・ギャロ)がアフガニスタンで米軍ヘリに追跡され、捕虜になるところから始まる。捕虜になったムハンマドは、アルグレイブ刑務所を思わせる虐待を受けた後、輸送機に乗せられヨーロッパへ移動させられる。ムハンマドは着陸した飛行場でトラックに移されるが、そのトラックが雪道で谷へ転落し、そこから生き残ったムハンマドの無言の逃避行が始まる(ヴィンセント・ギャロはこの映画で一言も発しない)。
米軍のヘリと兵士に追われたムハンマドは、ひたすら逃げる。でもその「追う・追われる」アクション映画が、途中から別のものに変わってゆく。アフガン戦争についても虐殺の描写以上には何も言われず、映画はそこから逸れてゆく。
米軍の追跡をふりきったムハンマドは、生きるために雪深い森のなかをさまよう。藁小屋で寝込み、朝、目覚めたムハンマドは寄ってきた鹿と目を合わせる。彼は鹿を殺さず、その瞬間、人間と人間の「追う・追われる」劇は終わり、同時に映画はリアリズムというより、どこでもない世界の話に変貌してゆく。それはまるで『地獄の黙示録』が、ベトナム戦争のリアルな設定で始まりながら、途中からメコン河をさかのぼることが精神の「闇の奥」(コンラッドの原作の題名)を探る劇に重なっていったことに似ている。
ムハンマドがさまよう森は、彼自身にもそこがどこか分かっていないけれど、固有の名前を持った森ではなくなってしまう。ムハンマドも、名前のないひとりの男になる(ムハンマドという名はHPを見て書いているんだけど、そもそも映画の中で男はムハンマドと明示されていなかったように思う)。というより、ひたすら生きようとする一匹の野生の生きものになる。
男は、食べ物を求めて、わずかな木の実だけでなく、アリや木の皮まで食う。出会った男を平気で殺しもする(それをエッセンシャル・キリングと呼んだのだろう)。乳飲み子を連れた農婦の乳房にくらいついて乳を吸ったり、釣りをする男から魚を奪ってあたふた逃げる滑稽な動物のような姿もさらす。野犬に囲まれるが、野犬は彼を同類と認めたのか、攻撃しようとせずに去ってゆく。ケガをして、兵士から奪った白い防寒服に赤い血が滲んでいくさまは、まるで白い毛皮の動物が血に染まっていくようにも見える。
そして、いきなり女(エマニュエル・セニエ)との出会いがある。家の窓の外に傷ついたムハンマドを見つけた女は、ムハンマドを家のなかに入れて介抱する。リアルな映画ではなくなっているから、女がなぜ男を無防備にも家に入れたのかは説明されないけれど、男と女のぎこちない愛の表現は、『アンナと過ごした4日間』と同質の女性への偏執を感じさせなくもない。
男を休ませた女は、朝、白馬に乗せて男を逃がす。ここでもまた、白馬が男が流す血で赤く染まる。白(岩山の白、雪の白、防寒服の白、白馬の白)と赤(流される血)は映画を通じてたびたび出てくる。もっとも、そんな色の意味や、白馬の象徴性や、女の登場について、無理に解釈をしようとしても、あまり意味がないように思う。
『地獄の黙示録』のような、あるいはタルコフスキーのような完成度はないけど、スコリモフスキってヘンな奴で、こうしたかったんだ、と思うしかない。たとえつじつまが合わなくても、説明不能でも、画面からオーラがただよっていて、真っ白な岩山や雪の風景に心奪われるなら、エマニュエル・セニエの成熟した美しさにうっとりできるなら、あるいは農婦の巨大な胸にくらいつくヴィンセント・ギャロに笑えるなら、映画はそれでいいんだと思う。
ロケはイスラエル、ポーランド、ノルウェーで行われている。零下20度の雪のなかを素足で(しかも無言で)頑張ったヴィンセント・ギャロはアラブ人には見えないけど、スコリモフスキは、「カリフォルニアからアルカイダに参加したアメリカ人もいたじゃないか」と意に介していない。
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