July 24, 2011
July 23, 2011
『蜂蜜』 森の声
音楽を使わない映画はけっこうあるけど、たいていは登場人物が歌を口ずさんだり、カーラジオから音楽が流れてくるシーンがあったり、物語の中で1、2カ所、それだけに印象に残るやり方で使うケースも多い。『蜂蜜(原題:Bal)』みたいに、タイトルロールからエンドロールまで、音楽のまったくない映画も珍しいんじゃないだろうか。そして、それは必然だった。
トルコ東部、アララト山近くの森林地帯。深い森に抱かれるように養蜂家の父(エルダル・ベシクチオール)と母(トゥリン・オゼン)、小学校に入ったユスフ(ボラ・アルタシュ)の暮らす家がある。ユスフは父と一緒に森に入り、父が樹上で蜂蜜を集めるのを手伝っている。彼は吃音らしい。父と低いささやき声で会話することはできるけれど、学校で先生と話したり、教科書を読もうとすると声が出なくなる(HPには父が行方不明になってユスフの言葉が失われたとあるのだが、僕には映画のはじめから声が出ないように受け取れた)。
父は来なくなった蜜蜂を求めて、普段は行かない遠くの森に一人で出かける。ユスフは、父のいいつけに従い母を守って森の家に残る。
この映画に音楽はなく、人の声すら少なく、沈黙が多くの時間を支配している。そのかわりに満ちているのが「森の声」だ。蜜蜂の羽音。鳥の鳴き声。木々の葉のそよぎ。枝が裂ける音(これが父の死を暗示する)。かすかな水音。火の音。そんな「森の音」を伴って、木漏れ日が揺れる樹林の光景が映しだされる。音もなく霧が流れる山がある。バケツの水面に揺れる月がある。そんな音と映像の豊かさに酔う。
映画の最後、ユスフは森の大きな木の根に抱かれるように眠る。それは、彼が森の全体、自然そのものに抱かれていることを示しているのだろう。だから「森の声」はユスフの心の声に等しい。一方、ユスフは学校では声が出ない。学校は社会に生きるための知識を学ぶ場だから、そこで学ぶ言葉は他者とのコミュニケーションの道具だ。ユスフは森や父親とは交信できるのに、社会(学校)では言葉を持てないでいる。
『蜂蜜』は、トルコのセミフ・カブランオール監督の「ユスフ3部作」と呼ばれるシリーズの第3部で、ユスフ幼少期の物語。彼は成長して詩人になるらしいが、これは言葉不要の世界に充足して生きていたユスフが言葉を獲得するために一歩を踏み出すまでを描いている。誰もが必ず経験しながら、大きくなってほとんど忘れてしまう世界の物語。だからだろう、映画全体が「言葉以前の世界」、あるいは「言葉にならない世界」の豊穣さに満ちている。
物語は終始、深い森に囲まれた小さな村で進行するけれど、一度だけ、母とユスフが父を探しにアララト山の祭に行く群集シーンがあって、車も登場し、そこで初めてこの映画が現代の物語であることに気づく。祭のシーンが、この古代の説話かおとぎ話のような映画を今につなぎとめ、そしてまた最後は深い森に帰ってゆく。
3部作の他の2作品も来月、公開される(銀座テアトルシネマ)。ユルマズ・ギュネイ以来、ときどき公開されるトルコ映画は、どれも見ごたえがある。
July 20, 2011
追悼・原田芳雄
memory of Harada Yoshio, actor
(『竜馬暗殺』プログラムから)
つい先日、是枝裕和監督の新作『奇跡』でいつもと変わらぬ原田芳雄を見て、ガンと聞いてたけど元気そうだな、と思ったばかりだったから、この訃報には不意をつかれた。最後の公の場になったに『大鹿村騒動記』舞台挨拶の写真を見ると、車椅子の痩せ衰えた姿が痛々しい。
1941年、東京市下谷区生まれというから、戦後生まれの僕たちより一世代上になる。でも若いころ見たたくさんの映画のなかで、原田芳雄がスクリーンから発する熱すぎるほどの熱気には、まぎれもなく同時代、同世代の体臭が充満していた。同じころの映画でも『青春の殺人者』の水谷豊や『サード』の永島敏行になるともっとクールで、若い世代が出てきたな、という印象を受ける。
