『蜂蜜』 森の声
音楽を使わない映画はけっこうあるけど、たいていは登場人物が歌を口ずさんだり、カーラジオから音楽が流れてくるシーンがあったり、物語の中で1、2カ所、それだけに印象に残るやり方で使うケースも多い。『蜂蜜(原題:Bal)』みたいに、タイトルロールからエンドロールまで、音楽のまったくない映画も珍しいんじゃないだろうか。そして、それは必然だった。
トルコ東部、アララト山近くの森林地帯。深い森に抱かれるように養蜂家の父(エルダル・ベシクチオール)と母(トゥリン・オゼン)、小学校に入ったユスフ(ボラ・アルタシュ)の暮らす家がある。ユスフは父と一緒に森に入り、父が樹上で蜂蜜を集めるのを手伝っている。彼は吃音らしい。父と低いささやき声で会話することはできるけれど、学校で先生と話したり、教科書を読もうとすると声が出なくなる(HPには父が行方不明になってユスフの言葉が失われたとあるのだが、僕には映画のはじめから声が出ないように受け取れた)。
父は来なくなった蜜蜂を求めて、普段は行かない遠くの森に一人で出かける。ユスフは、父のいいつけに従い母を守って森の家に残る。
この映画に音楽はなく、人の声すら少なく、沈黙が多くの時間を支配している。そのかわりに満ちているのが「森の声」だ。蜜蜂の羽音。鳥の鳴き声。木々の葉のそよぎ。枝が裂ける音(これが父の死を暗示する)。かすかな水音。火の音。そんな「森の音」を伴って、木漏れ日が揺れる樹林の光景が映しだされる。音もなく霧が流れる山がある。バケツの水面に揺れる月がある。そんな音と映像の豊かさに酔う。
映画の最後、ユスフは森の大きな木の根に抱かれるように眠る。それは、彼が森の全体、自然そのものに抱かれていることを示しているのだろう。だから「森の声」はユスフの心の声に等しい。一方、ユスフは学校では声が出ない。学校は社会に生きるための知識を学ぶ場だから、そこで学ぶ言葉は他者とのコミュニケーションの道具だ。ユスフは森や父親とは交信できるのに、社会(学校)では言葉を持てないでいる。
『蜂蜜』は、トルコのセミフ・カブランオール監督の「ユスフ3部作」と呼ばれるシリーズの第3部で、ユスフ幼少期の物語。彼は成長して詩人になるらしいが、これは言葉不要の世界に充足して生きていたユスフが言葉を獲得するために一歩を踏み出すまでを描いている。誰もが必ず経験しながら、大きくなってほとんど忘れてしまう世界の物語。だからだろう、映画全体が「言葉以前の世界」、あるいは「言葉にならない世界」の豊穣さに満ちている。
物語は終始、深い森に囲まれた小さな村で進行するけれど、一度だけ、母とユスフが父を探しにアララト山の祭に行く群集シーンがあって、車も登場し、そこで初めてこの映画が現代の物語であることに気づく。祭のシーンが、この古代の説話かおとぎ話のような映画を今につなぎとめ、そしてまた最後は深い森に帰ってゆく。
3部作の他の2作品も来月、公開される(銀座テアトルシネマ)。ユルマズ・ギュネイ以来、ときどき公開されるトルコ映画は、どれも見ごたえがある。
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