『悪人』 祐一はなぜ光代を殺そうとしたか?
年若い友人に誘われて、久しぶりに試写室に足を運んだ。週刊誌の芸能欄を担当していた20代のころはよく通ったものだけど、ある時期から、やはり映画はカネを出して見なければと思うようになった。業界人が仲間内でおしゃべりしている閉鎖的な空気は当時も今も好きになれない。
見たのは『悪人』。吉田修一の原作は、ここ数年で読んだ日本の小説のベストだった。彼はこの映画のために李相日(リ・サンイル)監督と共同で脚本を書いている。面白い小説から面白い映画はできにくいというジンクスもあるけど、さてどうか。そんな興味もあった。
見終わっての感想。とてもよくできている。小説とは少し重心がずれてるけど、そのずれも納得できるものだった。
小説『悪人』を映画化するに当たって、いちばんの勘どころは主役である祐一(妻夫木聡)のキャラクターをどう設定するかだろう。
小説は三人称で書かれている。祐一や、殺人犯である祐一を愛することになる光代(深津絵里)はじめ、多彩な登場人物に作者の視点が次々に移動しながら進む。
ところが主役である祐一の視点からの描写は意外に少ない。祐一は、他の登場人物と接する場面で相手との会話を通じて、あるいは相手の視点からみた人物像として受動的に描写されることが多い。これは多分、吉田修一が意識的に選んだことだ。祐一の内面にあえて踏み込まず、他人の目を通して描くことで、祐一自身にもよく分からない彼の内面のとらえどころのなさ、それゆえの得体の知れなさを意図したんだと思う。
だから、祐一はなぜ佳乃(満島ひかり)を殺したのか、そして最後になぜ光代を殺そうとしたのか。何人もの登場人物の視点から、いろんな解釈ができる多義的な結末で小説は終わっていた。祐一は「悪人」なのか、ふとしたはずみで人を殺した普通の男にすぎないのか。どちらとも取れるけれど、どちらにしても解釈しきれない部分も残る。
でも映画はそうもいかない。いや、インディペンデントの映画ならそんな冒険もできるかもしれないが、大量の観客を動員しなければならない大手の作品では多数の観客を納得させなければならない。ある種の分かりやすさが求められる。
吉田修一が自ら脚本にかかわったのは、そんな条件のなかで原作の意図を損なわず、何人もの視点のなかから誰を重点的に選ぶか、「重心移動」によって多数の観客を納得させられる映画をつくれるか、自分で試してみたい。そんな挑戦だったのではないか。
どこへ「重心移動」したかといえば、李相日と吉田修一が選んだのはまず光代であり、佳乃の父(柄本明)だろう。
(以下、ネタばれです)映画は最後、光代の回想で終わる。回想のなかで、祐一と光代は逃げこんだ岬の灯台に立って、眼下の海を眺めている。朝日が2人の顔を照らす。
光代の回想のなかで、祐一が殺人者であっても、自分を殺そうとした男であっても、そんなことは関係ない。光代の意識のなかで、彼女は祐一を愛し、祐一も光代を愛した。小説にはないこの回想シーンはそう告げている。そのことによって、映画は光代の「純愛」で終わる。
その前のシーンで、祐一は光代を殺そうとする。追い詰められての衝動的なものか、祐一自身が光代を殺すことを予期していたのか、どちらとも取れるけれど、小説ではいちばん印象的なそのシーンの衝撃が、その後に挿入された光代の灯台の回想シーンによって弱められている。さらに、最後の一瞬に警察に取り押さえられた祐一が光代に手をさしのべ、遂に触れあわずに終わる(まるで加藤泰の映画みたいな)「祐一の光代への愛」を示すショットが挿入されている。
祐一を演ずる妻夫木がいかにも善人顔をしてることもあって、祐一の彼自身にすらよく分からない不可解さと、それ故の不気味さは減り、佳乃を殺したのも、光代に手をかけたのも、怒りにかられ、あるいは追い詰められての衝動的な行為だったようにも見える。
小説が多義的に解釈できる結末だったのに対し、映画は「愛」で終わる。その分、映画はヒューマンなテイストになった。
そのテイストを補強しているのが、佳乃の父の存在だろう。娘を殺したかもしれない男を追う父は、肉親の心情だけでなく、社会的な大人の常識をも代表している。「アンタ、大切な人はおるね?」という彼のセリフが、小説よりもぐっと重く感じられる。また祐一の祖母(樹木希林)と彼女を取り囲むマスコミ(=世間)の挿話も図式的だけど社会的な広がりを出している。そんなふうにヒューマンな筋を通すことによって、映画は多くの観客に納得できるものになったのだと思う。
役者はみな、はまっている。なかでも、光代を演じた深津絵里なしではこの映画は成立しなかったろう。最初と最後、勤めている国道沿いの紳士服量販店から自転車で田んぼのあぜ道を通ってアパートに帰るシーンが2度出てくる。最初の光代と最後の光代は、ほとんど別の女性になったと言ってもいい経験をしているのに、同じ服を着て同じ道を走っている。地方都市に生きる30代独身女性の日常のリアリティが見事(これを書いているとき、モントリオール映画祭主演女優賞を受賞したというニュースが飛び込んできた)。
満島ひかりは『愛のむきだし』のエキセントリックな女の子もよかったけど、この映画では普通の女の子を好演。柄本明や樹木希林がいいのは言うまでもない。
それ以上に素晴らしいのは福岡、佐賀、長崎のロケ。ことさら地方色を出すわけでもなく、日本中均一で薄っぺらな新しい建物に古い家屋が混在する地方都市のありようと、町の外に広がる山と海の風景が丹念に捉えられている。祐一と光代が最後に逃げこむ灯台(五島列島福江島)の撮影は、灯台の下にセットの小屋を建て、冬12月の大変な撮影のようだったけど、それだけの効果は出ている。
李相日監督は『フラガール』以来。『フラガール』もそうだったけど、面白いエンタテインメントをつくりながら人間をきっちり描き、自分のメッセージを込められる。商業映画は3本目の若い監督なのに、メジャーな映画作りの王道を行く。僕はミニシアターにかかるマイナーな映画を見ることが多いけど、映画の本流はやっぱり大衆的なエンタテインメントにある。こんなレベルのメジャーな映画をもっとたくさん見たい。
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