『キラー・インサイド・ミー』 荒涼とした風景
The Killer Inside Me(film review)
この映画、wikipediaを見るとアメリカではさんざん叩かれたみたいだなあ。
映画の暴力描写や性描写について、日米とも似たような業界の自主規制があるけれど、その適用は両国でずいぶん違う。アメリカでは「正常」な性描写には何が写っていようと比較的寛大だけど、「異常」(何が「正常」で何が「異常」かはさておき)な性描写や暴力描写、あるいはドラッグに関する描写には厳しい。
一方、日本では長いことヘアが禁止されていたように、性器が写るとか即物的な描写は厳しく制限されるけれど、描写の底に流れる思想が「異常」な性描写や暴力描写には、性器が写っていない限り規制がかからない。これは性や暴力に関して、何を「許されない」と感ずるか日米の文化の差もあるから、どちらがいいとか悪いの問題じゃないけれど。
『キラー・インサイド・ミー(原題:The Killer Inside Me)』は、女性に対するサディスティックな暴力描写に満ちた映画で、そのためアメリカで批判にさらされたけど、日本では別に話題にもなってない。まあ、単館系の公開だから見ている人も少ないし。
テキサスの田舎町の保安官助手ルー(ケイシー・アフレック)が、町外れで営業している娼婦ジョイス(ジェシカ・アルバ)の家に、町を出ていけと警告しに出かける。ルーを客と間違えたジョイスが彼を「イヌ野郎」とののしると、それまで温厚な青年に見えたルーがいきなり暴力的になってジョイスをベッドに押さえつけ、ベルトを抜いて彼女の尻を叩きはじめる。そんな虐待の後で、彼女に「愛してる」とささやき、ジョイスも彼を受け入れる。
ルーの突然の変貌はつづく。恋人の教師エイミー(ケイト・ハドソン)にも同じ行為をしかける(性描写は「即物的」にはおとなしめ)。ジョイスと共謀して町の実力者の息子から金をむしりとる計画を立てたルーは、息子を殺す前にジョイスにいきなり殴りかかり、「ごめんよ。愛してるよ」とつぶやきながら彼女を殴り殺してしまう。カメラはルーがジョイスを殴りつづけるのを延々と、無表情にながめている。
ルーの行為について、子供のときの体験がインサートされ、それがトラウマとなっているらしいことは分かるけれど、ルーの内面に即して観客が納得できるようには説明されていない。というより、説明は拒否されている。おそらくルー自身にも説明できないのだろう。
普段の温厚なルーと「内なる殺人者」になったときのルーとの対比もことさら強調されず、1950年代のカントリー・ミュージックやブルースやポップスが流れるなか、表情も変えないルーのサディスティックな行為や殺人が説明抜きで繰り返される。1950年代のお気楽な音楽に乗せて、全体は50年代の「良き時代」ふうなつくり(オープニング・タイトルからいかにも50年代)のなかで、突如として挿入される「異常」な性・暴力描写。
それがマイケル・ウィンターボトム監督(イギリス)が採用したスタイル。ただ成功しているかどうかは別問題で、部分部分は激しいし面白いのに退屈するところもあった。
原作はノワール小説で熱狂的ファンもいるジム・トンプスン。僕も10年ほど前、『死ぬほどいい女』を1冊だけ読んだことがある。当時はハードボイルドが好きでノワールはあまり読んでいなかったせいか、トンプスンの荒んだ文体や描写が肌に合わず、続けて読む気が起きなかった。
トンプスンが1940年代から大衆的なパルプ・マガジンに書いたたくさんの小説は言わば読み捨てで、評価されたのは死後。この時代のパルプ・マガジンのライターの多く(レイモンド・チャンドラーら)がそうだったように、ハリウッド映画の脚本を書いて糊口をしのいでいた。
スタンリー・キューブリックの『現金に体を張れ』『突撃』(どちらも面白かった)の脚本を書いたりしているから、才能あったんだ。逆に彼の小説で映画化されたものに『ゲッタウェイ』『グリフターズ』がある。これもどちらも面白かったけど、トンプスンというより監督のサム・ペキンパーやスティーヴン・フリアーズの色が濃かった。
その意味で『キラー・インサイド・ミー』は、トンプスンの荒涼とした小説をそのまま映画化しようという監督の意図ははっきりしている。「正常」と「異常」を分かつものなどどこにもないノワールな世界を描こうとした挑戦的な失敗作、とでも言ったらいいのか。
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