京都・大雲院から法観寺へ
仕事で京都へ行き、3時間ほど自由時間が取れた。さて、どこへ行こうか。夏の特別拝観を調べると、大雲院祇園閣が公開されている。八坂神社の近くを通るたび、この奇妙な建物が気になっていた。
祇園閣は祇園祭の山鉾をイメージして建てられている。もっともこの石造の建築を近くから見上げると、下の石造部分は中国ふうに、上部の望楼は日本の城郭のようにも感じられる。
祇園閣は古い建物でなく、昭和の近代建築。1928年に伊東忠太の設計で建設された。
伊東忠太といえば明治から昭和前期に活躍した建築家で、明治神宮や築地本願寺、大倉集古館、植民地の樺太神社、朝鮮神宮などの設計で知られる。
インドや中国の様式を取り入れた独特の建築は、築地本願寺を見れば分かるように、東洋的なデザインと近代建築が結びついたもの。どう評価するかは別として、大日本帝国のオリジナルな建築の創始者と言っていいのだろう。戦争期に流行したファシズム建築「帝冠様式」(近代建築の上に日本風な意匠を乗せた建物)の源流と言えるかもしれない。
その逆オリエンタリズム(?)のせいかどうか、この建物は京都の寺や町屋の風景のなかでどこか違和感がある。
戦後、大雲院が四条寺町からここに移って、祇園閣も大雲院の所有になった。大雲院は祇園閣を修復し、その際、入口から楼上へ登る階段室に敦煌の壁画が模写された。だから、内部はずいぶんカラフル。
この場所はもともと大倉喜八郎の別荘で、祇園閣はその敷地内に喜八郎によって建てられた。
大倉喜八郎は幕末に鉄砲商として身を立て、維新後は政治家・軍部と結びつき西南戦争、日清・日露戦争を通じて軍需物資調達・輸送で巨利を上げた「死の商人」。大倉財閥の創始者で、関与した企業は帝国ホテル、ホテルオークラ、大成建設など現在残っているものもたくさんある。
祇園閣に登ると、京都の町が一望のもとに見下ろせる。知恩院の山門すら見下ろす角度になる。喜八郎は祇園閣ができた年に亡くなっているから、彼がここに立ったのかどうかは分からない。でも気分としては、京都を征服したつもりだったんだろうな。大倉喜八郎と伊東忠太の組み合わせは、近代日本のいかがわしさを象徴しているようにも感じられる。
祇園閣の脇には、やはり伊東の設計で木造の喜八郎別荘がある(現在は大雲院書院)。手前の応接室が八角形なのが伊東らしい。
祇園閣から見下ろされた法観寺の五重塔(八坂の塔)まで歩く。ここはいつも脇を通るだけだったので、今日は塔に入ってみよう。
うかつにも知らなかったけど、この塔は古いものなんですね。寺伝によれば589年、聖徳太子によって創建された。塔は何度か焼けているけれど、中心礎石は白鳳様式で創建当初のものが残り、「日本での仏舎利信仰の原点とされている」という。その礎石をのぞくことができる。
塔内部。中心の柱。1436年に再建されたもの。
塔の2層から八坂通を見る。
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