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March 30, 2011

14年前の警告

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introducing an sssay about huge earthquake and nuclear power plant

庭のヒマラヤ雪ノ下。

地震学の石橋克彦(神戸大)が1997年に発表した「原発震災~破滅を避けるために」(「科学」1997年10月号、岩波書店)では、今回の福島第一原発の事態が「14年も前に恐ろしいほどの正確さで想定されていた」と毎日新聞が紹介している。

この論文を読むと、うーむ、たしかに原発設計時の想定を超えた地震や津波が起こりうること、非常電源を含めすべての安全装置が効かなくなる事態が起こりうること、建設後数十年を経た劣化で圧力容器すら破壊されかねないことなどが指摘されている。石橋は2005年の衆議院の公聴会でも同じ意見を述べているが、結局、これが生かされることはなかった。

石橋の論文を読んで、ほら、すでに予言されていたんだよ、などと言ってもあんまり意味はない。それよりもここでは、現在いちばん危険なのは、予想される東海地震の震源域に建てられている浜岡原発であると指摘されている。また、日本海側の原発も危険から免れないとも述べられている。

といって、終末論ふうな不安を煽るのは逆効果。この論文は思想的な反原発でなく、地震学者としての学問的なもの。ここで指摘された問題が根拠をもったものであることが現実によって証明された以上、こうした認識を多くの人が共有し、この国の原発をどうするのか、広く議論することが大切なんだと思う。

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March 28, 2011

別所沼にも被害

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a little damege by the quake in my neighborhood

地震後はじめて別所沼へ行ったら、沼の周囲と公園が一部立ち入り禁止になっていた。浦和は被害がないと思っていたら、沼の周囲が陥没したらしい。被災地や液状化が起きた浦安とは比較にならないけれど、身の回りの風景が変わっているのを見ると、改めて地震の大きさを感ずる。

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陥没した岸辺。

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20センチほど段差ができた遊歩道。昔は沼の周囲は低湿地だった。そこを乾かして遊歩道と公園をつくったから、もともと地盤は悪い。

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立ち入り禁止になってはいても、ここは日向ぼっこに最高の場所だからなあ。

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March 27, 2011

人災なのか?

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a man-made disaster(?) at the Fukushima

庭のレンギョウ。

政府は福島第1原発について、「予断を許さない状態」と言っている。1号機から3号機までのタービン建屋に、高濃度の放射能に汚染された水がたまっている。これが何を意味しているのか。原子力資料情報室の会見で元原発技術者が解説しているが、1号機では圧力容器か配管が損傷し、そのなかに閉じ込めておかなければならない冷却水(高濃度に汚染されている)が漏れ出した冷却材喪失事故が起こっている可能性があるという。

1号機については政府発表のデータからそれが読み取れるが、3号機も同じような事態になっている可能性がある(後記:2号機タービン建屋にたまった水からも高濃度の放射線物質が検出された)。また圧力容器の底が一時、設計時の想定以上の熱を持ったが、冷却水が減ったために露出した燃料が溶け出し、底にたまっている可能性があるという。ここから先は素人考えだから間違っているかもしれないけれど、これが進行して圧力容器や格納容器の底を破壊することになれば、いわゆるチャイナ・シンドロームという最悪の事態になるのではないか。

まずは汚染された水を排出し、漏れ出した個所を見つけて修復し、冷却機能を回復させなければならない。時間との戦いになっている。現場で危険な作業をつづけている技術者・作業員に心からの敬意を表し、成功を祈るしかない。

ところで河野太郎のブログに「原子力をめぐる不透明さ」という記事が出ている。

環境エネルギー政策研究所 田中信一郎客員研究員の『「未曾有の津波」は東京電力を免責するのか―土木学会指針と電力業界の関係―』という報告書を紹介しながら、「東京電力は、土木学会が出した指針に基づいて津波の高さを想定していたが、今回の津波はその想定を大きく超えるものだったと言っている。ところがこのペーパーは、指針を策定した土木学会の原子力土木委員会津波評価部会は、電力会社とその身内が大半を占めていて、『第三者性』が疑わしいという」と書いている。

それを見ると確かに、「学会」と名乗りながら「津波評価部会」の委員には東電はじめ電力会社の社員がずらりと並んでいる。主査は東北大学の研究者だが、元は建設省の役人だ。誰が見てもこれを第三者とは言わない。

数日前のニューヨーク・タイムズweb版には、稼動して40年を経た福島第一原発を原子力保安院が点検し、さまざまな不具合はあるが改善することにして運転にお墨付きを与えたのは地震・津波の直前だった、との記事が出ていた(探したけれど見つからない)。添付されていた保安院のペーパーもさっと見たが(専門用語ばかりで素人にはさっぱり分からない)、老朽化した第一原発にお墨付きを与えた責任者は、いまNHKでいちばんよく顔を見る東大教授だった。

