山田稔浸り・1 『マビヨン通りの店』
来年1月刊行の写真集を編集していて、このひと月、映画も本もジャズもとんとご無沙汰だ。定期券を買ってオフィスと家をただただ往復する毎日。かろうじて往き帰りの電車での読書と、寝る前に数曲聴くスタン・ゲッツだけが楽しみになっている。
山田稔の新刊『マビヨン通りの店』(編集工房ノア)が出たと知って、近くの書店を探したけれど見つからない。この大阪の小出版社が出している本は、けっこう探すのがむずかしいのだ。いつも編集工房ノアの本を探すときは、六本木の青山ブックセンターに行くのだけれど、時間に追われてその余裕がない。
僕は編集者(情報である原稿を本というモノに仕立てる職人)なので、本を買うのは書店で手に取りモノとしての仕上がりを確かめてからと決めている。だから、めったにネット書店は使わないけれど、アマゾンを検索すると扱っている。小出版社の本、さすがに在庫はないみたいで、注文して4、5日かかったけれど、その間の待ち遠しかったこと。
届いた本のカバーは薄茶の地に野見山暁治のパリの絵をあしらった、地味で落ち着いた装丁。書店の平台で目立たせようという意図が少しも感じられないのが、この出版社の姿勢を示している。山田稔の代表作『コーマルタン界隈』のカバーも野見山の絵だったから、これもその系列の本なのだろうと見当をつける。
もっとも、著者がパリにいたときの話を素材にした「パリもの」は表題作の「マピヨン通りの店」だけで、大部分は著者が接したり気になったりしている作家や学者の記憶を綴ったエッセイ集。そのうちの何人かは、今では忘れられた存在になっている。故人も多い。そういう名前を掬い上げるのが、いかにも山田稔らしくもある。
冒頭の「富来」では戦前の小説家、加能作次郎を扱っている。僕はこの作家を知らなかった。尾崎一雄が加納のことを「すがれた老人」と書いていて、山田はその「すがれた」という言葉の記憶から加能を読み直し、彼の故郷である能登半島の富来へ出かけるまでを記したエッセイ。
「当時四十二歳の加能作次郎がインバネスを引きずるようにして出て行った姿が、『すがれた老人』として鮮やかに尾崎の胸に残る。私がおぼえていた『何か大切なこと』とは、このくだりだったのである。加能を読み返したくなった胸の奥底に、この『すがれた老人』の『すがれた』の一語がひそんでいたような気がした」
山田稔の文章を読んでいつも惹かれるのは、ささやかなもの、微細なものに対する感受性の鋭さだ。日常のなかで人が気づかずに通り過ぎてしまう些細な風景や心のありように彼は立ち止まる。それが「すがれた」とか「黄昏たようなほの暗さ」(「マビヨン通りの店」)といった表現に象徴されている。そして自分が存在することへの恥じらいの感覚。
山田稔の端正な文章を読むのは僕にとって知的作業というより、生理的な快感に近い。自分の中の似たような部分(山田稔ほど繊細じゃないけど)が揺さぶられるからだろう。だから山田稔を読むのは、スタン・ゲッツの音と同じように、仕事でささくれた神経へのマッサージなのだ。
「マビヨン通りの店」は、かつて著者がパリにいたころ足繁く通ったレストランの穴ぐらのような地下室に住んでいた椎名其二というアナーキストについて書いたもの。
「高い建物の谷間のような古い小路は、私の記憶のなかではいつも黄昏たようなほの暗さにつつまれている。そんなはずはない。私がそこに足を踏入れるのは、きまって真昼の時間であったのだから。それとも高い建物にさえぎられ、そこは終日陽がさすことがなかったのか。いや、やはりそのほの暗さは、私の記憶のあやうさなのか」
短い引用だけど、彼の文章を読むのが生理的快感だというのが分かっていただけるでしょうか。
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