『トゥルー・グリット』 武装する権利
『トゥルー・グリット(原題:True Grit)』の原作はチャールズ・ポーティスの同名の小説で、1969年にジョン・ウェイン主演で映画化され(邦題『勇気ある追跡』)、ジョンがそれまでどうしても取れなかったアカデミー主演男優賞を遂に手に入れた。
僕は残念ながらこの映画を見てない。でも、この映画と比較することで、たぶんいろんなことが分かるだろうと思う。だからこれから書くものは、1969年版を見て書き直すまでの暫定的なメモとしておきたい。
1969年といえば、アメリカン・ニュー・シネマの絶頂期だ。この年、西部劇では『明日に向かって撃て』と『ワイルドバンチ』があり、ほかに現代的西部劇の要素も持つ『イージー・ライダー』と『真夜中のカーボーイ』があった。
西部劇は明らかに変わっていた。『明日に向かって撃て』のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードはジョン・ウェインに代表されるそれまでの西部劇のヒーロー像とかけ離れていたし、『ワイルドバンチ』を監督したサム・ペキンパーは西部劇というジャンルそのものが黄昏にあることを知っていた。翌1970年には、白人が善でインディアンが悪という図式をひっくり返した『ソルジャーブルー』がつくられる。どの映画も、背後にベトナム戦争の影が射していた。
そんな時代に、『勇気ある追跡』はあまりにも古い、昔ながらの西部劇と評されたように記憶している。ジョン・ウェインのアカデミー賞受賞には何をいまさらと冷笑的な気分があり(彼は熱心なベトナム戦争擁護派でもあったし)、僕自身もそう思った。
コーエン兄弟が、この小説をもう一度映画化しようと思ったのは、型通りの西部劇(だっただろう)『勇気ある追跡』を、もう一度、現代的に語り直してみようという意図があったに違いない。それはある意味で成功している。
舞台はコーエン兄弟がいちばん好む西部の不毛の荒野。辛うじて法が支配しているアーカンソーの開拓最前線の町・フォート・スミスと、川の向こうに広がる、法の及ばないインディアン居留地を登場人物が行き来する。
冒頭、鉄道の終点フォート・スミスで汽車を降りた少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)が、犯罪者に縛り首が執行されるのを目撃する(処刑される3人のうち1人はインディアン)。ロングショットで捉えられた広場で、いきなり3人の足場がはずされ吊るされる不意打ちのショットから、見る者の神経を痛打するコーエン兄弟らしさは全開だ。
父を殺した男を捜すマティと、彼女に雇われた保安官ルースター(ジェフ・ブリッジス。1969年版はジョン・ウェイン)が居留地を馬でゆくと、大木から男がストレンジ・フルーツのように吊るされている。その後、鉈で手指を叩き切るショットなどもあって、ハリウッド的な抑制(上品さ?)は見られない。むき出しの生と死。その舞台になる、絵のように美しい冬の荒野。こんな美しく残酷な映画をつくらせたら、ハリウッドでコーエン兄弟の右に出る者はない。
そんなコーエン兄弟らしさを堪能しながら、でも映画を見終わって、あるしこりが残った。それはこの小説(映画)のテーマにかかわることだ。
仇討ちというテーマは、どこの国にもある。日本でも、曾我兄弟が父の仇を討つ「曾我物語」に始まり「忠臣蔵」など、仇討ちは昔も今も最も好まれる物語のひとつ。でもアメリカ人が『トゥルー・グリット』を見るのと、日本人が『忠臣蔵』を見るのとは、その意味がだいぶ違うのではないか。日本人があくまで昔の物語として楽しむのに対し、アメリカ人はもっとリアルな、自分にかかわる話として見ているはずだ。なんといってもアメリカは合衆国憲法で、国民が武装する権利が謳われているのだから。
小説『トゥルー・グリット』は、アメリカの教科書にも採用されたという。殺人の罪を犯して法の支配が及ばないインディアン居留地に逃げた男を、武装した少女と保安官(といっても賞金稼ぎと法の執行者の中間のような存在)が追い、最後に少女が男を銃で殺して復讐を果たす。自分の意思をはっきり持ち、どんな困難にもめげない少女。酔いどれだけどユーモアを忘れず、命がけで少女を助けて法の支配を実現する男。それがアメリカ的な精神の核ということなのだろう。
映画を見ながら、少女は男に復讐を果たした後、どんな表情をするのだろう、と思っていた。満足の笑みを浮かべるのか、それとももっと複雑な表情を浮かべるのか。その表情によっては、全体としてアメリカ的精神を称揚しながら、それに対する疑いを見る者に喚起することもできる。映画のワン・ショットは、それくらいの力を持っているのだから(クリント・イーストウッドが『父親たちの星条旗』で、戦意高揚に駆り出された兵士たちを描きながら、その一人の先住民系兵士が星条旗を捨てるようにも見える1ショットをはさみこんで、映画全体の意味をゆさぶってみせたように)。
でも少女が銃を撃った瞬間、彼女自身も銃の反動で穴にころがり落ちる。そこにはガラガラヘビがいて、次のサスペンスがはじまる。これで終わったと思った観客は、またハラハラさせられるのだけれど、なんだかコーエン兄弟にはぐらかされたような気もした。
この映画はハリウッドの審美的な枠をゆさぶったけれど、アメリカ多数派の精神の核をゆさぶることはなかった。いや、むしろそれを強化したかもしれない。それが『トゥルー・グリット』が米国内で商業的に成功した理由なのだろう。保守派の牙城である全米ライフル協会は、『トゥルー・グリット』を喜んだのではないかな。少女が父の形見の銃を手にして復讐を決意するシーンなど、この映画は銃の力と美しさを強調している。それともこんなことを考えること自体が、刀狩り以来武器をもった経験のない民の軟弱な感想だろうか。


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