原子力資料情報室の仮説や津波のお手盛り基準とあわせて考えると、この事態は人災の要素がいよいよ強くなってくる。


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March 26, 2011

中井久夫の2冊の本

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intoroducing essays about the Kobe earthquake by Nakai Hisao

庭のユキヤナギ。

阪神・淡路大震災で被災した精神科医の中井久夫が、地震直後から神戸大学病院精神科の責任者として被災した患者の救急に当たった体験をつづった「災害がほんとうに襲った時」が、中井と出版社の承諾を得てウェブ上で公開されている。

このエッセイを収録した中井編『1995年1月・神戸』と、続編の中井ほか『昨日のごとく 災厄の年の記録』(共に、みすず書房)は、中井ら精神科の医師たちが地震に直面したとき何を考え、どう行動したかを記録したものだ。刊行されたときに読んで大きな感銘を受けた。2冊の中井のエッセイから記憶に残るところを、なにかの役に立つかもしれないので紹介しよう。ちょっと長い引用になるかもしれないけれど、お許しいただけるだろう。

「初期の修羅場を切り抜けおおせる大仕事は、当直医などたまたま病院にいあわせた者、徒歩で到着できた者の荷にかかってきた。有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。……彼らは旧陸軍の言葉でいう『独断専行』を行った。おそらく、『何ができるかを考えてそれをなせ』は災害時の一般原則である。このことによってその先が見えてくる」(『1995年1月・神戸』)

「ボランティアの申し出に対して『存在してくれること』『その場にいてくれること』がボランティアの第一の意義であると私は言いつづけた。私たちだって、しょっちゅう動きまわっているわけでなく、待機していることが多い。待機しているのを『せっかく来たのにぶらぶらしている(させられている)』と不満に思われるのはお門違いである。予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる」(同)

「私は行き帰りの他は街も見ず、避難所も見ていない。酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする。私がそうならない自信はなかった。……多くの精神科医はPTSDについて語っている。しかし……避難所のようにむきだしに生存が問題である時にはこれは顕在化しない。おそらく仮設住宅に移住した後に起こるのであろう」(同)

「知らない同士がことばを交わし合い、体験を語り合い、涙を流し合った。このことは精神保健上きわめて大きな力があった。アンダーウッド教授は会う人ごとに『もう泣きましたか。泣きなさい』と少々たどたどしさの残る日本語で語りかけていた。避難所は一面ではそのようなふれ合いの場となり、誰かと話すためにだけ避難所を訪れる人もいた。……もっとも避難所にある、スピーカーでの呼び出し、班編成、などの規律への耐性は区々であり、断乎、自動車、いや倒壊家屋の中で生活する人もみられた」(『昨日のごとく』)

「『ふだんより元気になる人』はいってしまえば、軽躁的高揚・過活動状態であり、情緒の不安定を伴い、しばしば精神的視野狭窄を起こし怒りっぽくなり、もちろん涙もろくも、些細なことで痙攣的に笑いころげたりもする。これは、最初の茫然自失、現実喪失に続く状態であり……『反撃の構え』である。おそらく、災害時のこのような高揚と過活動とには理にかなった面がある。……もっとも、この構えは格闘と同じく長続きしない。その限界は今回の災害の体験ではおそらく四、五〇日であって、軍事精神医学にいう『戦闘消耗』が起こる時期に一致する」(同)

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March 25, 2011

もうひとつの「フクシマ50」

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another Fukushima 50

庭のニラの花。

福島第一原発では作業員3人が被曝したことから、3号機も原子炉か配管が損傷しているらしいことが明らかになった。これまでに放出された放射性物質の総量は国際評価尺度で大事故の「レベル6」に相当し(スリーマイル島事故はレベル5)、今も放出のつづく原発を安定させるまで早くとも1カ月かかるという(朝日新聞、3月25日)。

被曝した3人の作業員は、「東電と直接関係のある会社の社員」と「契約先の契約企業の従業員」だった。今、第一原発では数百人の人々が被曝の危険にさらされながら働いているけれど、そうした現場作業員のほとんどは東電社員ではなくこうした人たちだ。いちばん危険な作業が、不安定な雇用と低い報酬の人々によって支えられている。

普段は表に出ることのない彼らについて、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事「地上の星 本当の『フクシマ50』」が翻訳されている。

もっと書きたいことがあるけれど、あと10分で計画停電が始まるのでここまで。

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March 24, 2011

『ブンミおじさんの森』 存在の喜び

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Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives(film review)

『ブンミおじさんの森(英題:Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives)』を見たのは3月9日。翌々日の11日、その感想を書こうとしていたら地震が来た。それからの10日間、とても映画の感想を書く気になれなかった。家々を飲み込んでゆく津波や、水が引いた後の被災地の惨状を見ながら、でもときどきこの映画のいくつかのショットが頭をよぎった。映画はそれだけの力を持っていた。

