『息もできない』 新開地の暴力
『息もできない(英題:Breathless)』の舞台はソウル。主人公のチンピラ、サンフン(ヤン・イクチュン監督自らが演ずる)が立っている街角にカンアクク(冠岳区)という地名がハングルで書かれていた。
冠岳区はソウルのまんなかを流れる漢江(ハンガン)の南にある。同じソウルの町でも、漢江の北にあるか南にあるかで、町の成り立ちや雰囲気はまったく違う。朝鮮王朝の王都として発達した旧市街は漢江の北にある。漢江の南が市街地になったのは戦後のことで、地方の農村部からやってきた人たちが旧市街の外側である漢江の南の丘陵に住みついた。
僕は25年ほど前に冠岳区の奉天洞というところに行ったことがある。急な斜面いっぱいに、小さな家々が密集していた。その後、ソウル・オリンピックをきっかけに韓国は高度成長の時代を迎えた。首都のソウルは膨張し、漢江の南も再開発されて、新しいマンションが次々に建設された。今年1月、二十数年ぶりに奉天洞に行ったら、かつて小さな家々が密集していた丘は高層マンション地区に様変わりしていた。
映画に出てくる冠岳区、暴力的な取り立て屋のサンフンと、彼と知り合う女子高生ヨニ(キム・コッピ)が住んでいるあたりに高層マンションはなく、僕が25年前に行ったときの風景を思い出させる。急な坂道に沿って建てられた粗末な家々。漢江の北の繁華街、明洞を歩いている流行のファッションを身につけた若者など、まったく見かけない。
父と子、兄貴分と弟分。家庭や仲間内で連綿とつづく暴力の連鎖を描いたこの映画の舞台として、漢江の南、新開地のすすけた風景こそふさわしい。ヤン・イクチョン監督は、そんな戦後の雰囲気を残している町を求めてロケしたのだろう。
儒教が根づき、父系社会である韓国で、年長者である父親の権力は絶対だ。彼らは時に家族に暴力をふるい、妻や子どもはただ耐えるしかない。そんな風潮は在日韓国人社会でも同様らしく、梁石日(ヤン・ソギル)の『血と骨』(崔洋一が映画化)でも父親のすさまじい暴力が描かれていた。
この映画でも、サンフンの父は妻に暴力をふるい、家族を死なせてしまう。刑期を勤めて帰ってきた父に、サンフンは憎しみと怒りを隠そうとしない。ヨニの父親はベトナム帰還兵だが(韓国はベトナムに派兵した)、母親に去られ、今は酒浸りで精神を病んでいる。ヨニはアルバイトをして家計を支え、父の面倒をみている。
脚本も書いたイクチョン監督は、「自分は家族との間に問題を抱えてきた。すべてを吐き出したかった」とインタビューに答えている。おそらくイクチョン監督も、父との間になんらかの問題を抱えていたのだろう。サンフンとヨニを主人公とするこの映画のもうひとつのテーマは、父との葛藤と和解と言ってよさそうだ。
ごろつきのサンフンと勝ち気なヨニが、サンフンがすれ違いざまヨニに唾をかけたことから言い合いになる。それがきっかけで二人は言葉を交わし、やがて心を通わせるようになる。相手をののしる「獣の言葉」しか持たないサンフンと、孤独な女子高生ヨニ。恋というのでもないし、友情でもない。魂と魂が寄り添うような関係。
その過程をイクチョン監督は、熱く、激しく描いている。暴力でしか自分を表現できないイクチョンの荒れ狂う姿に密着する手持ちカメラ。見ていて、深作欣二の『仁義なき戦い・広島死闘編』で北大路欣也が、『仁義の墓場』で渡哲也が演じたちんぴらの壮絶な生き死にを思い出した。
もっとも『息もできない』は、『仁義』2作品のように絶望的に暗い映画ではなかった。それは、なによりサンフンとヨニが心を通わせ、最後に家族を理解し、ひいては父と和解しようとするからだろう。
「父との葛藤」というテーマは近代日本の小説や映画の主要なテーマのひとつだし、1947年生まれの僕らの世代くらいまではリアリティがあった。僕らの世代からも、中上健次はじめ小説も映画もいろんな作品が生まれている。でも最近のこの国では、小説でも映画でも、とんとお目にかからない。それだけ家族の解体が進んだということなんだろうけど、こういう熱い映画が生まれないことを寂しくも感ずる。
(韓国語ポスターの「トンパリ」というタイトルの意味が分からない。どなたか教えていただけませんか?追記:健氏によると「糞バエ」だそう。)
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Comments
「使える韓国語単語」によると
最初の文字が「うんこ」
後ろの二文字が「蝿」ですね。
ネット上では「糞バエ」と訳されているみたい。
Posted by: 健 | April 02, 2010 09:18 AM
ありがとう。さっそく韓国語学習の成果ですね。僕が持っている金素雲の「新・韓日辞典」(1968)には載ってない。「糞バエみたいなやつ」という俗語なのかな。
Posted by: 雄 | April 02, 2010 11:23 AM
正直言って希望がある分、打ちのめされることはなく、
そういった意味ではいささか食い足りなかったところもあったのですが、
主人公の凄みある危なっかしさに雄さん同様、「仁義の墓場」での渡哲也を思い出してしまいました。
そして柳町光男監督あたりがかつてだったら撮りそうなこういった映画、
今の日本ではもう生まれないかも知れないなぁとも思ってしまいました。
Posted by: nikidasu | May 13, 2010 08:54 PM
パク・チャヌク、キム・ギドク、そしてこのヤン・イクチュンと、ねじくれてはいるけれど熱い監督が次々出てくるのは、個人の才能というより社会がこういう才能を必要としているんでしょうね。
ほんとに日本映画は良くも悪くもクールな映画ばかりで、東映ヤクザになじんだ世代には寂しいかぎりです。
Posted by: 雄 | May 14, 2010 12:03 PM