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April 28, 2010

浦和ご近所探索 立原道造ヒアシンスハウス

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ときどき散歩する別所沼のほとりに、木造の小さなロッジふうの小屋がある。いつも閉まっているので気にも留めなかったが、日曜日にぶらりと行ったら開いていた。立原道造ヒアシンスハウスとある。

詩人の立原道造は東大で建築を学び、卒業後は建築事務所に勤める建築家だった。立原は、友人で同人誌仲間の神保光太郎が住む別所沼に週末の別荘を建てる構想を持ってスケッチを描いていた。彼はこの小住宅をヒアシンスハウスと名づけ、文学と建築のための自分だけの空間にしようと考えていたらしい。でも、スケッチを描いた翌年、24歳の若さで夭折する。

そのスケッチをもとに2004年に建てられたのが、この小屋。

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5坪足らずの小住宅。沼に面した側は読書や創造のための板の間。窓が大きく開いている。反対側にはベッドと、つくりつけの書棚に机。それだけの、シンプルな空間。立原の詩と通じあうところがある。

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窓の外は別所沼。今は公園になっているが、立原が訪れた時代には木立に囲まれ武蔵野の面影をたたえていたろう。


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April 26, 2010

快楽亭ブラックを聞く

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わが隣人のIさんは川柳をたしなむ粋人なのだが、大学時代は落研にいたから落語にも強い。そのIさんから、快楽亭ブラックって噺家がいましてね、普通の寄席には出ないんだが、名前の通りブラックな落語が面白い、なんて話を聞いた。調べたら浅草で「快楽亭ブラック毒演会」なるものがあったので、さっそく出かけてみた(4月24日、木馬亭)。

瀧川鯉朝、立川談之助の後に登場した快楽亭ブラック師匠。太い眉にギョロ目、前歯の抜けた風貌からして怪しい。枕で軽く笑わせてやおら始めたのは……、とても文字にはできません。文字通りブラックな下ネタでしたね。しかも師匠はディープな日本映画評論家でもあり、男の子と女の子が入れ替わる大林宣彦『転校生』をもじったシュールな展開で、うーむ。マスコミではタブーも多い、ネタになった業界の方々が聞いたらどんな顔をするか。

名前からして落語家らしくないけど、プロフィールを見たらちゃんとした経歴の人なんですね。1952年生まれで、立川談志門下に入門。92年、二代目快楽亭ブラックを襲名して真打ち昇進。00年には芸術祭優秀賞を受賞している。しかし「放送禁止用語を連発する過激なネタにファンも多いが敵も多く、出入り禁止になった寄席は数知れず。05年、多額の借金を理由に立川流を除名」っていうんだから、噺も生き方も破滅型なんでしょう。

今日のは新作だったけど、古典や古典をブラック流に改編した噺もやるらしい。こちらも聞いてみたいもんです。

「快楽亭ブラックの出直しブログ」http://kairakuteiblack.blog19.fc2.com/には、師匠の呑む打つ日々や日本映画三昧が記され、女友達(?)の影もちらほらし、なにより落語に打ち込む姿勢が半端じゃなくて面白い。この男の生きざまを見届けたいという思いにさせられる。

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April 24, 2010

連弾ライブ

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友人の作曲家・淡海悟郎君と松井朋子さん、酒場での連弾ライブ(東中野、マ・ヤン)。いい気分でチャイコフスキー「くるみ割り人形」などを聞く。

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April 21, 2010

『シャッター・アイランド』 不安の時代

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ゼロ年代に入ってレオナルド・ディカプリオと組んでからのマーティン・スコセッシは、映画でアメリカ史を描くことに興味を持っているように見える。

『ギャング・オブ・ニューヨーク』はニューヨークを舞台に19世紀半ばの移民同士の対立をテーマにしていたし、『アビエイター』は20世紀アメリカを象徴する富豪、ハワード・ヒューズを主人公にしている。『ディパーテッド』は香港ノワール『インファナル・アフェア』のリメイクで現代の物語だけれど、これもアメリカ史に輝く町・ボストンの裏の顔である貧困と犯罪を素材にしたボストン裏面史になっていた。

『シャッター・アイランド(原題:Shutter Island)』の主題は、1950年代という時代。第二次大戦に勝利したのも束の間、東西冷戦がはじまり、国内では赤狩りの嵐が吹き荒れていた。映画には、この時代を象徴するさまざまなキーワードがちりばめられている。

