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September 28, 2010

『トラブル・イン・ハリウッド』 プロデューサーはつらいよ

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一時期、「ディレクターズ・カット」というのがやたら公開されたことがあった。

かつてはともかく、今は映画の完成版の最終編集権を監督でなくプロデューサーが持っていることが多い。その権利が問題になることが多いのはラストシーンを巡ってで、名作『ブレードランナー』がそうだったように、暗く陰鬱な物語がそれまでの展開からすると唐突にハッピーエンドで終わってしまうことがある。多くの観客はハッピーエンドでないと満足してくれないから、映画が完成すると内部試写をしてアンケートを取り、不満の声が多いと最終編集権を持つプロデューサーが勝手に結末を変えてしまうのだ。

「ディレクターズ・カット」は、そんなふうに監督の意に反して編集された映画を監督の意図通りに戻して公開したもの。監督はつらいなあと思っていたら、プロデューサーもつらいよ、というのが『トラブル・イン・ハリウッド(原題:What Just Happened)』だった。

ハリウッドのプロデューサー、ベン(ロバート・デ・ニーロ)は目下、トラブルを抱えている。彼は最終編集権を持ったエグゼクティブ・プロデューサーでなく、「co-producer」とか「associate producer」とかクレジットされる存在なんだろうか、最終編集権はスタジオのトップ、ルー(キャサリン・キーナー)が持っている。

ショーン・ペン主演(本人が出演)のサスペンス映画「フィアスリー」のラストシーン。キース・リチャーズみたいな風貌のアーチスト監督(マイケル・ウィンコット)が、ショーン・ペンを追う殺し屋に彼だけでなく愛犬も殺させ、画面にいっぱいに犬の殺害シーンがアップになり、血がほとばしる。動物虐待にうるさいアメリカで、試写会の客は顔をそむける。ルーはラストシーンを変えろとベンに命じるが、監督はかたくなに拒否している。

ベンはもうひとつトラブルを抱えている。ブルース・ウィリス主演(こちらも本人が出演)の恋愛映画の撮影が始まろうとしているが、ブルースはメタボで、しかもギリシャの哲人みたいなアゴ鬚を剃ろうとしない。出資者は、ブルースがアゴ髯を剃らなければ撮影は中止だと怒っている。

そんなトラブルを抱えながら、ベンの日常は分刻みに忙しい。別れ話が進む妻とは、2人でうまく別れるためのセラピーを受けている。朝、妻と住む息子を車で小学校に送り、次に前妻との間にできた娘を高校に送る。ブラッド・ピッド主演で花屋業界の裏を描く企画が持ち込まれている。仲間のプロデューサーが自殺し、葬儀に出なければならない。

出資してもいいという怪しげな男たちとレストランで会食する。と、同席していた美女が、「映画に出して」と電話番号をメモして誘いをかけてくる。ベンはその誘いに乗る。夜、自宅で久しぶりに妻とベッドを共にする雰囲気になったところで携帯が鳴る。その妻はどうやら同業者と浮気しているらしく、嫉妬にかられたベンはそれが誰かを確かめようとしている。

映画業界の内幕ものの、ベンを巡るそんなドタバタがシニカルなタッチで描かれる。ショーン・ペンはいつも通り熱っぽく、ブルース・ウィリスはわがままな「ブルース・ウィリス役」を楽しげに、そしてロバート・デ・ニーロは次々降りかかる難問に振り回される男を滑稽さを感じさせながら演じている。ショーンの映画はカンヌ映画祭に出品され、ブルースの映画は髯を剃ったかどうか分からないま撮影初日を迎え、それぞれひねったオチが用意されている。

ロバート・デ・ニーロの製作。監督は『レインマン』のバリー・レヴィンソン。コメディだけど切れのある笑いがあるわけでなく、映画の印象はそこはかとなく悲しい。ま、豪華な役者を見ているだけで楽しいけど。


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September 22, 2010

箱根・姥子の湯

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箱根には何度か行っているけど、温泉好きに有名な姥子(うばこ)の湯に入ったことはなかった。今回は、それを目的に。

大涌谷でロープウェーを降り、姥子から芦ノ湖へ抜ける自然探勝路を歩く。ロープウェーに姥子駅があるけれど、しばらく歩いてから温泉に入るほうが気持ちいいので。

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木漏れ日の道を30分ほど歩く。コースのほとんどは下りだけど、彼岸というのに真夏日で、汗だく。

