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July 30, 2010

『インセプション』 夢の中の夢の中の夢

Inception

クリストファー・ノーラン監督のデビュー作『フォロウィング』は見てないけど、第2作の『メメント』以来、彼がずっとこだわっているのは、目の前に広がるこの現実は実は現実ではないのではないか、という問いではないのか。

『メメント』の10分しか記憶を保てない男。『インソムニア』では白夜の不眠症で記憶と現実の境があいまいになる刑事。『ダークナイト』では、現実の裏に広がるダークサイドへと誘うジョーカー(ヒース・レジャー)のほうがバットマンより魅力的だった。いずれも、記憶や夢や悪の哲学によって現実が腐食されてゆく。

でもノーランはそこから現実を離れて一気に幻想世界に飛び移り、ティム・バートンやテリー・ギリアムのようにその世界に遊ぶタイプではないらしい。あくまで現実にこだわりながら、夢や幻想によって現実を変形させようとする。まるでナマの現実よりこっちの「現実」のほうがリアルで面白いよ、と言いたげだ。

『インセプション(原題:Inception)』では夢が現実に侵入し、現実を食い破る。

ハイパーモダンな二条城みたいなサイトー(渡辺謙)の屋敷。パリのカフェに座るコブ(レオナルド・ディカプリオ)とアリアドネ(エレン・ペイジ)の周囲で風景が爆発してゆく。パリの街路が向こう端からぐぐぐとせり上がり、二つ折れになって上空からのしかかる。海岸で崩れ落ちる廃墟の高層ビル。

コブとアリアドネは夢を共有し、他人の夢に入り込み、夢をつくる「設計士」で、彼らが設計した夢のイメージ群がこの映画のみどころだ。彼らの設計する夢が3層構造になっていて、夢と、夢の中の夢と、夢の中の夢の中の夢では流れる時間が異なるという設定で物語を複雑にしている。現実と3層の夢が入り乱れて進行するうち、見る者も主人公たちも、いま自分がどこにいるのか分からなくなったり、現実に戻れなくなったりしてしまう。

しかもコブは妻・モル(マリオン・コティヤール。魅力的)の自殺がトラウマになっており、モルの夢には常にエデット・ピアフの歌とともに彼女が現れて、設計された夢の進行をさまたげる。そんなふうに幾重にもはりめぐらされた迷宮をさまよう感覚が、この映画の面白さ。

もっともそのあたりの構造がぜんぶ分かり、最初は新鮮だった夢の映像にも慣れてしまうと、『マトリックス』がそうだったようにノン・ストップのアクションでもやや退屈する。よく考えれば、すべては夢のなかで現実には何も起こらないわけだし。

ラストは、夢と現実が交錯する映画らしく、これしかないだろうという終わり方。ノーラン監督にはもう少しダークなテイストを期待したんだけど、これはこれでアクション映画として楽しめる。

『2001年 宇宙の旅』や『市民ケーン』を思い出させるベッドや風車のショットがあるのも、にやりとさせるな。


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July 28, 2010

『ぼくのエリ 200歳の少女』 現代の民話

Let_the_right_one_in

映画の最初と最後。暗闇にしんしんと降る雪の映像が映し出される。はじめは何かがうごめいているようにしか感じられない抽象化された雪の映像にはさまれて、この映画がリアルな物語ではなくフェアリー・テイルというか北欧の民話みたいなものだと暗示される。

ヴァンパイアものは、このところ世界各国でつくられている。僕はあまり見ていないけれど、韓国の『渇き』などいかにもパク・チャヌク監督らしい、おぞましくも美しい作品だった。

スウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女(原題:Lat den Ratte Komma In)』は、ヴァンパイアものでありながらホラーのおどろおどろしさを極力抑え、少年少女の幼い恋の物語にしたことで現代的な民話の世界に近づいたように思う。

1980年代、ストックホルム郊外の小さな町。学校でいじめられている少年オスカー(カーレ・ヘーデブラント)が、アパートの中庭でナイフを木に突き刺し悔しさをまぎらせていると、ジャングルジムの上からエリ(リーナ・レアンデション)が声をかける。エリはオスカーの隣室に引っ越してきた少女で、夜しか姿を見せず、冬なのにTシャツ一枚。オスカーが彼女に興味を示しても、「友だちにはなれないわ」と素っ気ない。