10日以上たち、しかも地震と津波のすさまじい映像を見つづけたので、映画のディテールはあやふやになりつつある。思いつくことだけでもメモしておこう。

冒頭、真っ暗な画面のなかに、まず音が聞こえてくる。かすかな虫の音。なにものかの気配。低い地鳴りのような響き。画面にかすかな光が射してくると、そこは夜の森。木につながれた水牛の綱が解け、水牛は森のなかにさまよい出る。闇のなかには、生きものの気配が充満している。

場所はタイ北東部にあるラオス国境の村。主人公は病に侵され、死を目前にした初老のブンミ(タナパット・サーイセイマー)。彼は自分の農園に妻の妹ジェン(ジェンチラー・ポンパス)を呼び寄せる。

ブンミとジェンがテラスで食事をしていると、死んだ妻の幽霊がやってくる。行方不明になっていた息子も、体中を体毛で覆われたゴリラか原人のような姿になってやってくる。どうやら森の精霊になったらしい。死者と生者、死にゆく者ら家族4人が話すのを、目の赤く光る精霊の仲間が闇のなかから見つめている。そんな非現実的な出来事が、ごく自然のこととして描かれる。

妻の幽霊が現れるシーンは、昔の映画でよくあった、妻の姿と森の植物を二重映しにする手法。原人のようになった息子は『猿の惑星』みたいな着ぐるみ。目が光る精霊もいかにもローテク。そんなスタイルがいかにも懐かしい気配をかもしだす。映画自体も35ミリでなく16ミリで撮影され、古い映画のような感触がある。

この映画の原題は「前世を思い出せる男」。何の脈絡もなく王女と兵士の愛の場面が出てきて、やがて王女がナマズに変身してしまう。それがブンミの前世なのかどうかは分からない。これも何の脈絡もなく、農村ゲリラが拘束されるシーンが挿入される。1960年代にこの地方でコミュニストが弾圧されたことがあったらしいが、それがブンミの記憶なのかどうかも分からない。

やがてブンミと家族は、死にゆくために森のなかへ入ってゆき、洞窟の奥に身を横たえる。洞窟のなかで、発光する虫なのか、なにか鉱物なのか、星のように光っている。岩の割れ目から、煌々と照る月が見える。ブンミが死んで葬式が行われた後、妻と家族はホテルらしき部屋の一室でテレビを見ている。そんな都市と文明のシーンが最後に挿入され、画面は冒頭と同じく真っ暗になって、森に満ちていた生きものの音で終わる。

生者と死者、動物と植物、鉱物や月。過去と現在。前世と現世。あらゆるものが渾然一体となり、ブンミを取り巻く世界のすべてが震えているのが感じられる。それは存在していることそのものの喜びの震え、とでも言ったらいいだろうか。

「草木国土(そうもくこくど)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」、生きとし生けるもの、草木だけでなく土や鉱物も霊性を持っていて、すべてが成仏できるという仏教思想を思わせる世界だ。そうした生の喜びとも言うべきものを裏側から照らし出すのが、死にゆくブンミ。この映画は、われわれが死者に対してできることは、自らがこの世界に生あるものとして存在している喜びを確認することだ、と言っているようにも思える。

タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画。以前、『真昼の不思議な物体』『アイアン・プッシーの大冒険』という2本を見たことがあるけど、これは彼にとってどちらかといえば脇の作品。はじめて彼の映画の本領を見た。僕は半世紀以上も映画を見ているけれど、こんな映画はかつて経験したことがない。素晴らしい。


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March 23, 2011

メディアについて雑感

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about media reporting the Fukushima

庭の沈丁花の花。どうしてもチェルノブイリで事故後に咲いた花を連想してしまう。

チェルノブイリのような破滅的な事態は食い止められているとはいえ、4基の建物からは絶えず放射性物質が放出されている。いま行われている作業がすべてうまくいっても、原子炉と燃料プールが制御され、冷却されるまでにはまだ時間がかかりそうだ。

野菜や原乳の出荷制限が相次いでいる。「直ちに健康に影響はない」とは、裏を返せば中・長期的には影響が出る可能性がある、ということだろう。放射性物質がふりそそぐ首都圏に住む者として、情報をどう取り、どう判断していくかがいよいよ大事になっている。

1次情報やライブの情報については、NHKテレビをつけっぱなしにし、音を絞って仕事している。情報の解説・分析についてはあまり信頼していない。特に専門家と称する学者は原子力行政に関わってきた人たちだから信用できない。まだ水野解説委員のほうが的確だし、NHKの枠内とはいえ言葉のはしばしで専門家が言わないこと(言えないこと)を言おうとしている。