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大涌谷は観光客でいっぱいだったけど(外国人も多い)、探勝路に入ると人影もまばら。

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大涌谷周辺は古くから山岳修験の霊場で、姥子の湯は修験者の霊泉とされていた。江戸時代には箱根権現の社領になっている。湯に近づくと、ここより結界という表示がある。湯の裏に薬師堂と姥子堂があり、巨岩の下には石仏群がある。

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姥子の湯には秀明館という旅館が1軒だけある。建物は大正時代のもの。内部はきれいに改修されて日帰り営業になっており、部屋を4時間ほど借りられる。連休の谷間とはいえ、僕以外に訪れていたのは4組。

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(「湯治郷の瓦版」52号から男湯)

霊泉だからだろう、撮影を許されないので、現在この湯を守っている湯治郷のパンフレットを複写。

赤錆色の岩盤から湯が浸みだしている。箱根の温泉は乳白色の湯が多いけど、ここは無色透明。雨水が地中に浸みこみ、火山の熱に熱せられて温泉として湧出してくる。だから雨が少ない冬には温泉が出ないこともある。この日も、お湯はちょろちょろ。

しめ縄が張られた源泉は48度と熱い。竹で結界された源泉の手前にぬるくした湯船が2つあり、そこに浸かる。眼病にきく明礬泉で、口に含むと少ししょっぱい。さらさらした湯につかり、裸電球に照らされた薄暗い霊泉をながめていると、温泉のもつ魔力のようなものを感ずる。

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姥子の湯は湯治場として続いてきた。湯治棟には自炊のための竈が残っている。

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September 19, 2010

『彼女が消えた浜辺』 男と女と戒律と

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中東イスラム圏に「名誉殺人」と呼ばれる風習がある。wikipediaによれば、「女性の婚前・婚外交渉を女性本人のみならず『家族全員の名誉を汚す』ものと見なし、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する」ことを指す。

『彼女が消えた浜辺(英題:About Elly)』はイラン映画だけど、イランのイスラム刑法にはこんな規定もあるという。「自らの妻が他人の男と姦通しているところを目撃し、妻が〔不義密通を積極的に〕受け容れていたことが分かった場合には、夫はその時点で彼らを殺害することができる。妻が〔姦通を〕強制されていた場合は、夫は男の方だけを殺害することができる」(ブログ「I am what I am」より)。

「名誉殺人」は必ずしもイスラム教に基づくものでなく、イスラム以前の極端に男権主義的な古い風習らしいけど、バングラデシュ、パキスタンからイラン、イラク、エジプト、モロッコまでイスラム圏に多く起こっている。この映画は「名誉殺人」ではないけれど、似た状況を引き起こしかねない微妙な問題を扱って、それがドラマの核になっている(以下、ネタばれです)。

大学時代の友人である3組の夫婦と子どもたちが、テヘランからカスピ海沿岸へ避暑に出かける。アミールとセピデー(ゴルシフテェ・ファルハディ)ら3組の家族以外に、同行者が2人いる。ひとりはドイツで離婚して帰国し、結婚相手を捜しているアーマド。もうひとりは、セピデーの子どもが通う保育園の先生であるエリ(タラネ・アリシュスティ)。

ヴァカンスの浮かれた気分の中で、皆はアーマドと美しく控え目なエリを近づけようとする。貸別荘を管理するおばさんには、アーマドとエリは新婚だと嘘をつく。アーマドはエリを一目で好きになり、エリもまんざらではなさそうだ。

登場人物はみな、豊かな暮らしをしている上・中流階級のようだ。3組のカップルは法律関係の職についているらしい。乗っている車はBMWやプジョー。エリは村上隆デザインの派手なルイ・ヴィトンのバッグを持っている。

今は厳格なイスラム政権になっているが(先日見た『ペルシャ猫を誰も知らない』も、それが映画の背景になっていた)、都市に住む上・中流階級には、ホメイニのイスラム革命よりそれ以前の親西欧的な近代化に親近感を持つ人が多いと聞く。だからイスラム戒律の厳格化に複雑な感情を持ち、そんな気分が、2人を近づけようとするカップルの言動の下地になっているのかもしれない。