映画の設定は1954年。ボストン沖の孤島に、精神疾患の犯罪者だけを収容する病院がある。この病院には赤狩りの主役である非米活動委員会が関係している、というセリフが出てくる(この作品のセリフはすべて疑わしいのだが、それはひとまずおいて)。

この病院では、収容者に対して人体実験が行われているらしい。この島に捜査に来た連邦保安官テディ(レオナルド・ディカプリオ)は、老医師・ネーリング(マックス・フォン・シドー)のアクセントがドイツ語訛りであることに気づく。戦後間もない時代、ドイツ人、人体実験とくれば誰もが連想するのは、ナチスが強制収容所で行ったさまざまな人体実験だろう。この島にはナチスの残党も絡んでいる?

テディは島に来てから体調が悪くなるのだが、これは薬物投与によってマインド・コントロールしようとする実験であることが明らかになる。また映画の最後に来て、人体実験とはロボトミーであることも明かされる。ロボトミーも、この時代のアメリカで統合失調症患者や粗暴な患者に盛んに行われた非人間的な仕打ち(クリント・イーストウッドの『チェンジリング』でも、ロボトミーが取り上げられていた)。

そんなふうに、ことの真偽はともかく、不安の時代だった1950年代前半を表すキーワードが次々に繰り出される。

それだけでなく、もうひとつ大きな仕掛けがほどこされている。

戦後、赤狩りを背景にした不安の時代に大量に生まれたのがフィルム・ノワールと呼ばれる映画群だった。赤狩りでは、たくさんの映画関係者が召喚されたり、追放されたりし、友人を裏切る者(エリア・カザンら)もいた。フィルム・ノワールの多くはハリウッドのギャング・犯罪映画だけれど、そうした現実を反映して、エンタテインメントにもかかわらずモノクロームの画面は黒く(ノワール)、映画全体の雰囲気も今見ると驚くほど沈んだ、重苦しいものが多い。

『シャッター・アイランド』は、このフィルム・ノワールのスタイルを現代的に再現している。不安を増幅させるような黒く歪んだ画面。ジョン・ケージやブライアン・イーノのノイジーな音楽。島に潜入した捜査官が迷宮をさまよう物語。スタイルそのもので、1950年代というこの映画のテーマを表現しているわけだ。スコセッシは『タクシー・ドライバー』以来、ノワールの匂いを持ち、見る者の神経を逆なでするような映画を何本もつくっているけれど、これもその1本。

最後に、大きなどんでん返しが仕掛けられているわけだけど、それは見てのお楽しみ。おおよそ想像つきますけどね。


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April 19, 2010

サイラス・チェスナットを聴く

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朝起きると、必ず音楽をかける。ジャズのこともあるし、そうでないこともある。ひとりのミュージシャンを聴きはじめるとしばらくは、持っているそのミュージシャンのCDをひとわたり、飽きるまで聴く(今はシャーデーで、「SOLDIER OF LOVE」ほか)。

先日、ふっとサイラス・チェスナットをかけた。久しぶりにサイラスの歯切れのいいピアノを聴いたら、いいんだなあこれが。1990年代に新鋭として売り出したサイラスがピアノ・トリオのアルバムを立てつづけに出したとき、何枚か買ったもの。そのサイラスが東京駅近くのコットン・クラブに出ると知って、聴きに出かけた(4月18日1stセット)。

まずはスタンダードの「イッツ・オール・ライト・ウィズ・ユー」と「シャレード」から。ちっとも変わらないサイラスの音。力強くて、繊細で。鍵盤を乱打する高原状態が続いたかと思うと、さらりとシングル・ノートで酔わせる。定石通りにベースやドラムスにソロを受け渡すこともあまりせず、曲の最初から最後までピアノのワンマン状態。

オーソドックスなんだけど、古くない。最近はアフリカ系のミュージシャンも白人ジャズふうにいろんな音を出すけど、サイラスはあくまで王道を行く。根が明るい音なのも快い。

ほかにオリジナルの「ユーズ・ブルース」や「キャラバン」など。演奏時間が短いわりには(これは不満)、サイラスのピアノをたっぷり聴いた夜でした。


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April 17, 2010

卯月の雪

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季節はずれの雪。敷石の上はシャーベット状になっている。太陽が顔をのぞかせ気温がぐんぐん上がり、昼前には融けた。

