『書と日本人』で目ウロコ
石川九楊という名前は、昨年、大仏次郎賞を受けた『近代書史』の著者として知った。受賞作を書店でぱらぱら見たけれど、あまりの大部に恐れをなして手が出なかった。先日、文庫で『書と日本人』(新潮文庫)が出ているのを見つけたので読んでみたら、これが面白い。
書というのは、自分には無縁の世界だと思っていた。でも書は、日本語の成立と大きく関係しているというのが石川の考えだ。
飛鳥・奈良時代には官営写経所が設けられ、大量の写経がなされた。正倉院にはその時代の写経が大量に残されている。写経は宗教的な営為であるとともに、漢語を使いこなせる人材の育成を目指した律令国家の「一大識字運動」でもあった。その結果、『古事記』『日本書紀』が書かれ、万葉仮名を使った『万葉集』が編纂されたことは教科書で習った。
「『万葉集』成立以前には、そこに定着された言葉(倭語)以上に、さまざまの語彙や文体、言《はなしことば》の構成法(前倭語)が多様、多彩に存在したと考えられます」と石川は書く。
例えば雨は、古くは「あめ」だけでなく「たれ」や「れ」という読みもあったけれど、そのなかから「あめ」が選ばれて「あめ=雨」という表記が定着した。
「漢字を当て嵌める以前は、一つのものに対していろいろな名称がついていたが、それが整理され、そのなかからある種の言葉が選ばれて記され、記されたことによって固定する──そのようにして生まれたのが倭語です。そしていったん書きとどめると、それが標準語のようにひとつの基準として、再度逆に普及し、仮名《かな》文字を使う層が識字階層の周辺に定着していくことになるのです」
こうした過程は、漢字を楷書ではなく、かたちを崩した行書体や草書体で書くことから平仮名が成立するなかでも進行した。
たとえば「あめ」と書かれた音がもともと「ame」と発音されていたかどうかは分からない。もとは「woamie」と発音されていたものが「安免」と表記され、それが平仮名で「あめ」と表記されるようになったことで「ame」という発音が定着したのかもしれない。奈良時代に母音は8音あったけれど、平仮名ができた平安時代中期以降は母音が現在と同じ5音になったという。
「この過程は、言《はなしことば》の倭語を文字で固定したというよりも漢字・漢語を媒介に『倭語をつくった』という方が近い」と石川は言う。
「したがって『倭語』が古来からこの孤島にあった言葉であるとは、言いきれません。もともと孤島にあった言葉とは、前アイヌ語、前沖縄語のような書きとどめられることのなかった前倭語であったと考えればよいでしょう」
僕らはどうも、日本列島ではもともと日本語が話されていて、それを漢字を借りて表記するようになって文字を持ったと思いこみがちだけど、それは逆で、漢字を導入したり、さらに平仮名が生まれてくる過程ではじめて倭語(日本語)が成立したという説は新鮮だ。
ほかにも鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など)の経文によって漢字仮名交じり文が民衆に普及したとか、江戸時代の遊廓は街に出た後宮のようなものとか、面白いテーマが詰まってる。
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