新聞も読んでいるけれど、今度のような大事件・大事故に際して、こんなに新聞を無力に感じたことはない。長く新聞社に在籍した者として、くやしいけれどそれが事実だ。速報性では勝負にならないのだから、テレビが報じないニュースの発掘、深い分析と解説が必要なのに、僕が目にする限り、それがほとんどなかった。それに比べて、ニューヨークタイムズのweb版は日本では伝えられない情報をいろいろ発掘している。

テレビ映像(視聴者が撮影したものも含め)に対して、新聞のスチール写真の無力さ(あるいはイデオロギー性)が露わになったのもショックだった。このことはいずれきちんと考えてみたい。義捐金の募集についても、ネットに遥かに遅れを取っている。

政府発表で出てこない情報やテレビ・新聞が報じない情報は、ネットと、僕はツイッターをやらないので、いくつかのブログやHPで見ることができるツイッター画面でフォローしている。これは質量ともに玉石混交だから、どう集めるか、それをどう判断するかが問われる。

必ず見るのは「ニューヨーク・タイムズ」と「BBCニュース」。あとは、故・高木仁三郎がつくった「原子力資料情報室」。ほかに立場と評判はそれぞれだが、参考にしているのがジャーナリスト池田信夫のブログ武田邦彦(中部大学)のHPなど。池田信夫はブログとは別のところで、「地震と津波は天災だが、福島原発事故は人災だ」と書いている。その時々でほかにもいろいろ探すけれど、できるだけたくさんの情報を集め、いずれもそのままは信用せず、冷静に判断したい。


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March 20, 2011

封印された(?)映像

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a sealed image

福島原発は大量放水と電源回復の努力でかすかな希望が見えるけれど、まだメルトダウンと放射性物質大量放出の危機は去らない。一昨日、昨日と、つけっぱなしにしたテレビをじりじりする思いで眺めながら、ふっと思ったことがある。

ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が突っ込む瞬間と、崩壊するビルの姿は、「9.11」を象徴する映像として人々の記憶に埋め込まれている。同じように、「3.11」の大地震と津波を映しだした映像は、近代文明社会が大自然によって破壊される瞬間を記録したものとして世界中の人々の記憶に残ることになるだろう。

なかでも、津波がどんな巨大な力を持っているものなのか、部分的にはスマトラ沖地震で垣間見たけれど、今回はそのすさまじい全体像の一部始終をカメラが映し出していた。とりわけ地震発生直後にNHKのヘリが生中継した映像は衝撃だった。カメラは津波が宮城県名取市の海岸を襲い、上陸して濁流となり、田園地帯の家屋や畑、ハウスを次々に飲み込んでいくさまを余さず捉えていた。道路には車が走っている。車は津波に気づいたのか、Uターンして逃げようとしている。津波がその車を飲み込んでいくほんの直前までの映像を、僕たちは声もなく見つめるしかなかった。

名取市を襲った津波の映像は、翌日くらいまで流されたけれど、その後は流されなくなった。もしかしたら、NHKが封印したのかもしれない。といって僕はそのことを批判しようというのではない。人が死ぬ(と分かっている)瞬間や死者を写さないのは、世界中のマスメディアのかなりの部分が共有しているコードだから。そうではなく、ヘリの中継映像が本来映してはいけない場面を図らずも映し出してしまったとき、なにかが露わになったような気がしたのだ。(後記:あるいは被災者のPTSDを配慮したのかもしれない。)

何度か放映されたこの映像を見て僕が思い出したのは、前田哲男『戦略爆撃の思想』という本だった。

航空機の発達は、戦争の質を変えた。ドイツ軍によるゲルニカ爆撃、日本軍による重慶爆撃、連合軍によるドレスデン爆撃は、高高度の航空機から爆弾を投下することによって、戦闘員と非戦闘員の区別なく敵国の国民を殺戮することを可能にした。この戦略爆撃が東京大空襲、広島・長崎につながったことは言うまでもない。

前田は、戦略爆撃が戦争の質を変えたことについて、もうひとつこういうことを言っていたと記憶する。

それまでの戦争は、良くも悪くも敵と近距離で対面し、敵の顔が見える距離で殺し、あるいは殺されていた。しかし戦略爆撃は、敵の顔を見えなくさせた。高高度を飛ぶ爆撃機のパイロットは、自分が投下した爆弾で殺される人間の顔を見ることはない。人間が本来もっているはずの想像力を麻痺させれば、なんの心理的葛藤なしに機械的に投下ボタンを押すことができる。

半世紀後の今日では、アメリカ国内の基地で、アフガン上空の無人機が送ってくる映像を見ながら機体を操り、地上のテロリスト(と米軍が判断した人々)を殺すことができる。そのとき、現実の殺戮とコンピューター・ゲームのなかの殺戮との間に差を見つけることはむずかしい。