原田芳雄をスクリーンで初めて見たのは『関東流れ者』だったか『八月の濡れた砂』だったか、はっきりしない。当時は東映一辺倒だったので、『復讐の歌が聞こえる』始め初期の日活作品は見ていない。最初に鮮烈に記憶に残ったのは『赤い鳥逃げた?』だったな。藤田敏八監督の、いま見れば気恥ずかしくなりそうな青春映画だけど、桃井かおりとつるんで破滅していく青年を、気だるく、投げやりな、例のセリフ回しでやっていた。
それからやっぱり『竜馬暗殺』だ。ぼさ髪で、革靴はいてドタドタ走り、現代青年のようにしゃべる竜馬は、時代劇というより現代劇の人物だった。石橋蓮司、松田優作の相方もよかったけど、当時の新左翼の内ゲバを背景にした黒木和夫監督の演出で、竜馬の死は歴史上の人物でなく同時代人の死になっていた。
『ツィゴイネルワイゼン』もいいけど、あと記憶に残っているのは『われに撃つ用意あり』(若松孝二監督)だ。佐々木譲原作のハードボイルドで、新宿のバーのマスターになる原田芳雄が不法移民にからんだ事件に巻き込まれてゆく。この映画には確か石橋蓮司や桃井かおりも出ていて、原田芳雄を思い出すとこの2人の顔がいつもセットで出てくる。時代に抗うエネルギーに満ちていた、あの時代を思い起こさせる面々、とでも言うか。
その後も『水のないプール』とか『無能の人』とか、1シーン出てくるだけでも良くも悪くも存在感をふりまいていた。それは最近でも変わらないけど、『ウルトラミラクルラブストーリー』でも『歩いても歩いても』でも、歳をとったこともあるだろうけど、映画に実にうまく溶け込んでいる。『奇跡』で、町内会の飲んだくれのオヤジも、とってもよかった。
もう原田芳雄の新作を見られないと思うと寂しい。
July 11, 2011
July 10, 2011
『無常素描』 音のない風景
The Sketch of Mujo(film review)
海沿いの町に延々と続く瓦礫。打ち上げられた漁船。倒壊したビル……。3.11の地震と津波がもたらした惨状を伝える映像は、あれ以来、テレビで繰り返し見ることになった。これもそのひとつに違いないんだけど、テレビや新聞・雑誌によって報道された映像とは何かが違う。
地震と津波発生直後のライブ中継を除けば、報道された映像は何らかのテーマや目的のために編集、整理されて、無駄なものが排除されている。画面にはナレーションも入る。限られた時間のなかで、あるテーマを伝えようとするのだから、当然といえば当然だろう。
『無常素描』も、もちろんドキュメンタリーとはいえ映画だから75分という時間のなかで編集され、あるテーマを伝えようとすることに変わりはない。でも、ここではできる限り編集という価値判断の入り込む作業を少なくし、無駄と思える映像を残し、結果としてテレビで短く編集された映像からは伝わらない現場の空気感や臨場感を伝えることになった。瓦礫の山が音もなく、沈黙するように広がっている。
大宮浩一監督は、カメラとともに車で岩手県大槌町から三陸海岸を南下し、内陸の福島県三春町まで走る。カメラはひたすら、車の左右に広がる被災地を映し出す。ときどき車は止まり、そこにいた人々と話し、風景を撮る。その繰り返し。単調とも思えるその繰り返しのなかで、数百キロに渡って海岸の町や村が壊滅したことが否応なく実感される。立ち止まって撮る静止映像も、瞬間を止めたスチール写真と同じかといえばそうではなく、海面がかすかに波打っていたり、鳥が画面を横切ったり、「見つめている」という時間感覚を感じさせる。これが映画なんだな、と思う。
随所に、三春町に住む僧侶・作家である玄侑宗久のインタビューが挿入され、死者を悼む読経が被災地の画面にかぶさる。タイトルの『無常素描』は、玄侑が言う「無常」という言葉から取られている。
大宮浩一は、介護現場を撮った『ただいま それぞれの居場所』などで知られるドキュメンタリー映画の監督。3月11日以降、内外から多くの写真家、映画監督、書き手が被災地に入っているから、これからたくさんの作品が出てくるだろうけれど、撮影から1カ月半で上映にまでこぎつけた行動力には脱帽する。
July 06, 2011
『奇跡』 家族より世界を選ぶ
是枝裕和監督の映画で子供が自然で生き生きしてるのは、『誰も知らない』以来、ファンなら誰でも知ってるけど、『奇跡』は一段と素晴らしい。
