『クロッシング』 高架地下鉄と「プロジェクト」
『クロッシング(原題:Brooklyn's Finest)』の全編を貫いているキー・イメージがふたつある。
ひとつは、高架を走るブルックリンの地下鉄と、その高架下の道路。もうひとつは、茶色い煉瓦の無機質な高層アパートが立ち並ぶ、「プロジェクト」と呼ばれる低所得者向け市営住宅。映画のなかで、多くの犯罪が「プロジェクト」の中で起こり、高架下の道路で追跡劇や殺人がおこなわれる。登場人物が動き、話しているそばには高架の地下鉄が走り、列車の走る音が絶えず響いている。
映画の原題は「ブルックリンの警官」といった意味だろうけど、ブルックリンを舞台に設定するについて、このふたつのイメージを基本に据えたことは、ブルックリンに1年住んでいた僕にはなるほどな、と思えるものだった。
まず、ブルックリンには地下鉄が高架を走る地域が多い。もともとニューヨークの地下鉄は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、いくつかの民間会社が地下鉄や高架鉄道網を建設したことから始まっている。やがてニューヨーク市がそれらを買収して統一管理し、地下鉄網が整備されるにつれて、マンハッタンの高架は次々に撤去された。ところがマンハッタンに比べ都市化の遅れたブルックリンでは、あちこちに高架のままの地下鉄が残っている。
マンハッタンに近いブルックリンの西側にはあまりないけれど、コーニー・アイランド方面の南行き路線やJFK空港に行く東行き路線には高架がかなり残っている。この映画の舞台になるブラウンズヴィルはブルックリンの中央にあり、地下鉄3、4ラインが走るが、このあたりにもやはり高架が残っている。高架の地下鉄はクイーンズなどにもあるけれど、多分、ブルックリンがいちばん多い。高架の地下鉄は、「マンハッタンではないニューヨーク」を指し示すイメージなのだ。
もうひとつのキー・イメージである「プロジェクト」は、ブルックリンだけでなくニューヨーク全体の都市開発の暗部を象徴するような建物だ。マンハッタン中心部のオフィス空間と郊外の住宅地を高速道路網で結び、郊外の一軒家に住んで車でマンハッタンに通うという中流階級の生活スタイルをつくりあげたのは、ニューヨークの都市計画を独裁的に進めたロバート・モーゼズという男だったが、「プロジェクト」もまた彼の手になる。
1950年代、モーゼズはマンハッタンのスラムを一掃して国連ビルやリンカーン・センターをつくる一方、市内十数カ所に「プロジェクト」と呼ばれる高層の低所得者向け公共住宅を建設した。それらの建設のために地域のコミュニティは破壊され、その多くはアフリカ系や移民である低所得者層は「プロジェクト」に隔離されるか、中心部からより遠い地域へ(例えばこの映画の舞台であるブルックリン中央部へ、さらに東部へ)と追いやられた。マンハッタンにつくられた「プロジェクト」について、高祖岩三郎は「マンハッタン内で最も巨大で醜い集合住宅」と書いている。
「プロジェクト」はブルックリンにもいくつも建設された。僕が住んでいたのはマンハッタンに近い、白人地域とアフリカ系地域の境界に当たる場所だったけれど、アパートから5分ほど歩くと「ウォルター・ホイットマン・レジデンス」と何とも皮肉なネーミングの「プロジェクト」があった。
敷地に入ると茶煉瓦の暗い色彩の高層アパートが立ち並び、1階の窓には鉄格子がはめられている。緑は少なく、店などもないから、歩いている人も少なく、遊んでいる子どももいない。最初にここに散歩して迷いこんだときは「プロジェクト」だと知らなかったけれど、アメリカに来て間もないこともあり、夕暮れ時に何となし不安を感じたのを覚えている。実際、1980年代のニューヨークが荒れた時代には、周辺のコミュニティから切り離され、一戸一戸が孤立している「プロジェクト」はしばしば犯罪の温床になった。
『クロッシング』では、ブルックリン中央部のブラウンズヴィルの「ヴァン・ダイク・プロジェクト」(映画では「BKプロジェクト」)が舞台になっている。
ブルックリンのベッドフォード・スタイブサントはマンハッタンのハーレムより多数のアフリカ系が住むニューヨーク最大のアフリカ系地区だけれど、ブラウンズヴィルはその南に隣接する、やはりアフリカ系の町だ。ベッドフォード・スタイブサントからブラウンズヴィル一帯は、もとは白人労働者階級が住む町だったけれど、アフリカ系やカリブ海系移民が多くなって白人が郊外に出てゆき、1960年代には「有色人種居住区のゲットー」(高祖岩三郎)となった。
ブルックリンのアフリカ系居住区を舞台にした映画といえば、ブルックリン生まれのスパイク・リーの作品がすぐに思い浮かぶ。でも、それ以外にあまり記憶にない。この映画がブラウンズヴィルにロケできたのも、アントワン・フークア監督がアフリカ系だからこそだろう。僕はこのあたりに行ったことはないけれど、画面を見ていてもアフリカ系の町という印象で、僕の住んでいたダウンタウン周辺の白人、アフリカ系、アジア系、ヒスパニックが雑多に入り乱れる風景とはまた違うな、と思う。
そのふたつのキー・イメージが映画のそこここに散りばめられて、ブルックリンの土地の空気を伝えている。
無気力警官として20年を過ごし、退職を1週間後に控えたエディ(リチャード・ギア)。家族のために家を買い替えたいと願う麻薬捜査官のサル(イーサン・ホーク)。潜入捜査している相手のボス(ウェズリー・スナイプス)に助けられ、友情を感じはじめているタンゴ(ドン・チードル)。3人のブルックリンの警察官が、それぞれに自分の事件を追いかけるかたちで物語が進む。
3人は互いに顔を知らず、言葉を交わすこともないけれど、最後に偶然から同じ「プロジェクト」に引き寄せられる。そこへ至る道のりを描く語り口は正統派だけれど、とても濃い。3人それぞれの運命に納得させられた。
アフリカ系娼婦に惚れている独身のエディは、「退職したら一緒にコネチカットに行こう」と彼女を誘い、エディを客としか考えていない彼女が困惑の表情を浮かべ、リチャード・ギアがそれに気づかずなお口説きつづけるショットが泣かせる。麻薬捜査の現場で現金をポケットに入れようとするサルが仲間の警官に見とがめられたときの、イーサン・ホークの凍りついた表情が記憶に残る。潜入捜査のストレスに押しつぶされそうなタンゴが、友情を感じているボスを囮捜査の罠にはめようとするときの、ドン・チードルの泣きそうな顔が素晴らしい。
アントワン・フークア監督の、警察ものの王道を行く作品。最近こういう映画が少なかったから、たっぷり楽しんだ。
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