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August 27, 2011

『シャンハイ』 半分の満足

Shanghai
Shanghai(film review)

『シャンハイ(原題:Shanghai)』は、昔よく見たプログラム・ピクチャーの楽しみ(?)を思い出させてくれたなあ。

僕がよく見てたのは1960~70年代の東映任侠映画や大映の座頭市だけど、プログラム・ピクチャーは見る前からだいたいこんなもんだろう、と見当がついてる。ジャンルごとの定型的なストーリー。お約束のアクションとサスペンス。男らしい男と女らしい女の恋。

ストーリーがどう展開し、どういう結末になるのか、およそ分かっていながら、好きな役者が男らしい男(女らしい女)を演じて感情移入できれば満足できるし、前作とのわずかな差異をマニアックに喜んだりもできる。予想どおりの結末でも、それなりにカタルシスを得たりする。

プログラム・ピクチャーも時に類型に徹することでそれを突き抜けた『総長賭博』や『遊侠一匹』みたいな傑作が出るけれど、そんな映画にはおいそれとぶつからない。たいていは、やっぱりだめだったという半分ほどの不満と、好きな役者を見、多少のカタルシスを得た半分ほどの満足とを抱えて中途半端な気持ちで映画館を出ることになる。でも、また見にきてしまうんだろうな、と思いながら。

『シャンハイ』も、似たような気持ちで映画館を出た。

日米開戦前夜の上海。同僚で親友でもある米国諜報部員コナー(ジェフリー・ディーン・モーガン)に呼ばれて、ポール(ジョン・キューザック)がドイツからやってくる。その夜、コナーは殺される。彼が探っていたのは、日本軍とつながる上海裏組織のアンソニー(チョウ・ユンファ)。ポールはカジノでアンソニーの妻アンナ(コン・リー)に出会い、惹かれてゆく。コナーの愛人スミコ(菊池凜子)は麻薬中毒の娼婦で、現地日本軍を指揮する田中大佐(渡辺謙)の愛人でもあった……。

コン・リーを挟んだジョン・キューザックとチョウ・ユンファ、菊池凜子を挟んだ渡辺謙とジェフリー・ディーン・モーガン、ふたつの三角関係の愛が錯綜し、抗日レジスタンスや真珠湾攻撃をめぐる情報戦がからむ。スパイ・サスペンスの定型どおりの設定。うまくつくれば、面白い映画になるだろうな。

監督(ミカエル・ハフストローム)・脚本・撮影のスタッフになじみはないけど、好きな役者が出ているんで見る気になった。コン・リーはデビュー以来けっこう追っかけてるし、『グリフターズ』や『ハイ・フィデリティ』のジョン・キューザックも好きな役者だ。チョウ・ユンファは『男たちの挽歌』の記憶が鮮烈だし、渡辺謙もハリウッドで頑張ってる。

結果、映画の出来はいまいちでした。サスペンスなのに緩急に乏しく、平板な印象。映画としては不満だらけだけど、でも1940年代の「魔都」上海を再現した大がかりなセット(バンコクで撮影)と役者たちを見られたことに半分だけ満足して映画館を出た。

半分だけと言ったのは、サスペンスとしての出来が悪いので結果として役者も生きてないから。もともとジョン・キューザックは頼りなげな風貌が持ち味でヒーロー顔じゃないけど、それにしても花がない。コン・リーははっとするショットはいくつかあったけど、ファム・ファタールとしての魅力に欠ける。『2046』あたりから、さすがに年とったなあと感ずることが多い。渡辺謙も単純な敵役でなく、ジョン・キューザックと男と女の哀しさについて語り合うシーンもあるけど、『硫黄島からの手紙』に比べるとハリウッド描く日本軍将校の類型を出てない。チョウ・ユンファもいまひとつ印象に残らない。

いかにもの設定で、役者も揃っているのに、映画がつまらない。これ脚本と演出の責任でしょうね。などと言いつつ、ひいきの役者を見られただけで半分満足してしまうのが、ファンというものでしょう。


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August 24, 2011

『ツリー・オブ・ライフ』 Godとの対話

Thetreeoflife
The Tree of Life(film review)

テレンス・マリックの映画を僕は『シン・レッド・ライン』しか見てないけど、ガダルカナル島の日米両軍兵士の激闘を主題にしながら、テーマそのものより彼らを取り巻く自然の映像が圧倒的だった。暗いジャングルに差し込む強烈な光や、一面の草原とそこに住む小動物、海のうねりなんかが、死にゆく兵士たちの傍らにあった。