ヴァカンスの2日目、海辺で遊んでいたセピデーの子どもが波にさらわれる。皆で子どもを助けあげて気づくと、エリの姿が見えない。エリも子どもを助けようとして溺れたのか、それとも黙ってテヘランに帰ってしまったのか(エリは1泊で帰るつもりのことろを皆に引き留められていた)。

夜になってもエリの行方は分からない。溺れたのなら、生存は絶望的だ。カップルたちはパニックに陥り、嘘をついたり取りつくろいながら(一緒に見た映画友だちのMittyさんは「そんなことしてる場合じゃないでしょ」と突っ込みを入れてた)テヘランのエリの家族に連絡を取ろうとする。

やがて、エリの兄と称する男がやってくる。でもエリに兄弟はいず、男はエリの婚約者らしい。それが分かって、カップルたちは更にうろたえる。婚約者がいるのを知りながらエリをアーマドに取り持ったのなら、彼らのひとりが口走るように「僕たちは殺されるかもしれない」のだから。

男は、管理人からアーマドとエリは新婚だと聞かされて怒っている。この場をどう切り抜けて、自分の生活を守るのか。3組の古い仲間は、夫と妻が言い争い、男同士、女同士もぎくしゃくしてくる。このあたりの心理サスペンスは、見る者をはらはらさせる。

海辺の壊れかけた別荘を舞台に、こうした出来事が進行する間じゅう、カスピ海の波音が画面に響いている。音楽はほとんど入らない。そのことが一層、この映画を印象的にする。この作品、僕には波音の映画として記憶されることになるだろう。

実はエリに婚約者がいるのを知っていたのはセピデーだけだった。エリは、その婚約者がどうしても好きになれないとセピデーに語っていた。だから、セピデーはエリをヴァカンスに誘い、アーマドに紹介しようとした。男と女の、どこにでもある話にすぎない。ハリウッド映画なら、行方をくらましたエリをめぐってコメディに仕立てるかもしれない。それがこの国では生き死にの話になる。

ラスト近く、男はセピデーと2人きりになり、彼女を問いつめる。自分という婚約者がいることを知っていたのか、と。セピデーたちがそれを知っていたのなら、男は「名誉殺人」的な立場に置かれることになり、この場にいる3組のカップルに復讐し、「殺す」ことを選ばざるをえなくなるかもしれない。知らなかったのなら、男がエリに裏切られたという、男と女2人だけの問題になる。セピデーが苦しむのは、どちらの答えを選んでもエリを裏切ることになるからだ。

結局、セピデーは「自分は知らなかった」と嘘をつき、自分たちの生活を守ることを選ぶ。それは結局、エリの婚約者をイスラムの戒律に縛られることからも守ったことになるのだと思う。

脚本・監督はアスガー・ファバルディ。イランではこの映画、大ヒットしたという。いつの時代、どんな場所にもある男と女のお話に、イスラム圏の戒律が絡むことによって起こるドラマ。それがリアルに感じられたのだろう。


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September 15, 2010

京都・大雲院から法観寺へ

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仕事で京都へ行き、3時間ほど自由時間が取れた。さて、どこへ行こうか。夏の特別拝観を調べると、大雲院祇園閣が公開されている。八坂神社の近くを通るたび、この奇妙な建物が気になっていた。

祇園閣は祇園祭の山鉾をイメージして建てられている。もっともこの石造の建築を近くから見上げると、下の石造部分は中国ふうに、上部の望楼は日本の城郭のようにも感じられる。

祇園閣は古い建物でなく、昭和の近代建築。1928年に伊東忠太の設計で建設された。

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伊東忠太といえば明治から昭和前期に活躍した建築家で、明治神宮や築地本願寺、大倉集古館、植民地の樺太神社、朝鮮神宮などの設計で知られる。

インドや中国の様式を取り入れた独特の建築は、築地本願寺を見れば分かるように、東洋的なデザインと近代建築が結びついたもの。どう評価するかは別として、大日本帝国のオリジナルな建築の創始者と言っていいのだろう。戦争期に流行したファシズム建築「帝冠様式」(近代建築の上に日本風な意匠を乗せた建物)の源流と言えるかもしれない。