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芝桜。

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菖蒲に雪。こんな風景、はじめて見た。


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April 15, 2010

『書と日本人』で目ウロコ

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石川九楊という名前は、昨年、大仏次郎賞を受けた『近代書史』の著者として知った。受賞作を書店でぱらぱら見たけれど、あまりの大部に恐れをなして手が出なかった。先日、文庫で『書と日本人』(新潮文庫)が出ているのを見つけたので読んでみたら、これが面白い。

書というのは、自分には無縁の世界だと思っていた。でも書は、日本語の成立と大きく関係しているというのが石川の考えだ。

飛鳥・奈良時代には官営写経所が設けられ、大量の写経がなされた。正倉院にはその時代の写経が大量に残されている。写経は宗教的な営為であるとともに、漢語を使いこなせる人材の育成を目指した律令国家の「一大識字運動」でもあった。その結果、『古事記』『日本書紀』が書かれ、万葉仮名を使った『万葉集』が編纂されたことは教科書で習った。

「『万葉集』成立以前には、そこに定着された言葉(倭語)以上に、さまざまの語彙や文体、言《はなしことば》の構成法(前倭語)が多様、多彩に存在したと考えられます」と石川は書く。

例えば雨は、古くは「あめ」だけでなく「たれ」や「れ」という読みもあったけれど、そのなかから「あめ」が選ばれて「あめ=雨」という表記が定着した。

「漢字を当て嵌める以前は、一つのものに対していろいろな名称がついていたが、それが整理され、そのなかからある種の言葉が選ばれて記され、記されたことによって固定する──そのようにして生まれたのが倭語です。そしていったん書きとどめると、それが標準語のようにひとつの基準として、再度逆に普及し、仮名《かな》文字を使う層が識字階層の周辺に定着していくことになるのです」

こうした過程は、漢字を楷書ではなく、かたちを崩した行書体や草書体で書くことから平仮名が成立するなかでも進行した。

たとえば「あめ」と書かれた音がもともと「ame」と発音されていたかどうかは分からない。もとは「woamie」と発音されていたものが「安免」と表記され、それが平仮名で「あめ」と表記されるようになったことで「ame」という発音が定着したのかもしれない。奈良時代に母音は8音あったけれど、平仮名ができた平安時代中期以降は母音が現在と同じ5音になったという。

「この過程は、言《はなしことば》の倭語を文字で固定したというよりも漢字・漢語を媒介に『倭語をつくった』という方が近い」と石川は言う。

「したがって『倭語』が古来からこの孤島にあった言葉であるとは、言いきれません。もともと孤島にあった言葉とは、前アイヌ語、前沖縄語のような書きとどめられることのなかった前倭語であったと考えればよいでしょう」

僕らはどうも、日本列島ではもともと日本語が話されていて、それを漢字を借りて表記するようになって文字を持ったと思いこみがちだけど、それは逆で、漢字を導入したり、さらに平仮名が生まれてくる過程ではじめて倭語(日本語)が成立したという説は新鮮だ。

ほかにも鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など)の経文によって漢字仮名交じり文が民衆に普及したとか、江戸時代の遊廓は街に出た後宮のようなものとか、面白いテーマが詰まってる。


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April 13, 2010

『カケラ』 柔らかですべすべ

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主人公の大学生・ハル(満島ひかり)と、彼女に思いを寄せるリコ(中村映里子)が、狭いアパートに寝そべって相手の体を触りながら会話を交わす。「女の子の体って、こんなに柔らかですべすべで、ぷちぷちしてるんだ」(正確に覚えてませんが)。

そのセリフの通り、柔らかで、すべすべしてる映画だなあ。あんまりぷちぷちではなかったけど(なにがぷちぷちか、自分でもよく分かりませんが)。原作は桜沢エリカの漫画。脚本を書き監督したのは27歳の安藤モモ子(奥田瑛二の娘)で、これがデビュー作。

クローズアップの画面が印象的だった。「ぷちぷち」のセリフのところで映し出される、とがった針でちょんと突かれるお尻のアップ。ハルのボーイフレンドが靴下をはいたまま寝ているシーンで、穴のあいた靴下のアップ。同じくボーイフレンドがむしゃむしゃと朝ごはんを食べる口のアップ。