人の生き死にと、それを黙って見ている自然。そんな構図は『ツリー・オブ・ライフ(原題:The Tree of Life)』でも変わらない。でもここでは主人公の身の周りの自然だけでなく、遥かに時間をさかのぼって生命や地球の始原にまで旅するパートが大きく差しはさまれる。

親子の葛藤という誰もが経験する身近な問題から、神を経由して一気に生命や地球の始原へ。あまりに飛躍しすぎで、そこまで行ってしまうかとは思うけど、それを楽しめなければテレンス・マリックの映画は「よく分からない」「つまらない」で終わってしまうだろう。

映画全体が成長した息子ジャック(ショーン・ペン)の回想で、しかも厳格で支配的な父(ブラッド・ピット)と若くして死んだ弟についての思いを、旧約聖書を引用しながら神に語りかけるようなスタイル。そこにいきなり挿入される火山や滝や雲といった大自然の映像。

キリスト教の素養のない日本人には分かりにくいけど、神は天地を創造したわけだから、完璧な自然(それを象徴するのが「生命の樹」というタイトルだろう)と、神の唯一の失敗作である人間の不完全さや罪についての問いが対になっているのは、キリスト教圏の人間には受け入れられるのかもしれない(日本人だと、人の生死と自然の対照は「無常」になってしまうが)。

ジャックと2人の兄弟が育ったテキサスの小さな町。芝生の庭が広がる1950年代の木造の家。その部屋の壁に外光が矢のように差し込み、人に似た影をつくる。そんな映像が何度か出てくる。ジャックの回想のなかでその光の映像は神の似姿なのだな、と感じられる。

アメリカ人らしく力を信奉し、強い人間たれと、ことあるごとに教える父。父に支配されている母。父に反抗し、殺意すら覚えるジャック。そして弟の若すぎる死。

この映画を見たときちょうど読んでいた橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』によると、全知全能の神が創造したこの世界になぜ悪があり、不幸や苦難があるのかという問いは、中世キリスト教神学でしばしば取り上げられた疑問だという。橋爪大三郎は、こう述べている。

「一神教は、すべてをGodが指揮監督していると信じるのですが、するとしばしば、理不尽な感情に襲われます。なぜ私の家族や大事な人が重い病や事故にみまわれるのだろう。なぜ自分の努力が報われないのだろう。なぜ悪がはびこり、迫害が続くのだろう、というふうに。仏教や儒教や神道なら、運が悪いとか、悪い神様のせいだとか考えればすみます。一神教では、すべての出来事はGodの意思によって起こるので、そう考えてすますことができない。そこで、不断の対話を繰り返すことになる」

「残る考え方は、これは試練だ、ということ。このような困った出来事を与えて、私がどう考えどう行動するのか、Godが見ておられると考える。祈りは、ただの瞑想と違って、その本質は対話なのです」

強引に言えば、『ツリー・オブ・ライフ』は、世界と人間をめぐってテレンス・マリックが神と行った対話をそっくり映像化したもの、と言えるかもしれない。テキサスに生まれ育ち、ハーバードやオックスフォードで哲学を学んだテレンス・マリックらしい映画。

それにしても、1950年代テキサスの田舎町を再現した回想シーンのみずみずしさが素晴らしい。主にスミスヴィルという町でロケしたらしいけど、広々とした並木道の両側に広がる、さまざまな様式のアメリカン・スタイルの家々。その中で、親子5人の日常がスケッチふうに重ねられてゆく。

ケンカの仕方を教えるためか、ジャックに向かって「オレに殴りかかってこい」と命ずる父。ジャックの弱々しい拳は、すぐに父の反撃に会ってしまう。スクリーン・ドアを乱暴に閉めるジャックに、「そっと閉めろ」と教える父。そう言われて、あえて乱暴に音をたてて戸を閉めるジャック。黙ってジャックを抱きしめる母。誰にでもあるような記憶を重ねて、ジャックの父に対する複雑な感情を高めてゆく。

僕には、壮大な地球創生の映像より50年代の光あふれる日常の部分のほうが楽しく見ることができた。撮影はメキシコ出身のエマニュエル・ルベツキ。『天国の口、終りの楽園』が印象的だった撮影監督だ。