町では、林で男が逆さ吊りにされ血を抜かれる。猟奇殺人なんだけど、カメラはやや引き気味に犯行現場を見つめ、緊迫感の感じられない日常的な描写で事件が示される(エリの父親が、彼女のために血を求めたのだ)。しばらくすると、ヴァンパイアであるエリが住民に襲いかかるシーンもあるけれど、これもカメラを遠くに据えたワンショット。見る者を驚ろかせるカットを連ねたり、音楽でそれを増幅したり、ホラーやサスペンスで使われる常套的な手法が意識的に避けられている。

その代わりにトーマス・アルフレッドソン監督が描くのは、北国の生活風景だ。オスカーやエリが窓に手を押しつける。雪の積もった外は寒く、室内は暖かいから、手を離した後に水蒸気が手形になって残り、それが蒸発してゆく。そんな静かなショットが印象に残る。

オスカーとエリ、2人の少年少女の無垢な存在感が素晴らしい。ハリウッドでリメイクされるらしいけど、この2人以上の少年少女を見つけられるか。

(後記:トラックバックをいただいたCOLOR of CINEMAさんのブログに興味深いことが書いてあった。エリが着替えるシーンで下半身にボカシが入る。ブログの主emanon23さんが輸入版DVDで確認したところ、このシーンで少女の性器は縫合されていたそうだ。エリは永遠に交われない。それを知っている知らないでは、映画の感想がまた変わってくる。特にエリと父親との関係。原作を読むと、このあたりがもっと詳しく書きこまれているのかもしれない)

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July 25, 2010

見上げれば楠

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真夜中近く、駅を出ると大粒の雨滴がぽつりと落ちてきた。見上げると、駅前に植えられた楠の緑が目に飛び込んでくる。いつも見ている楠だけど、雨のせいか、酔いのせいか、なぜか記憶にとどめたくなってシャッターを切る。


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July 15, 2010

『アウトレイジ』 北野アクションの危うい魅力

Outrage

アクション映画監督・北野武が帰ってきた!

この数年、北野武の映画を見るたびに、アクション映画の監督としての才能は尽きてしまい、あとはアーティストとしての自分自身を素材にアート系映画をつくっていくしかないのかな、と思っていた。彼の最後のアクション映画『BROTHER』(01)があまりにひどかったせいもあるし(その後の時代劇『座頭市』もいまいち)、このところ『TAKESHIS'』『監督ばんざい』『アキレスと亀』と"芸術家映画"が続いていたせいもある。

ところが『アウトレイジ(OUTRAGE)』は、『その男、凶暴につき』『3-4×10月』『ソナチネ』といった初期のアクション映画の傑作群を思い出させる快作。アクション映画好きとしては、その復活を単純に喜びたい。

もちろん、北野武は単純に初期のアクション映画に回帰したわけではない。『その男、凶暴につき』や、特に『ソナチネ』は暴力的でありながら静謐といってもいい画面が印象的だったけれど、『アウトレイジ』はそうした「作家性」を感じさせるつくりではない。

血と暴力と、これは昔と変わらない思わず笑ってしまう場面が、快いテンポでつながれてゆく。エンタテインメントに徹した映画で、その印象は『仁義なき戦い』シリーズに近い。同じアクション映画でも、そのために国際的に評価された作家的な表現に戻るのでなく、娯楽映画に仕立てたところがまたたけしらしい。

ただ、『仁義なき戦い』にあって『アウトレイジ』にないものがある。それは男と男の友情。『仁義なき戦い』も『アウトレイジ』と同じように、同じ陣営に属している同士が陰謀と裏切りを繰り広げ、時に殺し合いをするけれど、それでも菅原文太と松方弘樹がそうだったように、かすかな友情の糸は信じられていた。でも『アウトレイジ』にはそれもない。

だからこの映画に、感情移入できる人物はいない。人と人のつながりが信じられていないから、映画全体が欲望と計算とに支配されている。北野武はインタビューで、この映画から暴力を除いたら日本社会そのものじゃないかと語っているけれど、そのあたりが1970年代の『仁義なき戦い』から『アウトレイジ』を区別する現代性かもしれない。

