『白いリボン』 静かなる不穏
『白いリボン(原題:DAS WEISSE BAND)』はモノクロームの映画だった。今の映画はほとんどがカラーだから、モノクロームの映画には、白黒の画面にこだわる作り手の意志が込められていることが多い。最近ではジョルジョ・シムノンの小説を映画化した『倫敦から来た男』が、港町と終着駅を舞台にシムノンのアンニュイな世界を再現していた。
『白いリボン』のミヒャエル・ハネケ監督は、舞台となる1910年代の北ドイツの農村と農民たちを再現するために当時のモノクローム写真を参考にし、それらのイメージへの親近感からモノクロで撮ることに決めたと語っている(wikipedia)。僕もこの映画を見ていて、ふたりのドイツ人写真家のモノクローム作品を思い出していた。
ひとりはアウグスト・ザンダー。ドイツ現代写真の源流といわれるザンダーは20世紀初頭、ドイツのさまざまな職業の人々のポートレートを撮った写真家だ。普段着の白シャツと黒っぽい上着を無造作に着て、農機具の傍らにたたずむ農夫がいる。黒いドレス、黒いストールで全身を包んだ、農家の老女がいる。粗末なチェックのワンピースを着て、枯れ草をかかえた若い娘がいる。
この映画の登場人物の、白いシャツやブラウス、黒い上着やスカートといったシンプルな服装は、ザンダーの写真と同じテイストのものだ。またドアを開けると子どもたちが無表情に立っているショットが2度ほど出てくるけれど、その構図や、冒頭近く、村道を子どもらが横一列に並んで去っていく、これから起こることを予感させる美しくも不穏なショットなども、ザンダーの写真に漂う空気を思い起こさせた。
もうひとり(二人)は、現代の写真家・ベッヒャー夫妻。ベッヒャー夫妻は、給水塔やガスタンクといった産業建築物を同じアングル、同じ構図で多数撮影し、同一構図、同一種類の建築写真を並べるという「タイポロジー」の方法で有名な写真家だ。ベッヒャー夫妻の写真ではカメラは必ず建築物に正対して置かれるから、建物の正面だけが写り、立体感を感じさせない。また建物に影が出ないようフラットな光で撮影しているから、そのことも立体感を感じさせない理由になっている。
この映画でも、村の教会、男爵家の邸宅や納屋など、建物がしばしば正面から撮影されている。そんなベッヒャー夫妻の写真にも似た、建築物が立体感を持たず平面に見える画面づくりが、静的で不気味な空気を醸し出している。
ドイツ現代写真への視線を感じさせながら、この映画のモノクロームで映しだされる北ドイツの農村風景はあまりに美しい。広々した畑で鎌をふるいながら働く農民の遠景。陽光にきらめく並木道。雪に覆われた真っ白な世界。レンガ造りの質素な家々が並ぶ村。また夜の屋内シーンでは、実際に蝋燭やランプの光だけで撮影されたショットも多いそうで、ぼおっと明るい周囲では黒々とした闇が画面を支配している。
そんな美しい風景のなかで、小さな事件が次々に起こる。馬に乗ったドクターが、木と木の間に張られた針金に足を取られて大怪我をする。農民の妻が事故死する。村の大地主である男爵家のキャベツ畑が荒らされる。男爵家の納屋が火事になる。男爵の小さな息子が行方不明になり、折檻された姿で発見される。助産婦の息子も暴行され失明する。
静かな村のなかで、徐々に嫉妬と怒りと憎しみがむき出されてくる。ただし直接の暴力描写はいっさいない。物語の語り手は男爵に雇われた学校教師だが、教師は自分が教えている子どもたちの挙動に不審を抱く。けれど証拠はない。
子どもたちの中心にいるのは牧師の娘と息子。牧師の家は厳格で、子どもたちが小さな罪を犯しただけで鞭打ちの罰が与えられる。さらに、罪を犯した娘と息子は、罰として無垢を思い出させるため白いリボンをつけさせられる。その白いリボンや鞭打ちのシーン(ドア越しにしか描写されない)、牧師の飼う小鳥が惨殺されるショットなどで、次々に起こる事件がなんらかの「罪」に対する「罰」らしいことが暗示される。
ドクターの不倫や、娘への近親相姦の「罪」。ドクターと関係する助産婦の「罪」。村を支配する男爵家の「罪」。さまざまな「罪」が明らかになってゆく。
正直言って、この映画の背景にあるプロテスタントの倫理についてはよく分からない。いいかげんな無宗教、あるいはごく広い意味での仏教徒としての目で見ると、プロテスタントには、その倫理が先鋭化(原理主義化)するとき、この映画のように無垢や正義を求めた果てに暴力が噴出してくる逆説が起こりうる、ねじれた不自然さを感じてしまう。いま最も力のあるプロテスタント国家であるアメリカ合衆国を見ても、国の内外でのふるまいに似たような傾きを感ずる。
もっとも、この映画を必ずしもそんな宗教的な問題に帰する必要もないかもしれない。閉ざされた共同体に起こる人間関係の歪みと考えれば、これはいつの時代、世界中どこででも起こりうる話だ。閉鎖空間に高まる圧力に、いちばん敏感に反応するのが子どもたちであることも同じだろう。
それにしても、『白いリボン』のモノクロームの画面に漂う不穏な空気はただごとでない。映画の最後で、サラエボでオーストリアの皇太子が暗殺されたニュースが村に伝わり、第一次世界大戦が勃発する直前の出来事だったことがはっきりする。戦争に向かう緊張をはらんだ時代の空気は、北ドイツのこの小さな村にまで及んでいただろう。とすれば、この不穏こそ「戦前の空気」というものかもしれない。
いま、僕たちが暮らす共同体でも、じわじわとこの映画の空気に似た圧力が高まっているのを感じる。その意味で、『白いリボン』はきわめて今日的な映画でもあった。
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