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August 16, 2011

今日の収穫

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today's harvest

今日の収穫はゴーヤ、きゅうり、ミニトマト。

今年のきゅうりは味がいい。反対にゴーヤは日照が足りないのか緑色が濃くならず、味もいまひとつ。

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August 14, 2011

『ミラル』 パレスチナに生きる

Miral
Miral(film review)

日本にいるとリアルに受け止められないけど、映画は広く大衆に見られるメディアで、それだけに大きな影響力を持っているから、深い政治性を持っている。

1980年代、トルコのクルド人監督ユルマズ・ギュネイはクルド族を主人公にした映画のため何度も投獄されているし、文化大革命を批判的に描いた中国第五世代の陳凱歌はアメリカに去り、田荘荘は長い沈黙を強いられた。天安門事件の後も、黄建新らが出国している。中国だけでなく、去年はイランのクルド人監督バフマン・ゴバディが亡命を余儀なくされた。映画が政治性を持つ(持たざるをえない)状況は世界的に今も変わらない。

『ミラル(原題:Miral)』が今年4月にアメリカで公開された翌日、この映画に出演していたパレスチナの俳優で難民キャンプの創設者でもあるJuliano Merr-Khamisが劇場の外で狙撃され殺された(wikipedia)。犯人が誰かはwikipediaの記事では分からないけれど、ユダヤ系アメリカ人監督ジュリアン・シュナーベルがパレスチナ人少女の成長を描いたこの映画が、ユダヤ人、パレスチナ人双方にとって過敏にならざるをえないテーマを扱っていたからだろう。

ジュリアン・シュナーベルはNYブルックリンでユダヤ系の家庭に生まれ、母親は女性シオニスト協会ブルックリン支部長だったという。ブルックリンのウィリアムズバーグには厳格なユダヤ教徒のコミュニティがあり、今も黒帽、黒服に全身を包んだ人たちが町を歩いているから、ジュリアンもそうした文化のなかで育ったのかもしれない。彼がパレスチナ人を主人公に映画をつくることを決めたとき、家族の反対に遭ったとジュリアン自身が語っている。

一方、この映画はパレスチナの暫定自治にイスラエルとPLOが合意した1993年のオスロ合意を一応のゴールにしているから、PLOと袂を別ったハマスに近いパレスチナ人から見れば、イスラエルとパレスチナの共存を肯定的に描いたこの映画に反発を感ずるかもしれない。

ジュリアン・シュナーベルのこれまでの映画を見るかぎり、彼は特定の政治的立場を取っているわけではないと思う。ただ、亡命したキューバ人作家の自伝を映画化した『夜になるまえに』(いい映画でした)など、政治的に微妙なテーマにもひるまず挑んでいることは確かだ。

『ミラル』では、パレスチナ・イスラエル現代史を背景に、3人のパレスチナ女性の生が描かれる。

1948年、イスラエル建国直前。東エルサレムに住む裕福なパレスチナ女性ヒンドゥ(ヒアム・アッバス)は、イスラエル民兵の攻撃で孤児になった55人の子供を保護して「子供の家」をつくった。彼女は、ここで3000人の子供を育て、教育することになる。

1960年代、継父の性的虐待に家を出たナディア(ヤスマン・アル=マスリー)は小さな罪で投獄されるが、同房の独立運動活動家に出会い、彼女の兄でイスラム教導師のジャマールと結婚する。彼女はミラル(フリーダ・ピント)を生むが、家庭はうまくいかず、ナディアは自殺する。

ミラルはヒンドゥの「子供の家」に預けられる。成長したミラルはイスラエルへの抗議活動に加わるが、ヒンドゥは暴力を否定し、学校に政治を持ち込むことを許さない。ミラルはイスラエル警察に捕らえられ……。

この映画でおやっと思ったのは、イスラエルが占領している東エルサレムだけでなく、ヨルダン川西岸のラマラやパレスチナ難民キャンプなど、イスラエル支配地域とパレスチナ支配地域の双方で撮影しているらしいことだ。「ユダヤ系アメリカ人監督がつくるパレスチナ人の物語」というスタンスがそれを可能にしたのだろうか。

しかもその映像が素晴らしい。ニュース画面も交えながら、手持ちカメラで撮った迫力あふれるインティファーダの映像もあれば、低木がつづくパレスチナの乾いた大地を舐めるように撮影した映像もある。金色のドームが見え隠れするエルサレム旧市街の石畳。同じ形の住宅が並ぶユダヤ人入植地。埃っぽい難民キャンプ。どれもニュースで見たことのある風景だけど、映画の中でその空気感まで感じさせて息づいている。