それに対応するように、映像も情感を湛えた『仁義なき戦い』に対して、『アウトレイジ』はメタリックで色鮮やかだ。黒いメルセデスやトヨタの車体へのフェティッシュな描写や、椎名桔平が殺されるシーンで風力発電装置のある海岸線の風景などが印象に残るけれど、それがあまり心象風景にならないのが逆にいいんだろう。

もうひとつ、逆に『仁義なき戦い』になくて『アウトレイジ』にあるものがある。それは暴力描写の身体性とでも呼ぶべきものだ。

『仁義なき戦い』も血と暴力にあふれた映画だったけど、それは見る者を不快にさせるものではなく(血と暴力が画面に出てくるだけで不快な人はいるかもしれないが)、むしろ映画的カタルシスを与えるエンタテインメントになっていた。

でも『アウトレイジ』では、カッターや包丁で小指を落としたり、歯医者で患者用椅子に座った親分(石橋蓮司)の口に治療具のエアタービンを突っ込んで口中をずたずたにしたり、見る者の感覚を逆なでするような描写がつづく(これではカンヌで不評のはず。アフリカ人が出てくるところはポリティカリー・インコレクトでもあるし)。傷つけられた石橋蓮司がクローネンバーグばりの矯正治療具を顔に装着しているのも、笑いを誘うと同時に、倒錯的な好みをも感じさせる。

これは、アナーキーではあるけれど精神は健全な深作欣二と北野武の資質の差なのかもしれない。僕が北野武のアクション映画から感ずるのは、自分自身を破壊したい自滅願望、もっとはっきり言えば自殺願望が映画のエネルギー源になっていることだ。そんな自滅願望が映画からにじみ出ているところが、北野のアクション映画の危うい魅力だと思う。北野個人の側から言えば、アクション映画はそんな自滅願望をなんとか飼いならすための道具ということになのか。

『ソナチネ』にそのことをひしひしと感じ、この『アウトレイジ』もエンタテインメントなつくりの背後にそれが通奏低音のように流れているのを感ずる。そもそも『アウトレイジ』は、はじめ登場人物がすべて死んでいく物語として構想されたらしい。

役者も北野映画の常連が出ていないのが新鮮。三浦友和も國村隼も石橋蓮司も北村総一朗も生き生きしてる。若い役者も、体重をかなり増やしたらしい椎名桔平(ただ一人、裏切りも計算もしない得な役)、はじめ誰だか分からなかったほどイメージを変えた加瀬亮(冷徹な計算と裏切りで生き残る)と、新しい面を見せる。生き残る者を見極め情報を漏らして出世する警察官の小日向文世も効いている。出番は多くないけど板谷由夏も好きな役者。


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July 13, 2010

きゅうりの収穫近し

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きゅうりの実が大きくなってきた。2日後には収穫できそう。最初の1本は糠漬けにしよう。

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ミニトマトはまだ青い。

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こちらはゴーヤの花。実はまだ。

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槿の花が満開になった。花が開くと1日か2日でぽとりと落ちるが、夏の盛りまで途切れることなく咲く。


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July 06, 2010

『闇の列車、光の旅』 アメリカ行きの貨物列車

Sinnombre

3年ほど前、ニューヨークの語学学校に1年間、通ったことがある。学校にはヨーロッパ、アジアはじめいろんな国の人間がいたけれど、特に多いのが中南米から来たヒスパニックの若者だった。

クラスでの授業は、毎日さまざまなテーマを決めて討論形式で進められる。僕らのクラスを担任する教師は、討論に当たって守るべきルールをふたつ定めていた。ひとつは、他人の悪口、他の国の悪口を言わない。もうひとつは、ビザについて話さない。

語学学校の学生にとって、ビザは微妙な問題だ。きちんとした学生ビザを持っている者もいれば、観光ビザで通ってきている者もいる。学生ビザを持っている人間でも、それはあくまで方便で、違法に働きながらアメリカ永住のチャンスを狙っている者もいる。なかには偽のビザやパスポートで通っている「不法移民」もいるかもしれない。教師はそれぞれの学生がかかえている、人によっては口にできない事情を慮ってそんなルールを定めたのだった。