その逆オリエンタリズム(?)のせいかどうか、この建物は京都の寺や町屋の風景のなかでどこか違和感がある。

戦後、大雲院が四条寺町からここに移って、祇園閣も大雲院の所有になった。大雲院は祇園閣を修復し、その際、入口から楼上へ登る階段室に敦煌の壁画が模写された。だから、内部はずいぶんカラフル。

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この場所はもともと大倉喜八郎の別荘で、祇園閣はその敷地内に喜八郎によって建てられた。

大倉喜八郎は幕末に鉄砲商として身を立て、維新後は政治家・軍部と結びつき西南戦争、日清・日露戦争を通じて軍需物資調達・輸送で巨利を上げた「死の商人」。大倉財閥の創始者で、関与した企業は帝国ホテル、ホテルオークラ、大成建設など現在残っているものもたくさんある。

祇園閣に登ると、京都の町が一望のもとに見下ろせる。知恩院の山門すら見下ろす角度になる。喜八郎は祇園閣ができた年に亡くなっているから、彼がここに立ったのかどうかは分からない。でも気分としては、京都を征服したつもりだったんだろうな。大倉喜八郎と伊東忠太の組み合わせは、近代日本のいかがわしさを象徴しているようにも感じられる。

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祇園閣の脇には、やはり伊東の設計で木造の喜八郎別荘がある(現在は大雲院書院)。手前の応接室が八角形なのが伊東らしい。

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祇園閣から見下ろされた法観寺の五重塔(八坂の塔)まで歩く。ここはいつも脇を通るだけだったので、今日は塔に入ってみよう。

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うかつにも知らなかったけど、この塔は古いものなんですね。寺伝によれば589年、聖徳太子によって創建された。塔は何度か焼けているけれど、中心礎石は白鳳様式で創建当初のものが残り、「日本での仏舎利信仰の原点とされている」という。その礎石をのぞくことができる。

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塔内部。中心の柱。1436年に再建されたもの。

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塔の2層から八坂通を見る。

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September 07, 2010

新宿 午後5時50分

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東京の写真好きなら、この場所からシャッターを押したことのある人も多いはず。ニコンサロン新宿のある新宿エルタワー28階から西口大ガード、歌舞伎町方面を見る。ネオンが色づきはじめる灯ともし頃。

ニコンサロンは鷲尾倫夫写真展「望郷・エトセトラ」(~9月13日)。横浜・寿町に住む人々のポートレートと、それぞれ故郷に帰れない事情をもつ彼らに代わって、その故郷を訪ね歩いたもの。クローズアップされた顔に刻まれた「時間」が胸を打つ。

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『悪人』 祐一はなぜ光代を殺そうとしたか?

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年若い友人に誘われて、久しぶりに試写室に足を運んだ。週刊誌の芸能欄を担当していた20代のころはよく通ったものだけど、ある時期から、やはり映画はカネを出して見なければと思うようになった。業界人が仲間内でおしゃべりしている閉鎖的な空気は当時も今も好きになれない。

見たのは『悪人』。吉田修一の原作は、ここ数年で読んだ日本の小説のベストだった。彼はこの映画のために李相日(リ・サンイル)監督と共同で脚本を書いている。面白い小説から面白い映画はできにくいというジンクスもあるけど、さてどうか。そんな興味もあった。

見終わっての感想。とてもよくできている。小説とは少し重心がずれてるけど、そのずれも納得できるものだった。

小説『悪人』を映画化するに当たって、いちばんの勘どころは主役である祐一(妻夫木聡)のキャラクターをどう設定するかだろう。

小説は三人称で書かれている。祐一や、殺人犯である祐一を愛することになる光代(深津絵里)はじめ、多彩な登場人物に作者の視点が次々に移動しながら進む。

ところが主役である祐一の視点からの描写は意外に少ない。祐一は、他の登場人物と接する場面で相手との会話を通じて、あるいは相手の視点からみた人物像として受動的に描写されることが多い。これは多分、吉田修一が意識的に選んだことだ。祐一の内面にあえて踏み込まず、他人の目を通して描くことで、祐一自身にもよく分からない彼の内面のとらえどころのなさ、それゆえの得体の知れなさを意図したんだと思う。