撮影はエリック・ゴーティエ。アレン・レネ、レオス・カラックスらフランス映画の名作だけでなく、最近では『モーターサイクル・ダイアリーズ』『イントゥ・ザ・ワイルド』でも見事な映像をつくっていたから、それも納得。

原作はパレスチナ人ジャーナリスト、ルーラ・ジブリールの自伝。脚本も手がけている。「いくつかの出来事をつなげたり、複数のキャラクターをひとつにしてはいるけれど、中東には空想の入り込む余地はない。この目で見たものを語ること以外できない」と述べている。

『夜になるまえに』『潜水服は蝶の夢を見る』そして『ミラル』とシュナーベルの映画を見てくると、さまざまな極限状況におかれた人間の生と死をテーマとしていて、それが結果として、時に政治性を帯びることになるんだろう。どれも素晴らしく官能的な映像を持った映画で、シュナーベルが一貫して見つめているのが「生きる歓び」であることに納得がいく。


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August 10, 2011

『映画と谷崎』 夢こそ本当の世界

Photo
Chiba Nobuo"Movie and Tanizaki"(book)

前から読みたいと思っていた千葉伸夫『映画と谷崎』(青蛙房)を古書店で見つけて入手した。

「谷崎」とは作家・谷崎潤一郎。映画と谷崎といえば、繰り返し映画化されている谷崎の作品(「刺青」「卍」「鍵」「痴人の愛」など)を思い浮かべるけれど、関東大震災以前の大正時代、新興芸術として注目されていた映画に入れ込んだ若き谷崎は自ら映画製作に乗り出し、傍惚れしていた義妹(妻の妹)を主演に据えて数本の映画をつくったことがある。

この本は、その時代を中心に映画と谷崎について書かれたもの。そうした事実を一応は知っていたけれど、谷崎と映画との関係は僕が想像していた以上に深く、本質的なものだった。

まず驚いたのは、谷崎が映画の観客としても第一世代に属していたこと。日本で映画が初めて公開されたのは1897(明治30)年。このとき谷崎は12歳、日本橋茅場町に住み、小学校高等科に通っていた。

彼が回想する映画との出会いは、その最初期のもので、千葉は回想の内容から谷崎が見た映画を特定している。『米国最大海水浴場の光景』『米国陸軍士官学校騎馬操練の光景』は実写映画で、『ジョンターク(ジャンヌ・ダルク)火刑の惨状』は演劇を実写した映画。子供のころ見た映画を、後にタイトルを特定できるほど正確に回想するとは、さすが谷崎。

彼は新進作家として登場した後もイタリア映画、フランス映画、アメリカ映画に魅惑されていた。外国映画は、谷崎にとって憧れの異国そのものだった。

1920(大正9)年、それまで歌舞伎や新派の実写にすぎなかった日本映画の革新を目指してつくられた大正活映に、谷崎は参加することになる。そのうちの1本は谷崎が強く映画化を希望した泉鏡花の原作で『葛飾砂子』。彼は脚色を担当した。

残念なことに、『葛飾砂子』は関東大震災でフィルムが失われ、脚本も残っていない。僕は作家のお遊び程度の映画かと思っていたけど、鏡花の世界を陰影豊かに描いて、後に溝口健二が完成させる「日本映画の美学」の先駆けとなった作品と評価されている。ずいぶん前のことだけど、淀川長治さんとお話したとき、この映画を見たと伺ったことがある。もっと詳しく話を聞いておくんだった。

谷崎が映画に魅せられ、大きな情熱を燃やしていたことは確かだけど、そこには別の思惑もあった。

当時、谷崎は妻・千代を友人の作家・佐藤春夫に譲り、千代の妹・葉山三千子と結婚しようとした、文壇史で「小田原事件」として有名な出来事が起こった。この時この話は実現せず、元の鞘に収まったのだが(10年後、佐藤と千代の結婚は実現する)、三千子に惚れていた谷崎は、義妹を映画女優にする夢を持っていた。

「事件の当事者のひとりである佐藤春夫の観察するところによると、谷崎の映画製作への熱中は、ただただ義妹の葉山三千子をスクリーンへ投じてみたいとすることにあったという」(千葉)

写真を見ると、葉山三千子は後の原節子を思わせる日本人離れした彫りの深い美人。谷崎の小説『痴人の愛』のモデルでもある。妻の千代は対照的に大人しく日本的な女性だったというから、好みとは逆の女性を妻としてしまったわけだ。それにしても「妻譲り」や「惚れた女を映画女優に」を実現させてしまう谷崎の「悪魔性」はすさまじい。

