Oharano in Kyoto
ボランティアの用事で大阪へ行き、その足で京都へ回り知人に会ったので、翌日は1日遊ぶことにして大原野へ出かけた。
京都西郊のこのあたりへ来るのは30年ぶり。途中に洛西ニュータウンなどできたけど、大原野まで来れば風景は当時とあまり変わらない。
背後の山は京都西山連峰の小塩山。
一面の竹の林は切り開かれ住宅地になったけれど、まだ竹林がそこここに残っている。
大原野神社の向かいにある正法寺。天平時代に創建された古い寺で、京都の町並みや東山を借景にした庭が有名だ。ここの本尊は三面千手観音。普通の十一面観音は主観音の脇に二面、頭の周囲に八面が乗っているが、ここのは主観音の左右に二つの脇面だけという珍しいものだ。頭の上にも顔のようなものが見えるけれど、どうやらそうではないらしい。
ホームページを見れば分かるように金箔がきれいに残っていて、つくられた当時(鎌倉時代初期)の姿をほぼそのまま見ることができる。光背は仏から放たれる光明を造形化したものだそうだが、デザインが勝ったもので、なるほど暗い光のなかでこれを見れば神々しく感じられたろう。
大原野神社。桓武天皇が長岡京へ遷都したとき、奈良の春日大社を勧請したもの。だから本殿は一間の社殿が四つ並ぶ春日大社と同じ形式。
大原野神社から勝持寺へ抜ける参道。片側は竹林、片側は楓の緑にはさまれて気持ちよい。
勝持寺(花の寺)への石段。白鳳時代の創建と伝えられる古刹で、西行がここで出家し、彼が植えたと言われる「西行桜」で有名になった。
本尊は薬師如来で、その胎内仏の小さな薬師如来も見ることができる。高さ10センチもない小さなもので、渡来仏らしい。
西行が剃髪したという岩と泉。
阿弥陀堂の外にある「なでぼとけ」。仏教を守護する十六羅漢のひとりで鬢頭盧(びんずる)尊者といい、病気の部分をなでることで治癒する民衆信仰の仏さん。
勝持寺と隣合わせた願徳寺(宝菩提院)。今日のいちばんの目的はここの如意輪観音を見ること。有名な仏像だけど、実際に見るのは初めてだ。
寺の門扉は閉められていて、インターホンで開けてもらう。観音が座する本堂も鍵がかかっていて、ご住職が開けてくれる。仏像は有名なのに、堂は新しい建物だし庭もないからだろうか、訪れる人は少ない。このあたりへ来るほとんどの人が花の寺を訪れて、ここは素通りしてしまうようだ。
願徳寺は白鳳時代に創建された古い寺。密教寺院として栄えたが、応仁の乱と信長の兵火によって伽藍のすべてが灰になった。その後、寺は細々と続いてきたが、昭和になって廃寺となり、この仏像は隣の勝持寺に移された。寺が再建されたのは昭和48年、如意輪観音が本堂に戻ったのは平成8年のことだったという。
如意輪観音は、それは見事なものだった。
中宮寺や広隆寺の弥勒に似た半跏の像。平安前期のもので、榧の一木から彫られている。金箔がほとんど落ちているので、見ていると黒光りする木肌の質感に吸い込まれそうだ。ふくよかだけど異国風のきりりとした顔。胸から腹にかけて盛り上がる肉感。身体にからむ流れるような裳の線。
中宮寺や広隆寺の弥勒は古代風な稚拙さとかすかに微笑むアルカイック・スマイルで親しみを感じさせるけど、こちらの造形は完璧と言いたいくらい。ものの本によると唐様式の仏像で、渡来仏か、渡来人の作らしい。いつまで見ていても飽きず、像の前を離れがたい。
市内へ戻り、帰りの新幹線まで2時間ほどあったので鳥辺野へ。京都で時間があくと、たいていここか河井寛次郎記念館へ行く。平安以来の死者が累々と眠る谷。東大路から少し入っただけなのに、いきなり異界にまぎれこんだ気分になる。
寛政とか天保と彫られた江戸時代の商家の墓や、ひときわ立派な戦死者の墓に刻まれた墓誌を読む。ここに眠る兵士の大多数は陸軍歩兵第9連隊に属していた。第9連隊は日中戦争の勃発とともに華北に上陸、非戦闘員大虐殺を起こした南京から徐州へ転戦する。その後もバターン半島、ルソン島で戦い、最後はレイテ島に送られ連隊は壊滅した。
そんな墓誌のひとつひとつを読んでいると、あっという間に時間がすぎていき、気がつくと列車の時間が迫っている。
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