そうした、戦略爆撃機の搭乗員が目にする光景を仮に「戦略爆撃の映像」と名づけるなら、僕たちが宮城県上空のヘリが送ってくる映像で目にしていたのは、この「戦略爆撃の映像」ではないのか。いままさに車を飲み込もうとしている津波の映像に感じた無慈悲はどこから来たかといえば、人々が命を失おうとしているのをなす術もなく見ているしかない無力さと同時に、そうした瞬間をライブで見せてしまうことを可能にした近代的なテクノロジーが持っている禍々しさをも直感させたからではないだろうか。


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March 16, 2011

計画停電の町

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scheduled blackouts

浦和も初めての計画停電で、午後3時40分ごろ、電気が消えた。日暮れどきの町に出る。

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交差点は警官が手信号で。車も人もいつもより少ない。

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浦和駅近く、伊勢丹とイトーヨーカ堂の間の、普段ならいちばん人出のある場所。ほとんどの商店が店を閉めている。

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1軒だけ、居酒屋「力」が営業中。ここは浦和レッズのサポーターが集まるので有名な場所だ。

そういえば、「サイバーリバタリアン」池田信夫がツイッターでこんなことをつぶやいていた。「昨晩、あえて友人と飲み歩いてみたが東京の街が完全に死んでる。このままだと娯楽&飲食系から倒産が始まって、その後、各関連業界に連鎖倒産が起こる。『東京の人間は電気が止まっている位で被災者ぶるな。無駄な電気は節約しても、経済はガンガン動かせ』と言いたい。さもなくば次は国全体が沈む」 。

小生、リバタリアンではまったくないけれど、そうだそうだ、頑張ってる「力」に貢献しよう、と一杯飲むことにする。

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店内は満員。ろうそくと懐中電灯の灯りが懐かしい。向かいの会社帰りの兄ちゃんが、「こんなの初めて。なんだか楽しいですね」と、声をかけてくる。こちとら年の功、昭和20年代の停電の経験など話すと、「へぇーっ」と感心してくれて盛り上がる。暗い店内、みんな仲良くなっている。

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これは、わが家の停電対策。音楽なしにいられないのでCDプレイヤーを電池式スピーカーにつなぐ。読書は電池式LEDスタンド。暖房はアラジンのブルーフレーム。この石油ストーブは30年以上も働いている優れものだ。

なお池田信夫blogでは福島原発事故について、「イギリス政府が科学顧問のHilary Walkerなどに依頼して日本大使館に送ってきた、15日現在の影響評価」を紹介している。これをどう考えるかは別にして、参考になる。全訳はこちら。今日も事態は少しずつ悪化しているように思える。危機感をもって、でも冷静に見守りたい。

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March 15, 2011

息をつめて

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introducing an opinion about the earthquake
(庭のヒヤシンス)

2日間、福島第一原発のニュースを息をつめるように見ている。すでにかなりの放射性物質が漏れ出し、最悪の事態もリアルなものとして想定しなければならないが(ニューヨークタイムスは「カタストロフに近づいている」と表現)、最終的なメルトダウンに至って大量の放射性物質が大気に放出されるチェルノブイリ級の事故になれば、その被害は計り知れない。いずれ原発そのものの根本的な見直しは当然のこととして、今はなんとか制御してほしいと祈るばかりだ。

この間、新聞・テレビ・ネットを見ていて、阪神大震災を経験した2人の発言が目についた。

ひとりは神戸大の精神科医だった中井久夫の「忘却こそ被災者の危機」という談話(朝日新聞、3月15日付)。中井は、「僕らは現地の中の声に耳を傾けるべきだと思う」と、こう言っている。

「周りのことが見えるようになった時に、体験を分かち合っていく事がとても大切になる。/忘れられるのが最大の危機だと思う。阪神大震災の時は、各自治体の救援の車が見えただけでも心の支えになった。それから温かいご飯と、ゆっくりと休める場所。災害直後はPTSDの予防にそれが一番重要になる」

もうひとりは、神戸女学院大で教えている内田樹のブログ「未曾有の災害のときに」。内田は、「このような場合に『安全なところにいるもの』の基本的なふるまいかたについて自戒をこめて確認しておきたい」として、「寛容」「臨機応変」「専門家への委託」を挙げている。

「寛容」は、「こういう状況のときに『否定的なことば』を発することは抑制すべきだ」ということ。「臨機応変」は「平時のルールと、非常時のルールは変わって当然」ということ。「専門家への委託」は、ややこみいった議論だけど、結論を言えば「オールジャパンでの支援というのは、ここに『政治イデオロギー』も『市場原理』も関与すべきではない、ということ」。

被災者の立場を体験した人の言葉として、心にとめておきたい。

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March 12, 2011

東北・関東大震災

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Big earthquake

被害の全貌はまだ明らかになっていません。これからまだ犠牲者は増えるでしょう。中継映像を見ながら言葉も出ません。孤立している方々の一刻も早い救出を祈り、亡くなった方に追悼の意を表します。