子役がセリフをしゃべらされている、って感じがまったくない。多分、撮影に入る前にたっぷり話しあって友達関係になり、撮影も、ある場合にはセリフをしゃべるのでなく、カメラを回しながら、「みんな、大きくなったらなにになりたい?」なんて雑談しているのを撮っているらしいシーンもある。航一(前田航基)、龍之介(前田旺志郎)の兄弟だけでなく、他の少年少女たちも輝いている。そんな子供たちを見ているだけで嬉しくなってくる。
僕は見ていて『冬冬の夏休み』と『スタンド・バイ・ミー』を思い出していた。是枝監督がホウ・シャオシェンに子供の撮り方を学んだことは間違いないと思うし、映画の設定は、監督もインタビューで語っていたけれど『スタンド・バイ・ミー』にヒントを得ている。そんな、子供が主役の映画の佳作として記憶に残りそうだ。
子供たちを囲む大人たちも、オダギリジョーと大塚寧々の父母、橋爪功と樹木希林の祖父母、阿部寛、長澤まさみの学校の先生、祖父の仲間・原田芳雄、スナックのママ・夏川結衣、みんなぴたりとはまってる。子供たちが図書館で先生の長澤まさみが通り過ぎる後脚を見ながら、「あ、はだしだ」「ナマ足っていうんだよ」なんてやりとりも、映画で唯一かすかなエロチシズムを感じさせていいな。
それに、これも是枝監督の映画でいつもそうだけど、小さな「もの」や風景の描写が素敵だ。空き地のコスモス。鹿児島市の火山灰でほこりっぽい、なんの変哲もない町角。錯綜する電線の向こうに見える空。カーブした暗い運河に反射する街灯。父と龍之介が暮らす長屋の雑然とした部屋や、縁側の下に詰め込まれたがらくた。庭に育つトマト。祖父がつくる「かるかん」を包むセロファンのかさこそいう音。
神は細部に宿るという通り、そうしたディテールへの細やかな眼差しの積み重ねが、この映画の底に流れる優しい感情をつくりあげている(撮影は山崎裕)。
ひとつだけ、びっくりしたことがある。是枝監督の映画に観念的なセリフが出てきたのは記憶にないけど、九州新幹線の一番列車がすれ違ったのを見た後、航基に「家族より世界を選んでしもうてん」としゃべらせていることだ。父母が別居して福岡と鹿児島に別れて暮らす兄弟は、新幹線の一番列車がすれ違うのを見ると願いがかなうという噂を聞いて、家族4人がもう一度、一緒に暮らすことを願って鹿児島と福岡から友達を誘って小さな旅に出る。
でも航基は、すれ違ったのを見た瞬間、他の子供たちのように願いを口にしなかった。そのことを弟に告げながら、航基は「家族より世界を選んだ」と言う。そのセリフは、それより少し前、オダギリジョーの父が龍之介に、家族より音楽を選んだという意味のセリフを言ったのと照応している。それぞれの家族、それぞれの個人に、それぞれの選択がある。龍之介の仲間の恵美は旅から帰って母の夏川結衣に、「あたしは東京に行って女優になる」と告げる。これは、家族映画という形をとりながら子供たちの自立の物語でもある。
だから、「奇跡」は起こらない。それでいいのだ。
JAZZ義援金
a contribution for jazz cafe destroyed by Tsunami
(庭のノウゼンカズラ)
岩手県一関にジャズ・ファンには有名な「ベイシー」というジャズ喫茶がある。僕は行ったことがないんだけど、オーナーの菅原正二さんが出す音はここでしか聴けない素晴らしいもので、店名の元になったカウント・ベイシーがこの店を訪れたとき、自分の楽団が出す音の響きのすごさにびっくりしたという話がある。菅原さんはジャズ喫茶をやるだけでなく、店のライブをCDにしたり、ジャズやオーディオについて面白いエッセイを書いていて、僕は愛読している。
地震でどうなったのか気になってウェブを見ていたら、地震後は営業を止めていたがゴールデンウィーク後に再開したという。店の被害はそんなに大きくなく、蔵造りの店の土壁が落ちた程度だったが(大切なレコードは無事だったようだ)、ガスが来なかったり物流が混乱して営業できなかったらしい。
そこで知ったんだけど、三陸海岸の町でジャズ喫茶も大きな被害を受けた。大槌町の「クイーン」や釜石市の「タウンホール」は店がまるごと流された。そこで菅原さんを中心に岩手ジャズ喫茶連盟が、この2軒を助けるための「JAZZ義援金」を募集している。僕も遅ればせながら、ささやかに協力することにした。