だから、祐一はなぜ佳乃(満島ひかり)を殺したのか、そして最後になぜ光代を殺そうとしたのか。何人もの登場人物の視点から、いろんな解釈ができる多義的な結末で小説は終わっていた。祐一は「悪人」なのか、ふとしたはずみで人を殺した普通の男にすぎないのか。どちらとも取れるけれど、どちらにしても解釈しきれない部分も残る。

でも映画はそうもいかない。いや、インディペンデントの映画ならそんな冒険もできるかもしれないが、大量の観客を動員しなければならない大手の作品では多数の観客を納得させなければならない。ある種の分かりやすさが求められる。

吉田修一が自ら脚本にかかわったのは、そんな条件のなかで原作の意図を損なわず、何人もの視点のなかから誰を重点的に選ぶか、「重心移動」によって多数の観客を納得させられる映画をつくれるか、自分で試してみたい。そんな挑戦だったのではないか。

どこへ「重心移動」したかといえば、李相日と吉田修一が選んだのはまず光代であり、佳乃の父(柄本明)だろう。

(以下、ネタばれです)映画は最後、光代の回想で終わる。回想のなかで、祐一と光代は逃げこんだ岬の灯台に立って、眼下の海を眺めている。朝日が2人の顔を照らす。

光代の回想のなかで、祐一が殺人者であっても、自分を殺そうとした男であっても、そんなことは関係ない。光代の意識のなかで、彼女は祐一を愛し、祐一も光代を愛した。小説にはないこの回想シーンはそう告げている。そのことによって、映画は光代の「純愛」で終わる。

その前のシーンで、祐一は光代を殺そうとする。追い詰められての衝動的なものか、祐一自身が光代を殺すことを予期していたのか、どちらとも取れるけれど、小説ではいちばん印象的なそのシーンの衝撃が、その後に挿入された光代の灯台の回想シーンによって弱められている。さらに、最後の一瞬に警察に取り押さえられた祐一が光代に手をさしのべ、遂に触れあわずに終わる(まるで加藤泰の映画みたいな)「祐一の光代への愛」を示すショットが挿入されている。

祐一を演ずる妻夫木がいかにも善人顔をしてることもあって、祐一の彼自身にすらよく分からない不可解さと、それ故の不気味さは減り、佳乃を殺したのも、光代に手をかけたのも、怒りにかられ、あるいは追い詰められての衝動的な行為だったようにも見える。

小説が多義的に解釈できる結末だったのに対し、映画は「愛」で終わる。その分、映画はヒューマンなテイストになった。

そのテイストを補強しているのが、佳乃の父の存在だろう。娘を殺したかもしれない男を追う父は、肉親の心情だけでなく、社会的な大人の常識をも代表している。「アンタ、大切な人はおるね?」という彼のセリフが、小説よりもぐっと重く感じられる。また祐一の祖母(樹木希林)と彼女を取り囲むマスコミ(=世間)の挿話も図式的だけど社会的な広がりを出している。そんなふうにヒューマンな筋を通すことによって、映画は多くの観客に納得できるものになったのだと思う。

役者はみな、はまっている。なかでも、光代を演じた深津絵里なしではこの映画は成立しなかったろう。最初と最後、勤めている国道沿いの紳士服量販店から自転車で田んぼのあぜ道を通ってアパートに帰るシーンが2度出てくる。最初の光代と最後の光代は、ほとんど別の女性になったと言ってもいい経験をしているのに、同じ服を着て同じ道を走っている。地方都市に生きる30代独身女性の日常のリアリティが見事(これを書いているとき、モントリオール映画祭主演女優賞を受賞したというニュースが飛び込んできた)。

満島ひかりは『愛のむきだし』のエキセントリックな女の子もよかったけど、この映画では普通の女の子を好演。柄本明や樹木希林がいいのは言うまでもない。

それ以上に素晴らしいのは福岡、佐賀、長崎のロケ。ことさら地方色を出すわけでもなく、日本中均一で薄っぺらな新しい建物に古い家屋が混在する地方都市のありようと、町の外に広がる山と海の風景が丹念に捉えられている。祐一と光代が最後に逃げこむ灯台(五島列島福江島)の撮影は、灯台の下にセットの小屋を建て、冬12月の大変な撮影のようだったけど、それだけの効果は出ている。