これを乗り越えるために、たくさんの知恵と汗とお金が必要でしょう。私たちひとりひとりが、できることをやらなければならないと思います。

地震が起きたときは、自宅で仕事をしていました。テレビやオーディオ、食器類を収めた棚がぐらぐら揺れはじめたので、あわてて棚を押さえながら、部屋全体がぎしぎしいうのが不安でした。なにしろ私の家は築80年の古い木造住宅で、建築士の弟から、「大きな地震が起きたら倒壊を覚悟したほうがいい」と言われていましたから。これまでか、と一瞬思いました。

これほどの激しい揺れを体験したことはありません。ずいぶん長い時間に感じました。収まったときは、心底ほっとしました。

見回すと、棚から未使用のCD-Rやビデオテープが落ちています。ほかの部屋では書棚から本が十数冊落ちていました。揺れが激しかったわりに、被害は大したものでなかったのが幸いでした。

外へ出てみると、近所のお宅で大谷石の塀が倒れていました。

これを書いている今、福島第一原発で爆発があったというニュースが入りました。大変な事故になったのかも。

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March 07, 2011

内モンゴルの虐殺

Photo
Genocide on the Chinese Mongolian Steppe(book review)

中東・アフリカで民主化を求める民衆が次々に立ち上がっている。中国は、その動きが漢族だけでなくチベットや新疆ウイグル自治区に波及しないよう必死に抑えている。でも、中華人民共和国(漢民族の帝国)に併合された異民族としてチベットやウイグルと似た状況にあるのに、なぜ内モンゴルではそんな動きが表面化しないのか。楊海英『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上下、岩波書店)は、そんな疑問に答えてくれる。

一言で言えば、内モンゴルでは文化大革命でモンゴル人リーダーはじめ、多数のモンゴル人が徹底的に排除され、虐殺されたからなのだ。

1960年代、毛沢東が発動した文化大革命は内モンゴルから始まった。なぜか。当時、中国はソ連を修正主義と批判し、中ソは対立状態にあった。内モンゴル自治区はソ連と、ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国(外モンゴル)と国境を接している。もし中国が混乱すれば、ソ連と外モンゴルの軍隊が攻め込んでくるのではないか。そう恐れた毛沢東は、内モンゴルの自治組織と軍隊からモンゴル人幹部を「民族分裂主義者」として排除することを決めた。

これには、日本も深く関係するモンゴルの近代史が絡んでいる。

日本が傀儡国家の満州国をつくったとき、内モンゴル東部はその領土とされた。有史以前から農耕する漢民族と敵対してきたモンゴル人は、漢民族からの自立を求めていたから、その手段として満州国の政府や軍に積極的に入り込んだ人たちもいた。満州国では建国大学はじめ学校施設も整備されたので、モンゴル人は初めて近代的な教育機関に学び、近代的な軍隊組織に出会った。高等教育を受けた多くの知識人が生まれ、小さなモンゴル馬に乗る伝統的なモンゴル騎兵は、日本の騎馬部隊に倣って大型馬を導入して近代化した。

満州国が崩壊したとき、内モンゴルのモンゴル人たちは民族自決と外モンゴルとの統一を求めたが、それを拒否したのはスターリンだった。「タタールのくびき」の記憶をもつロシアは、モンゴル人が大同団結することを恐れた。そのため内モンゴルのモンゴル人は、中国国籍の少数民族として生きることを余儀なくされた。

毛沢東は、かつて外モンゴルとの統一を求めた自治区のモンゴル人幹部を信頼していなかった。その多くは日本語を話し、近代的な教養を持っていたから、「日本刀をぶら下げた連中」と呼ばれた。文化大革命が発動されると、彼らは真っ先に「民族分裂主義者」として粛清の対象となった。彼らを告発したのは延安に学んだモンゴル人共産党員だったが、「日本刀をぶら下げた連中」が打倒されると、次には告発したモンゴル人党員も同じ「民族分裂主義者」として漢人党員から弾劾された。

こうして自治区のモンゴル人幹部のほとんどが粛清された。ほかのモンゴル人も、遊牧のための草原を持っている者(つまり大多数のモンゴル人)は「搾取階級」に分類されて打倒の対象になった。批判された者は連日「批判闘争」に引き回され、長期にわたる暴力を受けた。女性への暴行も日常茶飯事だった。当時、内モンゴルのモンゴル人人口は150万人だったが、そのうち35万人が民族分裂主義者とされて弾劾され、3万人が拷問にかけられて虐殺された(5万人、10万人という説もある)。

およそ4人に1人が粛清されたということは、ほぼ全世帯に及ぶわけで、その家族も迫害されたから、つまりはほとんどのモンゴル人が文化大革命で被害を受けたことになる。「階級闘争」の名を借りた「民族抹殺」だったわけだ。