ジャズ喫茶にはずいぶんお世話になっている。特にジャズに興味を持ったけどカネがない学生時代は、日暮里、高田馬場、新宿、有楽町のジャズ喫茶に入りびたって何時間もすごした。1980年代に入ると、大音量のジャズ喫茶は少なくなってBGMとしてかけるジャズ・バーが多くなり、仕事が忙しくなったこともあって足が遠のいた。でも、出張で地方都市に行くとジャズ喫茶はけっこう生き残っていて、時間があると店をのぞいたりした。「クイーン」や「タウンホール」もそうした、地元のジャズ・ファンに支えられた店だったんだろう。
地震直後に新聞社やウェブサイトに義援金を送った。それらは日本赤十字経由で、その後、赤十字の義援金が被災地に届いていないというニュースがあった。赤十字への義援金は送り先を特定しないものだけど、それならば、各人がそれぞれの人間関係や関心や趣味に従って特定の人に届ける義援金のほうが有効かもしれない。被災地の再生には、まだ長い時間と大きなお金が必要なのだから。
July 02, 2011
『ビューティフル』 見えないバルセロナ
『ビューティフル(原題:Biutiful)』で素晴らしいのはバルセロナの風景だ。バルセロナといえば反射的に思い浮かぶ燦々と輝く光、青い海、ガウディの建物がある瀟洒な町並みといった観光の定番は、この映画にはまったく登場しない(サグラダ・ファミリアが夕陽にシルエットで浮かぶ短いショットが2度登場することを除けば)。
狭く汚いアパートメントが密集する丘の斜面。その黒々とした俯瞰。そこには不法移民のセネガル人や中国人が暮らしている。目抜き通りはコピー商品を売るセネガル人が警官に追われる場所としてしか登場しないし、海には劣悪な環境のアパートで事故死した中国人たちの死体が浮かぶ。
アパートのシミだらけの壁に浮き出るマリア像。天井にとまる蛾の黒い影。這い回るアリ。雨に濡れる洗濯物。煙突から湧き出る煙。空中のロープには、靴らしきものが吊るされている。そんな空ショットが繰り返し挿入されて、観光客には見えないバルセロナのもうひとつの風景がリアルだ。
ヨーロッパの都市がどこでもそうであるように、バルセロナにも不法移民のコミュニティがある。ウスバル(ハビエル・バルデム)は都市のそんな底辺に子供二人と暮らし、不法労働をあっせんしたりコピー商品を卸したりして生活している。
その一方、ウスバルには霊的能力があるらしい。不慮の死を遂げ天国へ行けない死者の霊を、天国へ送り届ける霊能者としても金を得ている。ウスバルは末期ガンに侵され余命2カ月と宣告されるのだが、苦しみのなかで、部屋の天井に人がへばりついているのを幻視するショットが2度、繰り返される。そんなふうに、リアルのなかにアンリアルな光景が突然差し挟まれてドキッとする。
薬物中毒で精神を病んだ元妻(マリセル・アルバレス)。夫が故国へ強制送還されたセネガル人の妻。ウスバルの二人の子供のハウスシッターである中国人の母子。不法移民を使う中国人ボス(どこかで見た顔と思ったらジャ・ジャンクー『世界』に出ていたチェン・ツァイシェン)と、「恋人」の男。
ウスバルの生活圏にいる人間たちの、貧困や犯罪と隣り合わせに生きる姿が点描される。ウスバルは子供たちのために金を残し、身辺を整理しようとするのだが、彼の善意は必ずしも報われない。その結果、ハウスシッターの母子や中国人移民を死なせてしまう。ウスバルの金を預かったセネガル人女性は、そのまま姿をくらまそうとする。病んだ元妻は、同居した子供たちの心を傷つけてしまう。
僕は「難病もの」映画が好きでないのでほとんど見ないけど、『ビューティフル』で「余命2カ月」を宣告されたウスバルのドラマは完結しない。おそらくウスバルは、人生にカタをつけられず死んでゆくしかないのだろう。辛うじて、ウスバルの父に対する思い(ウスバルの父はフランコ独裁を逃れてカタロニアに来たらしい)を、ウスバルの子供に対して伝えられたのが、かすかな光ということになるのか。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(製作・監督・原案・共同脚本)とロドリゴ・プリエト(撮影)のメキシコ組は、いまハリウッドでいちばん濃密な人間ドラマをつくる映画人だと思う。『アモーレス・ペロス』『21グラム』『バベル』そして『ビューティフル』と、2人の共同作業(『バベル』までは脚本のギジェルモ・アリアガも共通)は、時に過剰すぎる物語の面白さ、描きこまれた人間の彫りの深さ、映像の鮮やかさで際立っている。
