山田稔浸り3 『ヴォワ・アナール』
僕が山田稔を知ったのは小説家としてで、『コーマルタン界隈』が最初だった。でも彼はそれ以前にエッセイ集『スカトロジア』と『ヴォワ・アナール』を出している。山田は富士正晴が主宰していた雑誌『ヴァイキング』の同人で、この二冊はともにこの雑誌に発表したエッセーをまとめたものだ。なにやら怪しげなタイトルがついている。
山田稔をつづけて読んだのをきっかけに、こちらも読んでみようと思い、『スカトロジア』は編集工房ノアから出た復刻版を、『ヴォワ・アナール』(朝日新聞社)は「日本の古本屋」のサイトで探して買い求めた(僕はアマゾンをほとんど利用しないけど、「日本の古本屋」サイトはひんぱんに使っている。北海道から沖縄までの古書店から目当ての本を探して購入できるのがありがたい)。
「糞尿譚」とサブタイトルのついた『スカトロジア』は、ヨーロッパの文学を中心に糞尿について書かれた作品と作家を扱ったエッセー。この段階で山田稔への世間の認識は、ヘンなところに眼をつけ、ユーモラスな文章を書く仏文学者(当時は京都大学人文科学研究所に在籍)といったところだろうか。現在の眼で読めば、糞尿への偏愛もユーモアもとりたてて目を引くわけでなく、正直言ってさほど面白いものではなかった。
一方『ヴォワ・アナール』は、あちこちに書いたエッセーをテーマごとにまとめたもの。僕にはこちらのほうが面白く読めた。
タイトルになっている「ヴォア・アナール」は、フランスに滞在していた山田稔が便秘に悩まされ、薬局を訪れて美人の薬剤師を相手に四苦八苦する話。
最初、山田は女性薬剤師に症状をどう説明したものか困惑するが、次第に落ち着きを取り戻してくる。やがて相手を観察する余裕を取り戻し、薬を取り出した彼女が「ヴォア・アナール」(肛門経由、座薬)と言ったのを意味が分からないふりをして、「これを飲めばいいんですね」とからかう。ブロンドの薬剤師は「メ・ノン、メ・ノン!(いいえ、いいえ)」とうろたえて、「じゃ、男のひと(ムッシウ)にたずねなさい。いいわね、男のひとにですよ」と答える。
そんなパリ滞在のひとコマがスケッチされている。テーマは『スカトロジア』の番外編であり、日常のちいさな出来事を静かに観察し、そこはかとないユーモアをかもしだす語り口は『コーマルタン界隈』にも通じている。
それ以上に興味深かったのは、「高橋和巳追悼」と題された四本のエッセーだった。山田稔が作家の高橋和巳と京大の同期で、ともに『ヴァイキング』の同人だったことは知っていたけれど、それ以上、二人の関係が具体的にどんなだったかは知らなかった。ある時期は、二人で深夜まで飲み、泥酔して互いの家に泊まりこむ間柄だったらしい。ここでは高橋和巳の死後、そんな二人のつきあいが回想され、同時に高橋和巳の小説をきちんと位置づけようとする姿勢(かなり辛らつな批判も含んで)が、山田稔の立ち位置と覚悟を感じさせる。
こんな言葉が散見される。
「真に憂鬱というよりもむしろ<憂鬱>という観念を偏愛する愛すべき文学青年」
「老成した面と同時に……気が弱く、人なつっこく、また茶目気にも富んだ無邪気」
「重く生き、重く書いた高橋和巳」
「漢語の調子に乗ってしまう彼の文体の欠点、『張扇』性」
「漢文調の美文、身振りの大きな雄弁スタイル」
僕も20代のとき高橋和巳の小説を愛読した一時期があるから、こういう指摘にはいちいちうなづける。そして「重い」「雄弁」「身振りの大きな」「美文」といった言葉が指し示す場所は、山田稔の小説世界のいわば「対称」の位置にある。小説家は自分の質に従い、その声に導かれて書くしかないけれど、山田稔がエッセイストから小説家に転生する過程で、同級生であり、人気作家だった高橋和巳の小説とは座標軸上の対称の場所を目指したことは確かだろう。その見事な結晶が『コーマルタン界隈』だった。
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