李相日監督は『フラガール』以来。『フラガール』もそうだったけど、面白いエンタテインメントをつくりながら人間をきっちり描き、自分のメッセージを込められる。商業映画は3本目の若い監督なのに、メジャーな映画作りの王道を行く。僕はミニシアターにかかるマイナーな映画を見ることが多いけど、映画の本流はやっぱり大衆的なエンタテインメントにある。こんなレベルのメジャーな映画をもっとたくさん見たい。


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September 04, 2010

秋の雲

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今日も気温は35度だけど、空を見上げれば秋の雲。わが家はエアコンがなく、扇風機だけでこの夏を乗り切ったけど、いいかげん夜だけでも涼しくなってほしい。半蔵門付近で。


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September 03, 2010

『シルビアのいる街で』 街の触感、街の音

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最近、こういう映画を自分のなかでどう評価したらいいのか、迷うことが多い。ありていに言えば、見てて寝てしまったんですね。しかも2度も。ジジイになったせいか、暑さのせいか、日中動いて夕方か夜に映画館に入ると、ふっと寝てしまうことが時々あるんですよ。

じゃあ『シルビアのいる街で(原題:En la ciudad de Sylvia)』がつまらない映画なのかと言えば、そうでもない。いや、面白い映画と言ってもいいかもしれない。主人公の「彼」(グザビエ・ラフィット)がフランスのストラスブールの町をさまよう長いシーンなんか、迷路のような古い街並みを見ているだけで惹きこまれてしまう。

それなのに眠気をこらえきれなかったのはなぜかといえば、物語らしい物語がなく、しかもそれがくっきりしていないこと、映画的な時間の圧縮(人の一生を2時間で見せてしまうような)が少ないことが理由かもしれない。そしてそのふたつともホセ・ルイス・ゲリン監督の意図したことであり、僕はそういう映画が嫌いでないから、自分で困っているんだと思う。

説明的な映像やセリフがほとんどないこの映画を見ていて分かる物語の枠は、「彼」がかつてストラスブールでシルビアという女性と出会い、愛し合ったらしいこと。6年後、「彼」はシルビアと会ったカフェで彼女の面影を追いながら女たちを眺めている。やがてシルビアと似た女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)を見つけ、彼女の後を追ってストラスブールの街を歩き回る。

物語と言えば、それだけ。それ以上の発展はない。しかも、「彼」がどんな男なのかは、何も説明されない。カフェに座った「彼」は女性たちをスケッチしているから、画家なのかもしれない。でも女性を執拗に追う視線や、シルビアに似た女の後をつける「彼」からは、ヒッチコック映画みたいな偏執的な匂いもしてくる。でも、この線もそれ以上の発展はない。

映画のほとんどが、カフェで談笑する女性たちのアップと、「シルビア」と「彼」が街を歩くだけの映像で構成されている。ハリウッドのエンタテインメントなら2、3分で片づけてしまいそうな部分で1本の映画をつくっているわけで、だからこれ、カフェの女性たちの映像とストラスブールの街の映像で見せる映画なんだろうな。

僕はどちらかといえば、街のショットに惹かれた。狭い路地と古びた家、黄土色の壁と石畳の触感が素敵だ。落書きのある同じ場所が何度も出てきて、迷路のような感覚を味わう。路面を走るトラムの響きや人の話し声や足音、壜が坂をころがっていく音など、街の音をリアルに拾っているのもいいな。もっとも人の流れを見ていると、街のショットのすべてがきっちり計算され演出されているのが分かる。あえて「自然さ」を装わないのも監督の意図か。

女性たちのシーンは、ガラスに映った女性とガラスの向こうの女性が重なりながら動くショットや、後ろ姿の女性の髪が風になびくショットなんか素晴らしい。でも全体としては望遠系のレンズが多い女性の部分より、広角系を使った街の映像のほうが見る者に響いてくる。

そんなふうに魅力的なショットがいくつもあるのに眠くなってしまったのは、結局、物語的な動きがほとんどないからだろう。僕の学生時代はゴダール全盛で、ヌーベルバーグはじめ反物語的な映画も(一方で、ハードボイルドやミステリーのエンタテインメントとともに)大好きだったんだけど、年食って反動的になり、やっぱり物語の面白い映画がよくなってきたという身も蓋もない現実なのか。否定したいけど、否定しがたいのも事実だなあ。


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