著者の楊海英は中国籍のモンゴル人研究者。1989年に来日し、現在は静岡県立大学で教鞭を取っている。自身の家族や親戚も粛清された経験を持つ楊は、今はひっそり暮らす十数人のモンゴル人元幹部から当時の話を聞き、証言をまとめた。そのなまなましさは、読んでいて胸が痛くなるほどだ。

「鞭で打たれると、体から血が出て部屋のなかの白い壁に散って、壁画のようになりました。やがて、体中が腫れ上がって亡くなったのです。兵士たちと漢人農民たちはその財産を分けました。人民解放軍は百姓からは針一本も糸一筋もただで取らない、と毛沢東は豪語していたけれども、実際はまったくちがっていました」

「トゥメンバヤルという裕福な紳士の娘は有名な美人でした。彼女は燃えている棍棒を陰部に入れられました。肛門と陰部が焼かれて、完全に破壊されてしまったそうです」

「シャラブという老齢の僧がいました。解放軍の兵士たちは硫黄を鼻の穴に入れて虐待していました。そして、最後には熱した鉄のショベルが頭の上に置かれたところ、頭部が炸裂し、脳みそが出てきて、死んでしまいました」

文化大革命の実態がどんなものだったか、今ではさまざまな証言が出ているけれど、少数民族の立場から見たものは少ない。おそらくチベット人やウイグル人も似た体験を強いられたのだろうが、内モンゴルの弾圧は先にあげた理由から徹底していた。最後に著者はこう書いている。

「現在、中国の民族問題は常に『チベット問題』あるいは『新彊のウイグル人の問題』としてクローズアップされているが、内モンゴル自治区は話題にすらならない。これは、内モンゴル自治区に民族問題がないことを決して意味しない。内モンゴル自治区の場合は、声を挙げることのできるモンゴル人がいないのである。モンゴル人エリートたちはすべて文化大革命中に政府と漢人たちに惨殺されたからである。エリート階層を失った一般のモンゴル人たちは怖くてものがいえないのが現状である。惨めにも内モンゴルの実情を世界に発信できなくなった現在、私は本書の出版によって世界の良識ある市民たちが人道的な見地から積極的に中国の民族問題に関与してほしい、と願っている」

つけ加えると、この本は日本語で書かれている。今年の司馬遼太郎賞を受賞した。今後、中国の民族問題を考えるときには必ず参照されるべき本だろう。


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March 06, 2011

『トスカーナの贋作』 ウインドー越しの風景

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Certified Copy(film review)

アッバス・キアロスタミはホウ・シャオシェンと共通するところが多いなあ、と思っていた。

もともとテオ・アンゲロプロスあたりから始まる反モンタージュの流れのなかで出てきた監督だから、二人とも据えっぱなしのカメラ、長回しのショットが基本。がっちりした演出を好まず、登場人物を自由に泳がせる。その上、子供を撮るのがうまい。列車や車など移動が大好き。だから二人の映画の素材やテーマは異なっても、画面から受ける柔らかな印象は、とてもよく似ている。

イタリア南トスカーナの小さな町を舞台にした『トスカーナの贋作(原題:Copie Conforme)』も、キアロスタミのそのような感触の映画だった。映画が始まってすぐ、主人公の女性(名前は明示されない。ジュリエット・ビノシュ)と小学生の息子がカフェで会話するシーンがある。男の子の表情がなんとも生き生きしていて見惚れてしまう。

ギャラリーを経営する「彼女」は英国人作家ジェームズ(ウィリアム・シメル)の講演会に招待され、翌日、彼を店に招く。店を訪れたジェームスと彼女は、近くの町までドライブすることになる。ここでまたキアロスタミらしい、長い長い車のシーンが出てくる。『そして人生はつづく』も『桜桃の味』も車が重要な役を果たしていたけど、この映画でも車をめぐる映像が興味深い。

フロントグラスの前に据えられたカメラは、運転席の彼女と助手席のジェームズを捉えている。フロントグラスに街路が映る。狭い石畳の道と石の建物。舞台になる町を風景ショットとしては写さず、フロントグラスへの反射とリアウィンド越しに捉えるのみ。郊外へ出ても、主人公の横顔の背後にあるガラス越にしか風景を映さない。視野はごく限られている。だからトスカーナの美しい町も黒々とした糸杉が印象的な風景も、引いたショットや俯瞰のショットがほとんどなく(1カットあったかどうか)、全体像を見ることができない。

引きのショットや俯瞰ショットは、写している対象の全体像を見せることになるから、見る者は映画の舞台はこういうところなのだと脳のなかに位置づけ、安心することができる。だから引きのショットや俯瞰ショットは説明的な役割を果たしている。ところがこの映画は説明的な全体像のショットをほとんど使わず、遂に最後まで部分の映像で通す。イラン人のキアロスタミにとって初めてイタリアで撮る映画なのに、風光明媚な風景をほとんど写さない。この徹底がまたキアロスタミらしい。

