『軽蔑』 死の予感の映像
『軽蔑』はなんとも奇妙な感触の映画だった。
中上健次の『軽蔑』を読んだのはもう20年近く前だから、中身はほとんど覚えてない。でも彼には珍しく若い女性を主人公にしたからか、独特の重く粘りつく文体がスコンと抜け、会話や改行も普通の小説のようで、ずいぶん今ふうになったと感じた(発表は1991年)。もっともいくら今ふうといっても、一世代下の村上龍や村上春樹とはぜんぜん違っていたけれど。
映画『軽蔑』を見て改めて気づくのは、中上の小説を現代文学たらしめていたのはマジック・リアリズムの影が濃い文体の力が大きいということだろう。こういうふうに原作から設定と物語を抜き出してみると実に古風で、中上が明治以降の日本の近代小説のテーマ群を引き受けた作家だったことが改めてよく分かる。
カズ(高良健吾)が演ずるドラマは、父親や裕福な「家」との対立・葛藤であり、都会で「勝手に」暮らすことと故郷で「甘えながら不自由に」暮らすことの葛藤である。共同体の束縛と、それと裏腹の共同体の濃密さと、そこからの脱出の物語でもある。そんな横糸に、縦糸として真知子(鈴木杏)との愛が絡む。どこか漱石や藤村みたいじゃないか。
そんな古風な物語と、それまでの重さをやや今日風に軽くした文体を持つ『軽蔑』を映像化するに当たって、監督の廣木隆一はジャン・リュック・ゴダールの文体を意識したように思える。地方都市(新宮)の無人のアーケード街をさまよいながらカズが死んでゆくシーンは明らかに『勝手にしやがれ』だけど、それだけでなく、手持ちカメラの多用も、主人公に過剰な思い入れをしない突き放した距離感もゴダールのものだ(そういえばゴダールには『軽蔑(Le Mepris)』という作品もある)。
でもゴダールそのままでなく、廣木は手持ちカメラでは新しい映像を試みている。『勝手にしやがれ』以後、ある種の映画では手持ちカメラが多用され、そのぐらぐらと動く不安定なフレームがリアリティをかもし出すことが多かった。でもここでは、手持ちカメラが移動しているのに画面には上下動がなく、すーっと動いていく(NHKの、つい見入ってしまう「世界ふれあい街歩き」で使われている、あれ)。
多分、動きを吸収するステディカムにデジタル映画カメラを乗せて撮影しているんだろうけど、カズの死のシーンだけでなく、町並みにすーっと寄り、すーっと引いていく印象的な映像が繰り返し使われている。静謐で、不気味で、突っ走るカズと真知子の破滅を予感させるものとして僕は見た。ここでは新しい技術が新しい映像を可能にしている。ついでに言うと、新宮駅でカズと真知子が別れる長い長い手持ちカメラのワンシーン・ワンショットも素晴らしい。
音楽もなんだか奇妙だ。デンマークやハイチ系の新しいフォーク・ミュージックが使われていい効果を出しているかと思うと、憂歌団やグッバイマイラブの歌が主人公の心情そのままで、まるで1950年代の古い映画みたいに使われてもいる。新しのか古いのか、よく分からない。
廣木隆一の映画をきちんと見ているわけじゃないけど、文芸映画を新しい感覚でつくる職人肌の監督という印象を持っている。現代的な神代辰巳とでも言ったらいいか。赤坂真理の『ヴァイブレータ』や絲山秋子の『やわらかい生活』(ともに寺島しのぶ主演)なんか特によかった。『軽蔑』もその系列の1本で、新旧いろんな要素が溶け合わずに衝突して変な効果を出しているところが面白い。
それに廣木隆一は、神代辰巳もそうだったけど女優を美しく撮ることにかけては天下一品。寺島しのぶも、『雷桜』(映画の出来はひどかった)の蒼井優も、この映画の鈴木杏も、いわゆる美人顔ではないけれど(下手な監督・カメラマンにかかると3人ともひどいことになる。それだけ個性的で難しい顔なんだろうね)、3人のいちばん美しい表情を思い出すとこれらの作品ということになる。
冒頭で濃い化粧をしていたポールダンサーの鈴木杏が高良健吾と東京を脱出して初めてすっぴんになる車のなかのシーンや、ラスト近く、新宮駅で高良健吾と別れた鈴木杏が列車の窓にもたれて泣くシーンなんか、鈴木杏という女優の魅力に改めて気づかせてくれた。
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