『SOMEWHERE』 メローな空虚
「俺は空っぽの男だ」。ハリウッドの人気役者・ジョニー(スティーヴン・ドーフ)が電話口で別れた妻につぶやくシーンがある。
国際的な賞をもらい、次回作も決まって役者として充実しているように見えるジョニーだけれど、私生活は「シャトー・マーモント」(セレブが泊まるので有名なLAのホテル。監督のソフィア・コッポラは父のフランシス・F・コッポラとここに滞在したことがある)でひとり暮らし。パーティーと酒と女とフェラーリの日々を送っている。
冒頭、ジョニーがフェラーリを駆って目的もなく周回道路を回る長いシーンがある。カメラは周回道路の左右を切ったフレームで手前に据えられ、独特のエンジン音を響かせたフェラーリが画面から出たり入ったりしながら道路を回るのをじっと見ている。観客はいったい何をやっているのかととまどい、物語が進むにつれジョニーが心の内に抱えこんだ空虚に気づくことになるのだが、カメラはそんなジョニーを冷たく突き放すわけでなく、かといって寄り添うわけでもなく、温かな傍観者といった視線を守っている。
ホテルの自室になじみのポールダンサー(双子のブロンド美女)を呼んで踊らせる。テラスのジョニーを見た女性客は、自分から胸を開いて誘いをかける。女には不自由しない。ベッドでは共演の女優の下着に手をかけながら途中で眠り込んでしまう。
そんなところへ、娘のクレア(エル・ファニング)がやってくる。母親は何かの事情があって娘をジョニーに押しつけ姿をくらましてしまう。11歳になったクレアとの日々が、ジョニーの心に少しずつ変化をもたらす。
大筋はそんな展開なんだけど、ジョニーの空虚とメランコリーがこれみよがしに強調されることはない。ジョニーの行動と言葉だけを追って内面描写をしない。『ロスト・イン・トランスレーション』でもそうだったけど、そのあたりがソフィア・コッポラの品の良さなんだろうな。
音楽も必要以上に鳴らないけれど、さりげなく新らしめの曲やプレスリーの「テディ・ベア」、ブライアン・フュリーの「煙が目にしみる」なんかの懐かしい曲が効果的に挿入される。
結果として、映画全体に透明で、メローな空虚感とでもいった空気が漂っている。ハリウッドのセレブが金にまみれた生活に倦み、戻ってきた娘と送る日々に充実を覚える。その父と娘との戯れは見ていて快い。だけど、それだけ。娘との日々に喜びを覚えるといっても、それは父親として自然の感情ではあっても、それ以上でもそれ以下でもない。その快い空っぽの空気に、僕はまったく乗れなかった。僕は古いタイプの映画好きだから、ソフィアなりのスタイルでジョニーの心の内にもっと踏みこんでくれないと。
(以下、ネタバレです)ラスト、ホテルを引き払ったジョニーはフェラーリに乗って娘のいる夏のキャンプ地へ向かうのだが、途中、フェラーリを道端に乗り捨てて「どこか(somewhere)」に向かって歩き出す。でもなあ、エンドロールが終わるころには思い直してまたフェラーリに乗ったんじゃないの? などと思ってしまった。
僕がプールつきの高級ホテルにもフェラーリにも縁がないせいか、それとも地震と原発事故のニュースに頭がいっぱいの身には遠い世界に感じられたからなのか、それは分からない。しばらくして見ると、ぜんぜん別の印象を持つかもしれないけれど、ヴェネツィア映画祭金獅子賞で期待したせいもあり、正直がっかりした。しかしエル・ファニングは姉貴にも増してかわいいいなあ。
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