ついでに言うと、戦後、30本以上映画化された谷崎原作の映画のなかで、谷崎がいちばん気に入っていた女優は京マチ子だった。谷崎は彼女について「夢の中でも遭ひたいと思ふ人」と書き、実際に京マチ子に会ったときも、「美しい国の美しい人」と彼女に告げたと、うーん、文豪でなければ言えないようなセリフを吐いている。

僕も『鍵』(市川崑監督)を見ていて、僕らにとって大正生まれの京マチ子は母親に近い世代だから異性として見るには歳が離れすぎてるけど、あの妖艶な肢体と表情はまさに谷崎の小説にふさわしい。僕にとっての谷崎映画のヒロインは学生時代に見た『刺青』の若尾文子だけど、既に老年に達していた谷崎には小娘にしか映らなかったのか、彼女については何も言ってない。

それにしても、引用されている谷崎の映画論は見事だなあ。

「全体宇宙といふものが、此の世の中すべての現象が、みんなフィルムのやうなもので、刹那々々に変化はして行くが、過去は何処かに巻き収められて残つてゐるんぢやないだらうか? だから此処にゐる己たちは直ぐに跡方もなく消えてしまふ影に過ぎないが、本物の方はちやんと宇宙のフィルムの中に生きてゐるんぢやないだろうか? 己たちの見る夢だとか空想だとかいふものも、つまり先の世とか、子供の時分とかに、一度何処かで見たことのある物の本体が影を見せるのだ。……活動写真を見てゐると一層そんな気がする。映画といふものは頭の中で見る代わりに、スクリーンの上へ映してみる夢なんだ。そしてその夢の方が実は本当の世界なんだ」

ほかに「夢幻的である活動写真」という言葉も使われている。「映画はスクリーンに映してみる夢で、現実より夢のほうが本当の世界だ」とは、僕が感ずる映画の魅力を見事に、そして谷崎らしい文章で言い当てている。

若い頃の谷崎の小説を読むと、例えば中国の都市で、夜、宿舎を出ると闇があり、闇を抜けると「この世と思えぬ光景」にぶつかり、異様な体験に心ふるわせ、再び闇を通って現実に戻る、といった話がいくつもある。これは映画館で映画を見る体験と同じ構造だし、谷崎の映画論にも通じている。そこからも、若き谷崎にとって映画が遊びではなく本気だったことが分かる。

最後に僕の谷崎映画ベスト3は、

『刺青』(増村保造)若尾文子・長谷川明男
『お遊さま』(溝口健二)田中絹代・乙羽信子
『鍵』(神代辰巳)観世英夫・荒砂ゆき


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August 09, 2011

アブドゥーラ・イブラヒムを聞く

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Abdullah Ibrahim trio live

アブドゥーラ・イブラヒムがダラー・ブランドのことだって、つい最近まで知らなかった。ジャズの雑誌は長いこと読んでないし、ネットで情報を集めることもない、ただただ好きなジャズを聞いてるだけだから、ジャズ・ファンなら当然知っていることも知らない。…って、調べてみるとダラー・ブランドがイスラム教に改宗して名前を変えたのは1970年代。そんな昔のことだったんだ。

僕らの世代には、ダラー・ブランドの「アフリカン・ピアノ」は忘れられないアルバムだった。70年代前半、ジャズ喫茶へ行くと、ブランドの顔をアップにした特徴あるジャケットが「演奏中」の棚に置かれていることがしょっちゅうで、誰もがあの熱いピアノに黙って耳を傾けていた。考えてみると、僕はまだキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」もチック・コリアの「ソロ」も聞いてなかったから、ピアノ・ソロのアルバムを聞いたのは初めてだったかもしれない。

その熱いピアノへの共感は、ダラーの音に彼の祖国・南アフリカのアパルトヘイト体制への抗議を感じていたからかもしれない。あるいは、この国の1960年代の熱い季節が連合赤軍事件という無残な結末をもたらした後の空白のなかで、かすかに身内に残った余熱をかきたてるように聞いていたのかもしれない。いずれにしても昔のことだ。

アブドゥーラ・イブラヒムがダラー・ブランドだと知ったらそんな記憶が次々湧き出てきて、ライブに行く気になった(表参道・BLUE NOTE)。どういう音が出てくるのか、見当もつかない。