全体が見えず、部分しか見えない。これは僕たちが送っている日常に近い。僕たちの日常で全体が見渡せることなどほとんどない。全体も見えず、起承転結もなく、部分が延々とつづく。数時間で起承転結のドラマを見せてくれるハリウッド的な映画的時間と空間に対して、別の時間と空間が試みられている。

「彼女」とジェームズは初め他人同士のように見えるけれど、ドライブした町のカフェで夫婦に間違えられたのを境に、ジェームズは彼女の離婚した元亭主のようにふるまい、話しはじめる。果たしてジェームズは元の亭主だったのか、それとも他人である作家がゲームとして元亭主を演じているのか、いずれとも判断がつかない。大人の男と女の恋愛もののように見えた映画は、ここから迷宮に入り込むような気配になる。

彼女と元亭主(を演じる男)はレストランで食事しながら、互いのすれ違いを再現するような口論をするかと思えば、新婚の夜に泊まった宿では、かつてそうだっただろう親密とエロスの気配を漂わせる。

ジェームズの書いた本のタイトルは「贋作」で、講演もまた「本物を証明する意味で贋作にも価値がある」というオリジナルと贋作をめぐる話だった。彼女とジェームズが訪れた町の美術館には、「本物より美しい贋作」と言われる「トスカーナのモナリザ」の贋作が展示されている。ふたりは歩きながら、また美術館で、そのことをめぐる会話を交わす。

本物と贋作をめぐるテーマが、二人の関係に重なってくる。乱暴に言ってしまえば、「彼女」とジェームズが元夫婦であろうと他人であろうと、つまり本物であろうと贋物であろうと、どちらでもかまわない。この映画で示される「彼女」とジェームズは、固有名を持たない男と女の原形的な関係なのだと言えないだろうか。

映画は、教会の夜9時の鐘(ジェームズが町を出るための列車の時刻)とともに、何の解決もなく突然に終わる。町や風景を俯瞰する映像が示されなかったように、映画も見る者が納得できる結末が示されないままだから、見終わっても整理がつなかい。つかないままに、細部のなまなましさだけが心に残る。

ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』や『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』で自分のスタイルをとことん突き詰めて見せたように、キアロスタミも自分のスタイルの極北を目指しているように感じた。

キアロスタミが初めて外国で撮った作品。次回作は日本が舞台とも聞いた。キアロスタミの映画は表面的には政治的メッセージのないものだけれど、その肌合いは現在のイスラム原理主義政権の強面な姿勢とはまったく異なる。クルド系イラン人監督、バフマン・ゴバディ監督は、『ペルシャ猫を誰も知らない』など体制批判の映画をつくって国外に出ることを余儀なくされた。キアロスタミもまた似たような状況にあるのだろうか。心配だ。


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March 01, 2011

大西順子を聴く

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Onishi Junko trio(jazz live)

大西順子をライブで聴くのは何年ぶりになるだろう(2月26日・表参道BLUE NOTE)。

バークリーを出てジョー・ヘンダーソン・カルテットのピアニストを務めたりテレンス・ブランチャードと共演したりして帰国したのが1992年。たしかその年か、翌年あたり、六本木のアルフィーへ聴きにいった。

嶋友行(b)、原大力(ds)のトリオだったと思う。早くて力強いごりごりのピアノで、音だけ聴いているとアフリカ系の男のピアニストとしか思えない。途中、店のオーナー・日野元彦が、オレにも叩かせろと言って原に代わって入った。そのくらいの迫力があった。

それから20年近く。2000年から7年間はジャズの現場から姿をくらましていた。復帰してアルバムを2枚出しているけれど、それは聴いてない。

Reginald Veal(b)とGregory Hutchinson(ds)のトリオ。うーん、ずいぶん変わっていましたね。曲は大西のオリジナルが多い。いわゆるジャズっぽいリズムとフレーズを極力抑えた演奏。かつての大西とは違ったソフトなタッチや、はっとするような沈黙の間もある。美しいメロディもある。低音をがんがん叩くのは昔と変わっていない。途中、1曲だけ、ドラムにそそのかされて、かつての大西順子のごりごりのピアノも聴けた。変幻自在。そんな印象を受けた。

沈黙している間、「自分の音楽」を模索していたんだと思う。デビュー当時のピアノは、日本では評価されたけど、アメリカにはこのクラスのピアニストはざらにいるし、誰のものでもない個性も、彼女自身の自己評価としていまひとつだったんだろう。どんなにうまいジャズをやっても、所詮はアメリカ人ジャズマンの真似にすぎない。才能ある日本人ジャズ・プレイヤーが突き当たる疑問に、大西順子も捉われたのかもしれない。

かつての大西順子を期待するとはぐらかされるけど、新しい大西順子をもう少し追ってみたい。

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