クローズアップの画面は、文字通り映し出されたものを強調する。靴下と口のアップはハルがボーイフレンドに感じている違和感を、お尻のアップは、それと反対に女同士の親密な空気を際立たせる。最近のインディーズ系映画はどちらかといえば広角で引きの画面を基本にし(是枝裕和あたりの影響?)、こういうどアップをあまり使わないから、かえって新鮮だった。

とくに大きな事件も起こらない女の子の日常。変わったことといえば、事故や病気で失った身体のパーツをつくるメデカル・アーティストのリコに思いを寄せられ、彼女がハルのアパートにころがりこんで、女性同士で住みはじめたことくらい。

吉本ばななの『キッチン』以来、女性の小説や漫画でよく見かける世界だけど、それがごく素直に、デビュー作らしくないこなれた(逆にいえば冒険のない)語りで映像化されてる。その優しい感触が、この映画の生命だろう。女性監督ならではのきわどいシーンやセリフも下品にはならない。リコが工房でつくっている樹脂の乳房や指のパーツが、視覚的な生々しさを与えるのも計算のうち。

満島ひかりは『愛のむきだし』のエキセントリックな女の子がよかったけど、この映画ではもっと普通の女の子を演じて、微妙な感情の揺れをうまく見せてる。

このところ『渇き』『息もできない』といった濃くて熱くてパワフルな韓国映画を立て続けに見たので、『パレード』のクールさや『カケラ』の柔らかさといった日本映画との差が目についた。これは出来の差(出来については2本の韓国映画のほうが上)というより、映画を生みだす社会の温度差によるんだろう。


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April 12, 2010

鉛筆の力

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(Violoncello piccolo da spalla #1, 2010。案内パンフレットから)

去年知り合った画家、寺崎百合子さんの個展「音楽」に行く(5月29日まで。銀座・ギャラリー小柳)。

寺崎さんがどんな絵を描くかも知らずに一緒にお花見をしたり、著書(『英国オックスフォードで学ぶということ』)を拝見したりしていたけれど、会場にあったのは思いがけない鉛筆画だった。

この世界に疎い私は鉛筆はデッサンやスケッチに使うものとばかり思っていたが、なんとも濃密な世界が立ちあがっているのにびっくり。作品に目を近づけると、寺崎さんの「手の技」がくっきり見える。

バイオリンやチェロやパイプオルガンから生まれた音が、そのまま「もの」として凝固し画面に結晶している。そんな印象を受けた。


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April 09, 2010

浦和ご近所探索 茜茜餃子

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家の近くで食事をするとき、最近いちばん通っているのがここ、北浦和駅西口の茜茜餃子(シーシーぎょうざ)。長春出身の崔さんがやっている店だ。

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ここの水餃子がうまいんだなあ。ニラ餃子とセロリ餃子の2種類。他であまり食べられないセロリ餃子の、ニラとはちがう香りがいい。皮ももちもち。4年ほど前、この店に初めて入って水餃子のうまさに目覚め、それ以来いろんなところで食したけど、ここ以上の水餃子は食べたことがない。

崔さんは十数年前に来日して中国語を教えているのだが、手づくりの餃子がおいしいと評判になり、店を出した。中国東北地方の家庭の味。崔さんに言わせると、「肉は黒豚、皮はいちばんいい小麦粉を使っているので本場よりおいしい」とのこと。

餃子だけでなく、卵とトマト炒め、チジミなども美味。家の近くにこういう店があるのは幸せだ。

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April 06, 2010

浦和ご近所探索 別所沼・4月

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桜の季節になると毎年見に行く別所沼の古木、2本。

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樹勢が弱っているため、木の下には入れないようロープが張られている。桜の寿命は60年といわれるが、僕がガキのころからあった桜だから無理もない。

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春休み最後の日。広場の桜の下では何組もが花見をしていたけれど、ここはぽつりぽつりと見にくる人がいるだけ。


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April 03, 2010

バースデイ・ライブ

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知人のジャズ・ボーカリスト、畑路子さんのバースデイ・ライブに行く(渋谷・JZ Brat)。おいくつ? 赤いドレスを着ているのは、この日のためです。

得意のスタンダードばかりでなく、ビートルズの「When I'm Sixty-four」や、共通の知り合い、故・中島梓さんの曲に畑さんが英語の詩をつけたもの(素敵でした)など。声も姿もお若いです。


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April 01, 2010

『息もできない』  新開地の暴力

Breathless

『息もできない(英題:Breathless)』の舞台はソウル。主人公のチンピラ、サンフン(ヤン・イクチュン監督自らが演ずる)が立っている街角にカンアクク(冠岳区)という地名がハングルで書かれていた。