『闇の列車、光の旅(原題:Sin Nombre、名無し)』を見終わって、主人公の少女、サイラ(パウリーナ・ガイタン)は、ひょっとしたら僕のクラスにいたかもしれないな。そう思った。

中米ホンジュラスに暮らすサイラは、アメリカから強制送還された父、伯父とともに、父がニュージャージー(ニューヨークの隣接州)に残してきた家族と再会するため、グアテマラ、メキシコを経てアメリカを目指す。サイラたちのようにビザもパスポートも持たない不法移民は、メキシコでは貨物列車の屋根に乗って1000キロ以上の旅をしなければならない。

サイラたちが貨物列車の屋根に乗ろうとするグアテマラ、メキシコ国境の始発駅・タパチュラには、ギャング団に属する少年カスベル(エドガー・フロレス)がいる。ギャング団は、貨物列車に乗る移民から金品を巻き上げるのを生業にしている。ギャング団のリーダーに恋人を奪われ殺されたカスベルは、列車の上でサイラを襲ったリーダーを衝動的に殺してしまい、それを知ってカスベルを追うギャング団からの逃避行をサイラとともにつづけることになる。

テーマは不法移民であり、スタイルはロード・ムービーであり、中身はサイラとカスベルの青春物語である『闇の列車、光の旅』は、オーソドックスなつくりで、静かに訴える力をもった映画だった。

物語のかなりの部分が列車の屋根の上で進行するのが、なにより素晴らしい。列車を舞台にした映画はたくさんあるけれど、屋根の上というのは記憶にない。

サイラとカスベルは、走る列車の屋根で風に吹かれ、雨に打たれ、飛行機雲が横切る青空に見入り、線路脇の木の葉に顔をなでられる。列車の屋根で2人は緑濃い森や遠く雪を戴いた山や、斜面に広がるスラムや線路脇で移民に果物を投げてくれる子どもたちに出会う。サイラやカスベルの目から見るそうした風景が印象的だ(実際に列車やトレーラー車を走らせて撮影している)。

その一方、夜の国境の駅にひしめく移民たちを、まるでうごめく虫みたいに俯瞰で捉えたショットや、体や顔面に禍々しいタトゥーを入れたギャングがたむろするスラムのすさんだ光景は、見る者に中米の国々のリアルを伝えてよこす。

(以下ネタばれです)ラストシーン。ひとりアメリカ国境を越えたサイラは、初めて見るアメリカの都市郊外風景、スーパー・マーケット、シアーズの建物の傍らにしゃがみこんでしまう。やがて彼女は公衆電話をかけ、ニュージャージーの家族と電話が通じたところで映画は終わるけれど、これがハッピーエンドであるとは思えない。

サイラが生まれ育ったホンジュラスは、アメリカの巨大企業ユナイテッド・フルーツがバナナ農園を経営して国の経済を支配してきた「バナナ・リパブリック」だ。でも「バナナ・リパブリック」の貧困から脱出してアメリカへ来た移民の大多数もまた、ビザもなく言葉もしゃべれなければアメリカ国内で再び貧困を強いられる。映画はひとまず終わるけれど、ここからまたサイラの新しい物語が始まるのだと感じられる。

原題のSin Nombre(名無し)は、サイラとカスベルと主役に名前はついているけれど、どんな名前とも交換可能な、中米のどこにでもある現実を描きだしているからだろうか。あるいは、アメリカ国境を越えても不法移民は名無しの存在として生きていかなければならない、という含意なのか。

サイラを演ずるメキシコ人女優、パウリーナ・ガイタンの一途な表情もよいけれど、カスベルを演じてこれが映画デビュー作になるホンジュラス人、エドガー・フロレスの虚無を秘めたぶっきらぼうな身体表現が魅力的だ。この映画のプロデューサー、ガエル・ガルシア・ベルナルのデビュー当時に似てるかも。

脚本・監督のキャリー・ジョージ・フクナガは日系4世のアメリカ人。過剰にセンチメンタルにならず、エンタテインメント性もたっぷりで、見た後の爽やかさもある。これが長編デビュー作とは思えない。


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