『悲しみのミルク』 歌とじゃがいもの生命力
The Milk of Sorrow(film review)
地震と津波から1カ月。連日被災地の報道に接しつづけているうち、見る側も感情の容れ物の許容量を超えてしまったのか、中継を見ても、死者と行方不明者の合計が2万8000人近くなったと聞いても、最初の数日間ほど感情が動かない自分を発見して愕然とする。亡くなった人、まだ見つかっていない人だけでなく、家族を失った人、家を流された人、原発事故で避難を強いられている人も含めて、そこには被災した人の数だけ悲しみがある。
時間の経過によるものか、想像を絶する犠牲者の数によるものか、報道するメディアの姿勢によるものか、それとも受け取る側の心の問題か、そのいずれでもあるのだろうが、一方で福島原発はまだ深刻な状態にあるのに、他方そのようなある種の「馴れ」が自分のなかに生まれている。
そんなときにペルー映画『悲しみのミルク(原題:La Teta Asustada)』を見て、ずっしりした悲しみの塊を手渡されたように感じた。自分が行ったこともない、ほとんどなにも知らない国の少女の物語だけれど、素手で悲しみの塊に触れたような感触と重さは自分の心の「馴れ」を撃って、共鳴する心を呼びさまされたように感じた。映画(や小説、つまり芸術)というフィクションは、それだけの力を持っているのだ。
ファウスタ(マガリ・ソリエル)は、首都・リマ近郊のスラムに住む先住民の少女。彼女は死にゆく母から二つのものを受け継いだ。ひとつは、母の母乳を通して伝わると信じられる「恐乳病」によって、母が体験した深い恐怖の感情。「恐乳病」はファウスタが行った病院の医師(近代科学)によって否定されてしまうけれど、インカ帝国をつくった民、ケチュア族に属するファウスタや家族の叔父にとっては、まぎれもない現実だ。
そして母が体験した深い恐怖とは、1980年代に活動した毛沢東主義者グループ「センデル・ルミノソ」と、それを弾圧する国軍の双方によって農村で繰り広げられた殺人やレイプなどのテロによって刻印されたものだ。その恐怖を受け継いだファウスタは、一人で外を歩けず、レイプを恐れ女性器のなかにじゃがいもを埋め込んでいる。
ファウスタが母から受け継いだもうひとつのものは、歌。母は、恐怖の体験を即興的な詩とメロディに乗せて娘に伝えた。ケチュアの血を受け継ぐアタウアルパ・ユパンキが歌うフォルクローレの祖形みたいなものだろう。ファウスタは歌によって母とつながり、歌うことによって辛うじて命をもつないでいる。
この映画ではまた、ふたつの対照的なテーマと、ふたつの対照的な場所が設定されている。
母の死と、母から伝えられた恐怖と死の感情に捉えられれ、他人と交われないファウスタ。彼女は、つぶやくように母から教わった歌を歌う。一方、ファウスタが同居する叔父の娘は、間もなく結婚しようとしている。叔父の仕事は結婚式請負業。山の斜面に広がるスラムを舞台に、野外で結婚の儀式とパーティが繰り広げられる。ファウスタの歌も心にしみるけど、パーティーでバンドが演奏するテクノ・クンビア(ケチュアの民族音楽がエレキ楽器に乗ってポップ化したもの)のチープで陽気な音がまたいい。一方の祝祭と、他方の死。
ふたつの場所も対照的だ。ファウスタと叔父の家族が住むスラムは、リマ近郊でプエボロ・ホベン(新興の町)と呼ばれる貧民街。緑のまったくない山の長い石段を登っていくと、斜面いっぱいに広がる貧しい住宅の群れを捉えたショットが素晴らしい。そこには、テロに荒れる農村を捨てて都市へ逃げてきた先住民たちが不法占拠して住んでいる。
死んだ母の遺骸を故郷の村に葬るための金がないファウスタは、リマの裕福な音楽家の邸宅にメイドとして住み込む。にぎやかな町なかに高い塀をめぐらし、庭師の手で丹精された緑(リマは砂漠につくられた都市なので、緑を維持するには大変な金と手間がかかる)に囲まれる邸宅には、スペイン系の高名な女性音楽家が住んでいる。
ファウスタは先住民の住むスラムと、スペイン系白人が住む都会の邸宅を往復する。コンサートを控えスランプに陥った音楽家は、真珠と引き換えの約束でファウスタの歌を自分の曲として発表した上、約束も破ってしまう。かつての支配-被支配の構造がそのまま残る社会。
言葉もまたふたつの言語が交差する。ファウスタたちはケチュア語とスペイン語を話す(話さざるをえない)。ファウスタと母はケチュア語で会話するが、商売をしている叔父はスペイン語を話す。ファウスタは音楽家の邸宅でスペイン語を話すことになるが、先住民系の庭師とだけはケチュア語で会話する。
印象的な場面がある。朝まで続いたパーティーの後、叔父が眠り込んだファウスタの鼻を手でふさぐ。苦しくなって身をよじり、起き上がって逃げ去るファウスタに、それまでスペイン語をしゃべっていた叔父がケチュア語で語りかける(松崎文音の指摘。僕は言語が変わったのに気づかなかった)。「お前は息をしてるじゃないか。生きるんだ」。素晴らしいシーンだ。
ファウスタの女性器に埋め込んだじゃがいもはなお生命力を持ち、芽を出す。ファウスタがそれを切るシーンが2度出てくる。痛ましくもあり、ユーモラスでもあり、このシーンだけでなく、映画全体がそんな空気に支配されている。
南米文学の特徴はマジック・リアリズムと言われるけれど、恐怖が遺伝する「恐乳病」といい、じゃがいものシーンといい、この映画もマジック・リアリズムに深く根ざしている。もっともそれは西洋世界の側からの命名で、ファウスタたちにとってはマジックでもなんでもなく、リアリズムそのものだろう。この映画のファウスタも母も特定の名前を持った個人だけど、同時にケチュア族の誰でもありうる(あるいは悲しみを抱えた誰でもありうる)寓意劇にもなっている。
監督のクラウディア・リョサは、作家・バルガス=リョサの姪。すごい才能がいるもんだ。撮影は『シルビアのいる街で』のナターシャ・ブレイア。前のは透明感あふれる映像だったけど、こっちの濃厚なやつのほうが、ぐんといい。
Comments
こんばんは。
素晴らしい映画でしたよねぇ。
震災後、題材によっては集中できない映画もあったりしたのですが、本作はスーっと染み入ってきそうですね。
"それまでスペイン語をしゃべっていた叔父がケチュア語で語りかける"というシーンがあったんですね。
今度再見の予定なのでそこに注目してみよう。
ペルー映画ってめったに見る機会はないですが、稀な一作がこんなにエクセレントとは。
Posted by: かえる | April 12, 2011 11:58 PM
僕もペルー映画を見るのは多分初めてだと思います。リョサ監督はアメリカで映画を学び、スペインで仕事したりしてるようですね。このところメキシコやブラジルの映画が面白いですけど、もっとこの地域の映画をたくさん見たいものです。
Posted by: 雄 | April 15, 2011 11:04 PM