『彼女が消えた浜辺』 男と女と戒律と
中東イスラム圏に「名誉殺人」と呼ばれる風習がある。wikipediaによれば、「女性の婚前・婚外交渉を女性本人のみならず『家族全員の名誉を汚す』ものと見なし、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する」ことを指す。
『彼女が消えた浜辺(英題:About Elly)』はイラン映画だけど、イランのイスラム刑法にはこんな規定もあるという。「自らの妻が他人の男と姦通しているところを目撃し、妻が〔不義密通を積極的に〕受け容れていたことが分かった場合には、夫はその時点で彼らを殺害することができる。妻が〔姦通を〕強制されていた場合は、夫は男の方だけを殺害することができる」(ブログ「I am what I am」より)。
「名誉殺人」は必ずしもイスラム教に基づくものでなく、イスラム以前の極端に男権主義的な古い風習らしいけど、バングラデシュ、パキスタンからイラン、イラク、エジプト、モロッコまでイスラム圏に多く起こっている。この映画は「名誉殺人」ではないけれど、似た状況を引き起こしかねない微妙な問題を扱って、それがドラマの核になっている(以下、ネタばれです)。
大学時代の友人である3組の夫婦と子どもたちが、テヘランからカスピ海沿岸へ避暑に出かける。アミールとセピデー(ゴルシフテェ・ファルハディ)ら3組の家族以外に、同行者が2人いる。ひとりはドイツで離婚して帰国し、結婚相手を捜しているアーマド。もうひとりは、セピデーの子どもが通う保育園の先生であるエリ(タラネ・アリシュスティ)。
ヴァカンスの浮かれた気分の中で、皆はアーマドと美しく控え目なエリを近づけようとする。貸別荘を管理するおばさんには、アーマドとエリは新婚だと嘘をつく。アーマドはエリを一目で好きになり、エリもまんざらではなさそうだ。
登場人物はみな、豊かな暮らしをしている上・中流階級のようだ。3組のカップルは法律関係の職についているらしい。乗っている車はBMWやプジョー。エリは村上隆デザインの派手なルイ・ヴィトンのバッグを持っている。
今は厳格なイスラム政権になっているが(先日見た『ペルシャ猫を誰も知らない』も、それが映画の背景になっていた)、都市に住む上・中流階級には、ホメイニのイスラム革命よりそれ以前の親西欧的な近代化に親近感を持つ人が多いと聞く。だからイスラム戒律の厳格化に複雑な感情を持ち、そんな気分が、2人を近づけようとするカップルの言動の下地になっているのかもしれない。
ヴァカンスの2日目、海辺で遊んでいたセピデーの子どもが波にさらわれる。皆で子どもを助けあげて気づくと、エリの姿が見えない。エリも子どもを助けようとして溺れたのか、それとも黙ってテヘランに帰ってしまったのか(エリは1泊で帰るつもりのことろを皆に引き留められていた)。
夜になってもエリの行方は分からない。溺れたのなら、生存は絶望的だ。カップルたちはパニックに陥り、嘘をついたり取りつくろいながら(一緒に見た映画友だちのMittyさんは「そんなことしてる場合じゃないでしょ」と突っ込みを入れてた)テヘランのエリの家族に連絡を取ろうとする。
やがて、エリの兄と称する男がやってくる。でもエリに兄弟はいず、男はエリの婚約者らしい。それが分かって、カップルたちは更にうろたえる。婚約者がいるのを知りながらエリをアーマドに取り持ったのなら、彼らのひとりが口走るように「僕たちは殺されるかもしれない」のだから。
男は、管理人からアーマドとエリは新婚だと聞かされて怒っている。この場をどう切り抜けて、自分の生活を守るのか。3組の古い仲間は、夫と妻が言い争い、男同士、女同士もぎくしゃくしてくる。このあたりの心理サスペンスは、見る者をはらはらさせる。
海辺の壊れかけた別荘を舞台に、こうした出来事が進行する間じゅう、カスピ海の波音が画面に響いている。音楽はほとんど入らない。そのことが一層、この映画を印象的にする。この作品、僕には波音の映画として記憶されることになるだろう。
実はエリに婚約者がいるのを知っていたのはセピデーだけだった。エリは、その婚約者がどうしても好きになれないとセピデーに語っていた。だから、セピデーはエリをヴァカンスに誘い、アーマドに紹介しようとした。男と女の、どこにでもある話にすぎない。ハリウッド映画なら、行方をくらましたエリをめぐってコメディに仕立てるかもしれない。それがこの国では生き死にの話になる。
ラスト近く、男はセピデーと2人きりになり、彼女を問いつめる。自分という婚約者がいることを知っていたのか、と。セピデーたちがそれを知っていたのなら、男は「名誉殺人」的な立場に置かれることになり、この場にいる3組のカップルに復讐し、「殺す」ことを選ばざるをえなくなるかもしれない。知らなかったのなら、男がエリに裏切られたという、男と女2人だけの問題になる。セピデーが苦しむのは、どちらの答えを選んでもエリを裏切ることになるからだ。
結局、セピデーは「自分は知らなかった」と嘘をつき、自分たちの生活を守ることを選ぶ。それは結局、エリの婚約者をイスラムの戒律に縛られることからも守ったことになるのだと思う。
脚本・監督はアスガー・ファバルディ。イランではこの映画、大ヒットしたという。いつの時代、どんな場所にもある男と女のお話に、イスラム圏の戒律が絡むことによって起こるドラマ。それがリアルに感じられたのだろう。
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