ベース(Belden Bullock)とドラム(George Gray)のトリオ。まずは黒ずくめの服に身をつつんだ白髪のイブラヒムがひとりで登場、ソロ・ピアノを弾きはじめる。

ゆったりと、穏やかで、美しい音。メロディは「アフリカン・ピアノ」と共通の響きを持っているけど、音にあの時代の熱さはない。アフリカ的なリズムも、アメリカのアフリカ系ピアニストのブルース感覚も感じさせない。「アフリカン・ピアノ」の時代も(タイトルにもかかわらず)そういう匂いは意外に薄く、新感覚のピアニストという印象が強かったと思うけど、穏やかな音がそれを一層際立たせる。目をつぶって聞いていると、ヨーロッパの若い白人が弾いているのかと錯覚する。

トリオになっても、穏やかな世界は変わらない。曲から曲へ、ソロも交えながら切れ目なしに自作曲を演奏する。

ソロになって、一瞬、「アフリカン・ピアノ」の再現かと思わせる高揚もあるけど、それもすぐに終わる。ジョージ・グレイの見事なドラムとともにに軽くスイングするけれど、それもすぐに終わって、再び穏やかな癒しのような世界に戻る。これが結局、アブドゥーラ・イブラヒムがたどりついた世界なんだろうか。

75歳。1960年代にアパルトヘイトに抗して国外に出ざるをえなかったイブラヒムは、マンデラ政権が成立した後、国に戻り、今も南アフリカを拠点に活動しているという。You Tubeで検索すると、いかにもアフリカのリズムとメロディを感じさせる曲もやっているし、アーチー・シェップとソウルフルな演奏もしている。モンクやコルトレーンの曲も弾いている。アフリカからアメリカ、ヨーロッパ、日本(日本語タイトルのアルバムもある)をめぐり、いろんなジャズや民族音楽や宗教音楽を経、地球と半世紀の時間をひとめぐりしてこの穏やかな世界にやってきたのか。そう思えば感慨もある。

イブラヒムの静かな音をまったく邪魔せず気持ちよくスイングするジョージ・グレイのドラムにしびれた。

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August 08, 2011

『エッセンシャル・キリング』 アフガン版「地獄の黙示録」

Essential_killing_2
Essential Killing(film review)

ヘリコプターの翼が回転する音がかすかに聞こえてくる。それだけで何かが起こる予感がしてしまうのは、『地獄の黙示録』とか『ブラッド・ワーク』とか、冒頭でヘリの音を効果的に使った映画を何本も見ているからだろう。

暗い画面がフェード・インすると、白茶けた岩山の連なりを俯瞰する上空からの映像。乾燥しきった、白く鋭い岩山の稜線が連なる。『127時間』のユタ州の赤い岩山の風景もすごかったけど、こちらの真っ白い岩山は、もっと不穏で不気味だ。画面のなかに、岩山の上を飛ぶ米軍ヘリが入ってくる。岩山に入った亀裂の底の谷を白いアラブ服を着た男が逃げている。

魅惑的な映像と音で示されるのは、追う者と追われる者という最も単純なアクション。これからなにが起こるのか、わくわくしてしまう。こういう瞬間を味わえるのが、映画の最高の楽しみだね。もっとも、『エッセンシャル・キリング(原題:Essential Killing)』は、そこから普通のアクション映画のようには展開しない。

監督のイェジー・スコリモフスキがこの映画のアイディアを思いついたのは、前作『アンナと過ごした4日間』のロケハンで故国ポーランドにいたとき、故郷に近い飛行場を米軍が中東のアラブ人捕虜を移送するのに使っていたのを知ったこと、そして飛行場近くの雪道で車がスリップし道路から飛び出す事故を起こしたことからだったらしい(wikipedia)。

なるほどね。そういう日常的な出来事や捕虜移送のニュースから、並みの監督なら中東とヨーロッパを結ぶ政治的テーマの映画を発想しそうなものだけど、そんな政治性や社会性を持った映画でもなく、アクション映画でもなく、こんな奇妙にねじれた映画をつくりだしてしまうのがスコリモフスキのオリジナルな才能なんだろうな。

