『トスカーナの贋作』 ウインドー越しの風景
アッバス・キアロスタミはホウ・シャオシェンと共通するところが多いなあ、と思っていた。
もともとテオ・アンゲロプロスあたりから始まる反モンタージュの流れのなかで出てきた監督だから、二人とも据えっぱなしのカメラ、長回しのショットが基本。がっちりした演出を好まず、登場人物を自由に泳がせる。その上、子供を撮るのがうまい。列車や車など移動が大好き。だから二人の映画の素材やテーマは異なっても、画面から受ける柔らかな印象は、とてもよく似ている。
イタリア南トスカーナの小さな町を舞台にした『トスカーナの贋作(原題:Copie Conforme)』も、キアロスタミのそのような感触の映画だった。映画が始まってすぐ、主人公の女性(名前は明示されない。ジュリエット・ビノシュ)と小学生の息子がカフェで会話するシーンがある。男の子の表情がなんとも生き生きしていて見惚れてしまう。
ギャラリーを経営する「彼女」は英国人作家ジェームズ(ウィリアム・シメル)の講演会に招待され、翌日、彼を店に招く。店を訪れたジェームスと彼女は、近くの町までドライブすることになる。ここでまたキアロスタミらしい、長い長い車のシーンが出てくる。『そして人生はつづく』も『桜桃の味』も車が重要な役を果たしていたけど、この映画でも車をめぐる映像が興味深い。
フロントグラスの前に据えられたカメラは、運転席の彼女と助手席のジェームズを捉えている。フロントグラスに街路が映る。狭い石畳の道と石の建物。舞台になる町を風景ショットとしては写さず、フロントグラスへの反射とリアウィンド越しに捉えるのみ。郊外へ出ても、主人公の横顔の背後にあるガラス越にしか風景を映さない。視野はごく限られている。だからトスカーナの美しい町も黒々とした糸杉が印象的な風景も、引いたショットや俯瞰のショットがほとんどなく(1カットあったかどうか)、全体像を見ることができない。
引きのショットや俯瞰ショットは、写している対象の全体像を見せることになるから、見る者は映画の舞台はこういうところなのだと脳のなかに位置づけ、安心することができる。だから引きのショットや俯瞰ショットは説明的な役割を果たしている。ところがこの映画は説明的な全体像のショットをほとんど使わず、遂に最後まで部分の映像で通す。イラン人のキアロスタミにとって初めてイタリアで撮る映画なのに、風光明媚な風景をほとんど写さない。この徹底がまたキアロスタミらしい。
全体が見えず、部分しか見えない。これは僕たちが送っている日常に近い。僕たちの日常で全体が見渡せることなどほとんどない。全体も見えず、起承転結もなく、部分が延々とつづく。数時間で起承転結のドラマを見せてくれるハリウッド的な映画的時間と空間に対して、別の時間と空間が試みられている。
「彼女」とジェームズは初め他人同士のように見えるけれど、ドライブした町のカフェで夫婦に間違えられたのを境に、ジェームズは彼女の離婚した元亭主のようにふるまい、話しはじめる。果たしてジェームズは元の亭主だったのか、それとも他人である作家がゲームとして元亭主を演じているのか、いずれとも判断がつかない。大人の男と女の恋愛もののように見えた映画は、ここから迷宮に入り込むような気配になる。
彼女と元亭主(を演じる男)はレストランで食事しながら、互いのすれ違いを再現するような口論をするかと思えば、新婚の夜に泊まった宿では、かつてそうだっただろう親密とエロスの気配を漂わせる。
ジェームズの書いた本のタイトルは「贋作」で、講演もまた「本物を証明する意味で贋作にも価値がある」というオリジナルと贋作をめぐる話だった。彼女とジェームズが訪れた町の美術館には、「本物より美しい贋作」と言われる「トスカーナのモナリザ」の贋作が展示されている。ふたりは歩きながら、また美術館で、そのことをめぐる会話を交わす。
本物と贋作をめぐるテーマが、二人の関係に重なってくる。乱暴に言ってしまえば、「彼女」とジェームズが元夫婦であろうと他人であろうと、つまり本物であろうと贋物であろうと、どちらでもかまわない。この映画で示される「彼女」とジェームズは、固有名を持たない男と女の原形的な関係なのだと言えないだろうか。
映画は、教会の夜9時の鐘(ジェームズが町を出るための列車の時刻)とともに、何の解決もなく突然に終わる。町や風景を俯瞰する映像が示されなかったように、映画も見る者が納得できる結末が示されないままだから、見終わっても整理がつなかい。つかないままに、細部のなまなましさだけが心に残る。
ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』や『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』で自分のスタイルをとことん突き詰めて見せたように、キアロスタミも自分のスタイルの極北を目指しているように感じた。
キアロスタミが初めて外国で撮った作品。次回作は日本が舞台とも聞いた。キアロスタミの映画は表面的には政治的メッセージのないものだけれど、その肌合いは現在のイスラム原理主義政権の強面な姿勢とはまったく異なる。クルド系イラン人監督、バフマン・ゴバディ監督は、『ペルシャ猫を誰も知らない』など体制批判の映画をつくって国外に出ることを余儀なくされた。キアロスタミもまた似たような状況にあるのだろうか。心配だ。
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