『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』 感情を編集する
映画になった石井隆の「名美」ものを全部見ているわけじゃないけど、僕の見たなかでいちばんの傑作は『ラブホテル』(相米慎二監督)だった。
元日活の助監督だった相米慎二が手がけたただ一本の日活ロマンポルノ。「名美」ものはすべてヒロインが名美、男が村木と同じ名前がつけられていて、『ラブホテル』では名美を速水典子、村木を寺田農が演じていた。石井隆の劇画の行きどころのない愛憎や憤怒を映像に移しかえて、いちばん完成度の高い作品になっていたと思う。
「名美」ものには作者の石井隆が自ら監督した作品も多い(彼自身も日活の助監督出身)。僕はこちらも全部見ているわけではないけれど、『死んでもいい』『ヌードの夜』あたりの印象で言うと、部分的にいいなあと感ずるシーンやショットはたくさんあるんだけど、作品としての完成度はイマイチだった。今度の『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』も、その印象は同じ。
うらぶれた街に、すがれた風景。夜の闇にうごめく男女。犯罪と罠。劇中でうまく使われる歌(夏木マリ「絹の靴下」)。ノワールの要素はすべて揃っているんだけどなあ。
『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』のヒロインは「名美」ではなく「れん」(佐藤寛子)という名前が与えられている。でも主役の「代行屋」紅次郎(竹中直人)の本名は「村木」になっている。
石井隆の「名美」シリーズでは、「名美」と名づけられたヒロインは必ずしも同一人物でなく、作品によってそれぞれ異なる人間に「名美」という名前が与えられていることが多い。つまり「名美」とは一人の特定のヒロインではなく、石井隆の世界のファム・ファタールという存在につけられた名前であり、「村木」と呼ばれる男を虜にし、振り回し、破滅させる女を象徴的に「名美」と呼んでいるのだろう。
「名美」シリーズのなかで、「村木」はしばしば現実には夜の女や娼婦に身を落としている(って、こういう映画を語るとつい性差別・職業差別的な言葉を使ってしまいますが)「名美」に向かって、「お前は天使のような女だ」とつぶやく。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』のなかでも、「村木」は「れん」に向かって同じセリフをつぶやく。「れん」はやはり「名美」なのだ。だからこの映画も間違いなく「名美」シリーズの一本。
ファム・ファタールものの映画が成功するかどうかは、どうしたってヒロインを演ずる女優の存在感に圧倒的に左右される。見ている者(男)に、「村木」だけでなく自分もこういう女となら地獄へ行ってもいい、と2時間だけ思わせられるかどうか。
「名美」シリーズはヌードやセックス・シーンも多いから、そういう役を厭わず、しかもファム・ファタールとしての存在感を際立たせられる女優はなかなかいないのは分かる。僕が見たなかでは『死んでもいい』の「名美」大竹しのぶ(今回も「れん」の母親役で出演)が、劇画の「名美」のイメージとは違うけれど、そんな輝きを放っていた(原作のイメージに近かったのは『ヌードの夜』の「名美」余貴美子)。
「れん」の佐藤寛子は僕は知らなかったけどグラビア・アイドルで、映画の主演は初めてらしい。頑張ってはいるけれど、いかんせんファム・ファタールの匂うような色気から遠い。だから「村木」竹中直人の「お前は天使だ」というセリフが、見ている者に響いてこない。
ここで唐突に思い出す。ホウ・シャオシェンら1980年代台湾ニュー・ウェーブの名作のほとんどで編集を担当し、兄貴分として彼らを育てた寥慶松にインタビューしたことがある。寥は若いホウ・シャオシェンにゴダールを見せたという。
そのときホウがゴダールから学んだことは「ジャンプ・カットの発見」、つまり「ふたつのカットの間を省略し、論理的には整合性のないつなぎになっても、感情的なものが持続していればいい」、いいかえれば「感情を編集する」ことができればいいということだった。「感情を編集する」ことができるかどうかは、映画の肝に当たる。「感情を編集する」とは、登場人物の感情が物語の進展とともに高まってゆくだけでなく、それを見ている観客の感情をも映画のなかに連れ去り、虜にすることでもある。それが映画にパルスを与え、官能性を与えるんだろう。
ここでまた唐突になるけれど、これを書いている途中、たまたま『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)をDVDで見た。東映任侠映画の傑作と言われるけれど、十数年ぶりに見直してみると任侠映画の型を借りながら実は似て非なる男と女の映画という印象を持った。
吉良常(辰巳柳太郎)、飛車角(鶴田浩二)、宮川(高倉健)、お豊(藤純子)、それぞれの運命を背負った男たち女たちの感情がもつれ合い、絡み合って、冒頭から最後まで映画全体が見事にぴんと張った一本の感情の束となっている。その官能的なことは、エンタテインメント映画の粋のように思えた。
『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』は、残念なことに感情が分断され、ぶつ切りになっている。映像はいかにも濃厚でノワールなカットがつながれているのに、感情がつながっていない。村木が「お前は天使のような女だ」とれんにつぶやいても、見る者はその感情に同調し、その感情を引き受けることができない。それは佐藤寛子が素人だという役者の問題だけでなく、石井隆の脚本・監督でつくられた「名美」ものに共通した穴だらけの脚本と演出の問題でもあるんじゃないかな。
なんてことを言うのも、僕がノワール好きで、「名美」シリーズに和製ノワールを期待しているからなんだけど。佐藤寛子の露出しすぎの裸は見事だけど、それが映画の官能につながらない。もっと官能と陶酔の世界が見たい。


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