加能作次郎の「乳の匂ひ」
山田稔の『マビヨン通りの店』を読んでいたら、加能作次郎という小説家のことを書いたエッセイがあった。僕はこの作家のことをまったく知らなかったけれど、山田は加能の小説「乳の匂ひ」についてこう書いている。「なかでも『乳の匂ひ』は、こんな傑作がまだ残っていたのかと、発見者のしあわせを味わった」。
探してみると、講談社文芸文庫に入っている。書店に行く前にオフィスの書架を探したら現代日本文学全集(筑摩書房)があって、『加能作次郎 牧野信一 葛西善蔵 嘉村磯多集』があった。上の写真は文芸文庫で、標題が「乳の匂い」と新仮名になっているが、こっちは旧仮名。おまけに小さな活字の三段組で年寄りにはきついけど、電車の往き帰りに読んだ。
「乳の匂ひ」はひとことで言えば小説らしい小説、しかも美しい小説だった。加能の小説は私小説と言われるようだけど、「乳の匂ひ」も、著者が少年時代に丁稚として奉公した京都の薬屋での体験を書いている。
薬屋の主人は加能の伯父で、何人もの妾と養女を持っている。13歳の「私」は用事をいいつかって訪れた養女のひとり、「お信さん」と親しくなる。お信さんは恋人をつくって赤ん坊が生まれ、それを許さない伯父はお信さんを勘当している。
ある夜、お信さんは恋人と上海に出奔すると伯父に告げにやってくる。その帰り道、お信さんを送る途中で「私」は目にゴミが入り、目をあけていられなくなる。お信さんは「私」を人力車の待合所に連れていき、腰掛に座った「私」の膝の上にやにわにまたがる。
「あッと思う間もなく、一種ほのかな女の肌の香と共に、私は私の顔の上にお信さんの柔かい乳房を感じ、頻りに瞬きしている瞳の上に、乳首の押当てられるのを知つた。『穢(ばば)うても、一時(いっとき)辛抱おし』」
「かうして乳汁(ちち)の洗顔が行はれた。……私はその間只もう息もつまるやうな思ひで、固く口を食ひしばり、満身の力を両手にこめて腰掛けの板にしがみつき、一生懸命自分自身に抵抗していた。さうしなかつたら、私の口は何時お信さんの乳房に吸ひついたかも知れなかつたし、又私の両腕が、何時お信さんの腰にまきついたかも知れなかつた」
少年の恋と性の目覚め。男なら、この小説みたいに鮮烈なものでないにせよ、誰にでも大なり小なり覚えのあることだろう。丁稚をしている「私」の目から見た放蕩家の伯父や、お信さんはじめ女たちの姿が細やかに描かれている。京都弁の会話と、地の端正な文章との入り混じった文体が最初、違和感を感じさせるけど、読んでいるうちになじみ、やがてそれが快感に変わるころには、加能作次郎の世界にすっかり入りこんでいる。
昭和15年6月の作。世間が戦争に向かって雪崩れてゆくなかで、こんな小説を書いていたのか。加能作次郎という作家を教えてくれた山田稔に感謝。
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