映画は、アラブ人テロリストらしいムハンマド(ヴィンセント・ギャロ)がアフガニスタンで米軍ヘリに追跡され、捕虜になるところから始まる。捕虜になったムハンマドは、アルグレイブ刑務所を思わせる虐待を受けた後、輸送機に乗せられヨーロッパへ移動させられる。ムハンマドは着陸した飛行場でトラックに移されるが、そのトラックが雪道で谷へ転落し、そこから生き残ったムハンマドの無言の逃避行が始まる(ヴィンセント・ギャロはこの映画で一言も発しない)。

米軍のヘリと兵士に追われたムハンマドは、ひたすら逃げる。でもその「追う・追われる」アクション映画が、途中から別のものに変わってゆく。アフガン戦争についても虐殺の描写以上には何も言われず、映画はそこから逸れてゆく。

米軍の追跡をふりきったムハンマドは、生きるために雪深い森のなかをさまよう。藁小屋で寝込み、朝、目覚めたムハンマドは寄ってきた鹿と目を合わせる。彼は鹿を殺さず、その瞬間、人間と人間の「追う・追われる」劇は終わり、同時に映画はリアリズムというより、どこでもない世界の話に変貌してゆく。それはまるで『地獄の黙示録』が、ベトナム戦争のリアルな設定で始まりながら、途中からメコン河をさかのぼることが精神の「闇の奥」(コンラッドの原作の題名)を探る劇に重なっていったことに似ている。

ムハンマドがさまよう森は、彼自身にもそこがどこか分かっていないけれど、固有の名前を持った森ではなくなってしまう。ムハンマドも、名前のないひとりの男になる(ムハンマドという名はHPを見て書いているんだけど、そもそも映画の中で男はムハンマドと明示されていなかったように思う)。というより、ひたすら生きようとする一匹の野生の生きものになる。

男は、食べ物を求めて、わずかな木の実だけでなく、アリや木の皮まで食う。出会った男を平気で殺しもする(それをエッセンシャル・キリングと呼んだのだろう)。乳飲み子を連れた農婦の乳房にくらいついて乳を吸ったり、釣りをする男から魚を奪ってあたふた逃げる滑稽な動物のような姿もさらす。野犬に囲まれるが、野犬は彼を同類と認めたのか、攻撃しようとせずに去ってゆく。ケガをして、兵士から奪った白い防寒服に赤い血が滲んでいくさまは、まるで白い毛皮の動物が血に染まっていくようにも見える。

そして、いきなり女(エマニュエル・セニエ)との出会いがある。家の窓の外に傷ついたムハンマドを見つけた女は、ムハンマドを家のなかに入れて介抱する。リアルな映画ではなくなっているから、女がなぜ男を無防備にも家に入れたのかは説明されないけれど、男と女のぎこちない愛の表現は、『アンナと過ごした4日間』と同質の女性への偏執を感じさせなくもない。

男を休ませた女は、朝、白馬に乗せて男を逃がす。ここでもまた、白馬が男が流す血で赤く染まる。白(岩山の白、雪の白、防寒服の白、白馬の白)と赤(流される血)は映画を通じてたびたび出てくる。もっとも、そんな色の意味や、白馬の象徴性や、女の登場について、無理に解釈をしようとしても、あまり意味がないように思う。

『地獄の黙示録』のような、あるいはタルコフスキーのような完成度はないけど、スコリモフスキってヘンな奴で、こうしたかったんだ、と思うしかない。たとえつじつまが合わなくても、説明不能でも、画面からオーラがただよっていて、真っ白な岩山や雪の風景に心奪われるなら、エマニュエル・セニエの成熟した美しさにうっとりできるなら、あるいは農婦の巨大な胸にくらいつくヴィンセント・ギャロに笑えるなら、映画はそれでいいんだと思う。

ロケはイスラエル、ポーランド、ノルウェーで行われている。零下20度の雪のなかを素足で(しかも無言で)頑張ったヴィンセント・ギャロはアラブ人には見えないけど、スコリモフスキは、「カリフォルニアからアルカイダに参加したアメリカ人もいたじゃないか」と意に介していない。


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August 07, 2011

ゴーヤの収穫

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bitter melon and cucumber

庭の畑で今年はじめてのゴーヤを収穫。日当たりが悪い上に種から育てているので、どうしても遅くなる。これから8月いっぱい楽しめそう。わが家ではヌカ漬けが一番人気。

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きゅうりは、このところ毎日取れる。ゴーヤもきゅうりも水さえやってればいいわけで、栽培は簡単だからなあ。


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August 01, 2011

『ラスト・ターゲット』 英国製マカロニ・ノワール

Theamerican
The American(film review)

