Coldfish(film review)
浴室で死体をばらばらにし、「ボディを透明にする」(登場人物は死体を誰にも分からないよう処理することをこう呼ぶ)シーン。連続殺人鬼の村田(でんでん)と、その愛人・愛子(黒沢あすか)、ずるずると犯罪に引き込まれた主人公・社本(吹越満)の三人が血みどろになり、切り刻んだ肉や内臓にまみれる。そんな凄惨な映像が延々と続く。
その場面を見ながら、これに似た映像をどこかで見たことがあるな、と既視感を持った。映画を見終わった後で思い当たったのは、映画でなく小説だった。桐野夏生の『out』(映画では遥か昔に見た『青春の殺人者』もあったけど)。
『out』の主人公の女性たちが殺してしまった男を風呂場でばらばらにするシーン。桐野は死体を切り刻み、ビニール袋に入れて家庭ゴミとして処理するまでを、読む者に映像を喚起させる文体でたっぷりと細密描写してみせた。それが映像の記憶として脳内に残っていたらしい。
小説も映画も、何年か前に現実に起きた犯罪から発想されているのは共通している。浴室と死体処理という日常と非日常の奇妙な取り合わせが、二人の作家の想像力を刺激したんだろう。小説『out』は桐野のミステリー・ジャンルでの傑作になったけど、園子温(その・しおん)監督の映画『冷たい熱帯魚(英題:Coldfish)』もそれに匹敵する衝撃的な作品になった。
『out』にも『冷たい熱帯魚』にも共通する浴室での死体処理場面だけど、桐野とは違ってここがいかにも園子温と思わせることが二つある。
ひとつは、この血みどろの浴室での死体処理が一度ならず、二度までも繰り返されること。僕はこういう画面を見てもなんともないほうだけど(せいぜい今晩はレバーを食べたくないな、程度で)、これだけしつこく、どぎつくやられると、さすがに辟易してくる。その過剰さが、いかにも彼らしい。
この映画はヴェネツィアはじめ10を超える海外映画祭に出品されているけれど、欧米人観客の反応はおよそ想像がつく。そんな海外映画祭への次々の出品は、どうだ、これに賞を与えられるか、という挑発のようにも見える。
もうひとつは、この死体処理がキリスト教の教会を思わせる建物のなかで行われていること。死体を運び込む古びた日本家屋の屋根には十字架がかけられ、イルミネーションがつけられている。ここは殺人鬼・村田の父親の家で、父はどうやら異端のキリスト教祭司だったらしい。死体とともに家に入った村田は、「子供のころ、ここに閉じ込められた」とつぶやくから、父親へのねじれた愛と近親憎悪に満ちた空間なのだろう(このモチーフは『愛のむきだし』にもあった)。
死体を浴室に運んだ村田は愛子に「蝋燭をつけろ」と命ずる。愛子は、マリア像の周りに並べられた蝋燭にバーナーで乱暴に火をつける。マリア像と蝋燭への点火は村田にとってこの死体処理が宗教儀式に近いもので、しかもそれを冒涜する意思に貫かれていることを暗示する。
園子温は前々作『愛のむきだし』でも、登場人物が十字架をかついで歩く「キリスト受難」ふうな映像を挿入していた。僕はこの監督の映画を『愛のむきだし』『ちゃんと伝える』しか見ていないので断定はできないけど、園子温の映画には反キリスト(反宗教)の気配を感ずる。そこもまた挑発的だ。それが監督(名前も秘密結社シオン修道会を連想させる)のどういう個人的体験に根ざしているのか知らないが……。
この映画は、熱帯魚店を営む社本が心ならずも犯罪に巻き込まれ、その結果、家族が破滅していく物語だけど、本当の主役は村田だろう。でんでん演ずる村田は映画のなかで三度、豹変する。
最初、彼はいかにも善人面で世話好きな男として登場する。やがて社本を詐欺に巻き込むなかで本性を現わし、社本を脅迫して殺人の共犯者に引きずり込む。社本の娘を自分の熱帯魚店の従業員にし、寮暮らしをさせて人質に取る。村田はさらに社本の妻(神楽坂恵)を抱き、社本には自分の愛人である愛子を抱くよう強要する。
それまで家族を守るために耐えていた社本が、彼のなかで何かが切れる。彼がいきなり村田に反撃をはじめたとき、村田は三度目の豹変をする。それまでの居丈高な態度が、一転して弱々しい態度を示すのだ。その伏線が、「子供のころ、ここに閉じ込められた」というセリフだ。
社本に反撃され死にかけた村田は、「社本クン、ちょっと痛いよ」(それまでは「社本」、映画の冒頭では「社本さん」と呼んでいたのに)、「お父さん、許して」と、いきなり幼児帰りしてつぶやく。村田が強者から弱者へ反転するその瞬間が、この映画の最高の見せ場だ。善人面から殺人鬼へ、そして最後に父親に虐待(?)された子供に戻る。そんな複雑な中年男を演じ、しかもブラックな笑いを取るでんでんが素晴らしい。
地方都市の一見平穏な日常が、ちょっとした裂け目から裏側のどろどろした闇を覗かせてゆくのはデヴィッド・リンチあたりが最も得意とするドラムづくりだけど、『冷たい熱帯魚』でもその手法が効果的。最初と最後に近く二度登場する、社本一家が食卓を囲む食事シーンは、これが反転されたホーム・ドラマであることを物語っている。
村田と悪党仲間の弁護士(渡辺哲)が身につけているバブリーなファッションや、タンクトップにホットパンツの従業員のコスチュームも、いかにも一昔まえのこの国の姿のようで笑える。そんな地方都市の日常のなかで、水槽にたゆたう大きな熱帯魚のぬるっとした感触が、やがて露わになってくる裏の闇を予感させる。熱帯魚が人間に変身したような気配で、黒沢あすかが色っぽく登場する。熱帯魚と黒沢あすかの怪しげな感触に不穏な気配を感ずるころには、見る者はもう園子温の術中にはまっている。
今年の映画は正月明けから『アンストッパブル』『ソーシャル・ネットワーク』『冷たい熱帯魚』と大当たり。こういう映画を続けて見られると本当にわくわくする。
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