冠岳区はソウルのまんなかを流れる漢江(ハンガン)の南にある。同じソウルの町でも、漢江の北にあるか南にあるかで、町の成り立ちや雰囲気はまったく違う。朝鮮王朝の王都として発達した旧市街は漢江の北にある。漢江の南が市街地になったのは戦後のことで、地方の農村部からやってきた人たちが旧市街の外側である漢江の南の丘陵に住みついた。

僕は25年ほど前に冠岳区の奉天洞というところに行ったことがある。急な斜面いっぱいに、小さな家々が密集していた。その後、ソウル・オリンピックをきっかけに韓国は高度成長の時代を迎えた。首都のソウルは膨張し、漢江の南も再開発されて、新しいマンションが次々に建設された。今年1月、二十数年ぶりに奉天洞に行ったら、かつて小さな家々が密集していた丘は高層マンション地区に様変わりしていた。

映画に出てくる冠岳区、暴力的な取り立て屋のサンフンと、彼と知り合う女子高生ヨニ(キム・コッピ)が住んでいるあたりに高層マンションはなく、僕が25年前に行ったときの風景を思い出させる。急な坂道に沿って建てられた粗末な家々。漢江の北の繁華街、明洞を歩いている流行のファッションを身につけた若者など、まったく見かけない。

父と子、兄貴分と弟分。家庭や仲間内で連綿とつづく暴力の連鎖を描いたこの映画の舞台として、漢江の南、新開地のすすけた風景こそふさわしい。ヤン・イクチョン監督は、そんな戦後の雰囲気を残している町を求めてロケしたのだろう。

儒教が根づき、父系社会である韓国で、年長者である父親の権力は絶対だ。彼らは時に家族に暴力をふるい、妻や子どもはただ耐えるしかない。そんな風潮は在日韓国人社会でも同様らしく、梁石日(ヤン・ソギル)の『血と骨』(崔洋一が映画化)でも父親のすさまじい暴力が描かれていた。

この映画でも、サンフンの父は妻に暴力をふるい、家族を死なせてしまう。刑期を勤めて帰ってきた父に、サンフンは憎しみと怒りを隠そうとしない。ヨニの父親はベトナム帰還兵だが(韓国はベトナムに派兵した)、母親に去られ、今は酒浸りで精神を病んでいる。ヨニはアルバイトをして家計を支え、父の面倒をみている。

脚本も書いたイクチョン監督は、「自分は家族との間に問題を抱えてきた。すべてを吐き出したかった」とインタビューに答えている。おそらくイクチョン監督も、父との間になんらかの問題を抱えていたのだろう。サンフンとヨニを主人公とするこの映画のもうひとつのテーマは、父との葛藤と和解と言ってよさそうだ。

ごろつきのサンフンと勝ち気なヨニが、サンフンがすれ違いざまヨニに唾をかけたことから言い合いになる。それがきっかけで二人は言葉を交わし、やがて心を通わせるようになる。相手をののしる「獣の言葉」しか持たないサンフンと、孤独な女子高生ヨニ。恋というのでもないし、友情でもない。魂と魂が寄り添うような関係。

その過程をイクチョン監督は、熱く、激しく描いている。暴力でしか自分を表現できないイクチョンの荒れ狂う姿に密着する手持ちカメラ。見ていて、深作欣二の『仁義なき戦い・広島死闘編』で北大路欣也が、『仁義の墓場』で渡哲也が演じたちんぴらの壮絶な生き死にを思い出した。

もっとも『息もできない』は、『仁義』2作品のように絶望的に暗い映画ではなかった。それは、なによりサンフンとヨニが心を通わせ、最後に家族を理解し、ひいては父と和解しようとするからだろう。

「父との葛藤」というテーマは近代日本の小説や映画の主要なテーマのひとつだし、1947年生まれの僕らの世代くらいまではリアリティがあった。僕らの世代からも、中上健次はじめ小説も映画もいろんな作品が生まれている。でも最近のこの国では、小説でも映画でも、とんとお目にかからない。それだけ家族の解体が進んだということなんだろうけど、こういう熱い映画が生まれないことを寂しくも感ずる。

(韓国語ポスターの「トンパリ」というタイトルの意味が分からない。どなたか教えていただけませんか?追記:健氏によると「糞バエ」だそう。)


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