この映画の監督、アントン・コービンの名前は、ミュージシャンのポートレートを撮る写真家としてかすかに名前を覚えていた。マイルス・デイビスの上半身の目と爪が異様に白いポートレートや、U2「ヨシュア・ツリー」のジャケット写真なんかが記憶にある。そのアントン・コービンが映画を撮っているとは知らなかった。wikipediaを見ると、写真家として活動するだけでなくミュージック・ビデオを撮ったり、映画にも進出して、第1作『コントロール』はカンヌで賞を取っている。

だからだろうか、『ラスト・ターゲット(原題:The American)』には写真家らしいショットがいくつもある。イタリアの山岳地帯を切り裂くように走る車を真横にカメラを据えて撮った遠景。その道路と車を上から俯瞰するショット。山の上にそびえる中世風の城砦都市に流れる霧の風景。町の石造りの家々をこれも真上から俯瞰したショット。そんな「ムービー」というより「スチール」感覚のショットがいかにも写真家の映画だなあ。

『コントロール』は夭折したミュージシャンの伝記映画らしいから、まだそれまでのコービンの仕事と関連するけれど、この映画は音楽とまったく無関係な英国ミステリー『暗闇の蝶』の映画化。

老年を迎えつつあるアメリカ人暗殺者ジャック(ジョージ・クルーニー)が何者かに命を狙われ、イタリア南部山岳地帯の城塞都市、カステル・デル・モンテに身を隠す。異邦人のジャックは英語を話す神父(パオロ・ボナチェッリ)と知り合い、娼婦のクララ(ヴィオランテ・プラシド)となじみになる以外は誰ともつきあわず、口もきかない。引退前の最後の仕事として狙撃用のライフル製作を引き受けるのだが、身辺に怪しい影が見え隠れしはじめる……。

派手なアクションはなく、今ふうなテンポの速いストーリー展開もなく、1960~70年代の地味だけど陰影あるノワール映画の雰囲気。僕は見ていてアラン・ドロンが寡黙な殺し屋に扮した『サムライ』(ジャン・ピエール・メルビル監督)を思い出した。でも、それは連想の方向がちょっと違ってたみたい。

映画の中ほど、町のバーのシーン。店のテレビに『ウエスタン』(セルジオ・レオーネ監督)が映っている。それを見て、ああそうか、ジャックはマカロニ・ウェスタンの主人公に重ねられているんだな、と思った。リアリズムが底に流れるメルビルのノワールでなく、アメリカ産西部劇のヒーローを、いっそうキャラを立ててリアリズムというより神話の主人公に近いマカロニ・ウェスタンのクリント・イーストウッドやチャールズ・ブロンソン。

人気のない小さな町にやってきた流れ者。部屋で孤独に銃を手づくりするジャック。その背には蝶のタトゥーが彫られれている。娼婦クララとの逢瀬。やがてそれが愛に変わってゆく。神父との罪と贖罪をめぐる問答。そんないかにもの設定が、マカロニ・ウェスタンの様式美や荒唐無稽な設定と共通している。

もっとも、マカロニ・ウェスタンのどぎつい濃さはない。映画そのものも、暗殺者の造型も、良くも悪くも品がいい。ジョージ・クルーニーはいつもに増してクールで、だから死にゆく暗殺者の心象もあっさり目。映画のキー・イメージは「蝶」だけど、クルーニーの背のタトゥーも、ラストシーンで実際に飛ぶ蝶も、セルジオ・レオーネならもっと官能が匂いたつ映像につくりこむんじゃないかな。城塞都市の風景も、追われる主人公が閉じこもる孤独の心象というより、観光的な美しさに見える。少なめに入る音楽も素敵だけど、エンニオ・モリコーネの印象的なメロディがいやが上にもドラマを盛り上げたマカロニ・ウェスタンに比べると物足りない。

それはなぜ? と考えると、オランダ生まれでロンドンで活動しているアントン・コービンはじめ、脚本(ローワン・ジョフィ)、撮影(マーティン・ルーエ)など主なスタッフがイギリス人で、どことなしハリウッドと一線を画するイギリス映画のテイストがあるせいかもしれない。

もっとも、僕が物足りないと思ったそのテイストこそを、コービンは狙ったのかもしれない。まあ、マカロニ・ウェスタンやメルビルのノワールを楽しんだ経験のある者には、ちょっと欲求不満が残ったという話。とはいえ、今はこういう映画が少ないから、たっぷり楽しみました。


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