ハビエル・バルデムは『それでも恋するバルセロナ』(ウッディ・アレン)に続いてバルセロナもの主演。『それでも恋する…』はセクシーなアーチストだったけど、こちらは底辺で苦悩し、家族のために戦う男。『ノー・カントリー』の不気味な殺人者は極めつけだけど、素顔のインタビューではそんな個性的な男とは見えなくて、役者の凄さを思い知らされた。
July 01, 2011
法輪寺へ
大阪へ泊まったので、翌日は久しぶりに大和路へ行くことにした。法隆寺・中宮寺は30年ぶり、法輪寺・法起寺にいたっては同級生の作曲家・淡海悟郎と高校時代に行って以来だから45年ぶりになる。
梅雨の谷間の猛暑。予報では大阪・奈良は32度、熱中症に注意と言っていた。まだ午前10時だけど、もう30度近いにちがいない。法隆寺駅から歩くつもりだったけど、めげてバスに乗る。
平日でもあり、さすがに人は少ない。金堂と五重塔。
法隆寺は何度か来ているのでさっと見るだけにしようと思ったけど、釈迦三尊像、百済観音、夢違観音など超有名な仏像がたくさんあるので、つい見入ってしまう。
行基が建立した西円堂。ここは拝観料を取られるわけではないから、地元の人が手を合わせていく。
宝物を収める綱封蔵。高床式で、東大寺の正倉院のようなもの。
東大門。法隆寺は建物も金堂・五重塔ばかりでなく国宝がごろごろしていて、西円堂も綱封蔵も東大門も国宝。
中宮寺。久しぶりに如意輪観音菩薩に会う。高校時代に淡海君と来たときこの半跏思惟像に魅せられ、その後しばらく写真を部屋に貼っていたことがある。
ため池のほとりを法輪寺へ向かって歩く。このあたりの風景は昔と変わっていない。にしても暑い。
法輪寺。ここの十一面観音は高さ4メートル近い巨大なもので、杉の一木彫り。平安前期の作。今日のいちばんの目的はこれを見ることだった。昔見たはずだけど、なんの記憶もない。改めて興味を持ったのは、白洲正子が『十一面観音巡礼』で法輪寺の観音について、こんなふうに書いていたから。
「十一面観音には、時々このような大作が見られるが、……それは疫病などがはやった際に、町の中を車に乗せてねり歩いたからで、遠くからも拝めるように、なるべく大きく造る必要があった。この観音様をそうしたというわけではないが、分類すれば『遊行像』の中に入るという。空也や一遍が生まれる以前に、そういう風習があったのは面白いことである。空也上人絵伝には、祇園祭の山車に似た車の上に、観音様をむきだしのまま乗せ、市中をねり歩く図があって、群集がまわりを取り巻いて拝んでいた」
見上げると、さすがに他の仏像を圧して大きい。白洲正子の言うとおりだとすれば、仏像が貴族の占有物だった時代から、民衆が接することのできる時代になったからこその大きさなのだろう。美術品として見ればこれより美しい十一面観音はたくさんあるだろうけど、これは別の目で見るほうがいい。彩色がはがれ、杉の木目が露出しているのが好ましい。
炎天下を法起寺へ。ここの十一面観音も3.5メートルの大きなものだった。法輪寺や法起寺の観音が遊行したという記録はないけれど、これらの観音が山車に乗せられて大和の野をねり歩き、人々が集まって拝んだ風景を想像してみる。
大阪へ戻り、鶴橋駅前の鶴一へ。ビールで喉をうるおしながら遅めの昼食を取っていると、向かいのテーブルに60代くらいのオモニと30代の娘が座った。生ビールと骨付きカルビやミノで楽しそうにおしゃべりし、「お兄さん、テッチャンひとつ追加」と、親子そろって健啖家だなあ。昼間っから母娘でいいねえ。いかにも鶴橋らしく微笑ましい風景で、しばしながめてしまった。
鶴橋に来たら必ずコリア・マーケットのこの漬物屋に寄り、岩のりを買う。これで今夜のビール、明日朝のご飯が楽しみだ。
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